概要
『ONE PIECE』は、1997年から連載されている日本の少年漫画作品。作者は尾田栄一郎。
少年のモンキー・D・ルフィが海賊王になるため「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を目指し冒険する物語。
ほかの漫画・アニメは『ホムンクルス』『薬屋のひとりごと』『君たちはどう生きるか』『3月のライオン』『チ。―地球の運動について―』『しあわせアフロ田中』『失恋ショコラティエ』『ナルト』『僕のヒーローアカデミア』などがある。
最も好きな本が『ワンピース』と言われる時代
「おれの財宝か? 欲しけりゃくれてやる… 探してみろ この世の全てをそこに置いてきた」
1997年7月22日、大海賊ゴールド・D・ロジャーが死の直前に残したこの宣言が全世界に轟き、血気盛んな若者を海へと駆り立てた。野望に満ちた若者たちが犇く大海賊時代の始まりである。
1997年に始まったこの物語は26年後の2023年現在もまだ終わる気配がなく続いている。単行本は第106巻まで刊行されており、2022年8月時点において国内累計発行部数は日本漫画の最高記録となる4億1000万部を突破している。ロジャーの宣言が作中の若者たちを駆り立てたように、大海賊時代を描く『ワンピース』は現代に生きる日本の若者を大いに魅了した。いまや『ワンピース』が日本を代表するフィクションであるといっても過言ではないだろう。
ある時期の純文学小説には、読書に生き方のモデルを提示するという役割があった。宮台真司の『サブカルチャー神話解体』によれば、70年代から80年代の少女漫画もそのような機能を担っていたようだ。しかしそれも長くは続かず、純文学とも肩を並べられるほどに繊細な人間関係を描いた少女漫画も、純文学小説自体も全盛期に比べて相対的に衰退していくことになる。ではそれ以降、特に21世紀に入ってから日本人は何を生き方のモデルにしてきたのだろうか。
私がここで主張したいのは、生き方のモデルとなったのが『ワンピース』の主人公であるモンキー・D・ルフィーと、彼が率いるルフィー海賊団だということだ。これは売上部数からもわかるように決して突拍子もない主張だとは言い切れない。さらにいえばこれは人から聞いたある噂によっても裏打ちされている。その噂によれば、00年代のある時期を境して中学校の先生が生徒を前にして発表する最も好きな本が、夏目漱石の『こころ』から『ワンピース』へと変化したというのである。これは驚くべき変化ではあるものの、如何にもありそうな話でもある。実際、それから20年ほど経った2023年においては、最良の一冊に『ワンピース』を挙げることに抵抗感を覚えない人の方が一般的ではないだろうか。
何故『ワンピース』は愛され続けているのか
21世紀の前半は『ワンピース』の時代だった。それは発行部数からみても、好みの一冊に挙げられるという傾向からみても的を得ていると思われる。だがそうだとしても疑問が残る。それは、一体何故『ワンピース』はこれほどにまで日本人に受けたのだろうか、ということだ。
それは一つの謎である。というのも多くの読者が賛同してくれるように、万人受けし数億冊も売れるほど面白い作品ではないからだ。字が多く読みづらく、キャラクターは単調で敵の攻略はワンパターン、さらに登場キャラが多くなりすぎて新規参入読者を拒む傾向にある。それでも読者になろうとすれば、20年以上かけて描かれた100巻以上の漫画が待ち受けている。それは多くの読者にとって酷なもののはずだ。
この特徴を逆手にとって、こう言うことができるかもしれない。新規参入が難しくそれでいてストーリーが単調であるからこそ愛されているのだと。昔から日本では『水戸黄門』のような単純な話が喜ばれた。正義の主人公が悪の権化である敵を倒す。登場人物がいくら増えようがその基本構造は変わらない。同じパターンの物語が繰り返されているだけであることは、人気作の条件であって障害ではない。
ルフィーのキャラクター造形に注目する向きもある。大胆でいて真剣、自分はいくらバカにされようと笑って済ませるが仲間がバカにされたら本気でキレる、それでいて時に仲間にも覚悟を持って厳しく接し仲間との喧嘩も厭わないが、最後にはすべてを許し結束を深める。この二面性は、しかしながら正直と誠実という深層によって統合されている。つまり、ルフィーは裏表がない人物として造形されている。裏の意味を読み取れ、相手の真意を深読みしろ、空気を読めと言われて疲れ果てた現代人が、ルフィーの性格と仲間たちとの雰囲気に魅了されている可能性は十分にある。
他に「性」に乏しいと指摘されることがある。最近では『鬼滅の刃』の流行がその観点から説明されることがあった。現代の若者は性の描写にストレスを感じ、登場人物が男女の仲になることを嫌う。『ワンピース』にはロビンやナミなどの女性性が誇張されたキャラクターが登場するものの、ルフィーが彼女と恋仲に落ちることはなさそうだ。というよりルフィーが性的に興奮している描写は皆無で、ルフィーの性的欲求は他の三大欲求である「睡眠欲」と「食欲」で代替している可能性がある。
このような指摘はどれも正しそうだし、時代の変化にも見事に対応している。だが『ワンピース』の流行の本質をルフィーの性格のみに見出すのでは、片手落ちにも思われる。読者はルフィーだけに憧れを覚えるのではない。むしろ彼を中心とした仲間たちとの関係性の特殊性にも目を向ける必要がある。
ベンチャー企業の躍進
『ワンピース』の世界では、海賊の頭領の思想は組織の形態に反映される。家族を欲した白ひげは自らを「親父」と呼ばせ大規模な疑似家族を作り出し、人種差別の消滅を求めたシャーロット・リンリンはほぼ全種族を支配下においていた。
海賊の王になるということは、彼/彼女が理想とする人間関係を世界に広めるということも含意している。彼/彼女らは「一つなぎの大秘宝」という物体を求めてると同時に、思想の普及という驚くべき戦いにも邁進していたのだ。
ここまでの状況整理を踏まえて私が主張したいのは、海賊が形成する一団は「会社」なのではないかということである。そう、この物語の中心には、会社の形態を巡る激闘が繰り広げられているのだ。
この漫画が公開された年を思い出しておこう。1997年である。この手前の1991年から1993年にかけてバブルの崩壊が起こり、労働に対する態度は大きく揺るがされた。安定企業と考えれていた銀行が潰れ、どこにも安定など存在しないということが露呈した。そのことにショックを受けた大手企業を含めた多くの企業が、挑戦的なことよりも安心・安全な経営を心がけた。そして訪れたのが「失われた30年」である。日本が戦後に高度経済成長を遂げた理由の一つに、「終身雇用」と「年功序列」が挙げられる。これらは日本型経営と呼ばれ、戦後のある時期にはアメリカ型の経営に対して優位であると信じられてきた。だが「失われた30年」とは、日本型経営の敗亡を意味している。「終身雇用」「年功序列」という家族を模して作られた経営形態は、高度経済成長が起こる特定の時期にしか機能しなかったのだ。そして『ワンピース』は1997年においてすでに、日本型経営の敗北が生じるであろう未来への不安を感じとっていたのである。
海賊団とは会社である。この観点から『ワンピース』を眺めてみると、海賊団の形態が意図的に配置されていることがわかる。まず旧世代のトップの海賊、ゴールド・D・ロジャーとエドワード・ニューゲートに注目してみよう。繰り返すように、ここには単純な戦力差だけでなく、組織形態に明確な違いがある。ゴールド・D・ロジャーの海賊団は少数精鋭で職人的組織であり、その逆にエドワード・ニューゲートの海賊団は年功序列の擬似家族的組織である。
そしてそのような二大雇用形態の時代が終わったのが、ゴールド・D・ロジャーが死の直前の宣言なのだ。だからルフィーは新たな組織作りから始めなければならなかった。ロジャーとも白ひげとも異なる新たな組織、それは日本社会に蔓延していた会社組織への不安と崩壊にも関係していたのだ。
ではルフィーの組織論はどのようなものなのだろうか。結論から先に述べれば、それはベンチャー企業である。ただし、日本型経営の一部の方針を継承した「日本型ベンチャー企業」なのだ。
新たな雇用形態を求めて——ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用のその先へ
雇用形態には、ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の二つがある。この分類を提唱した濱口桂一郎は、しかし一般に普及した意味が真逆になってしまったと述べている。
元々濱口がジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用で意味していたのは次のようなものである。ジョブ型は、職務が先にありそれに値段がついていてその上で雇用するというもの、逆にメンバーシップ型は、職務によらずに雇用するというもの。濱口は日本の雇用形態がメンバーシップ型であるとし、これからの時代はアメリカを代表とするジョブ型へと移行すべきだと主張する。
ここで注目すべきは、メンバーシップ型は「戦後日本の高度成長期に確立した新しいもの」であるという指摘である。つまり、明治時代から始まる戦前までの働き方はジョブ型だった。そして戦後の高度経済成長期という特殊な時期のみ、メンバーシップ型が効率良く運用できたのである。
この分類を『ワンピース』の世界に適用してみよう。するとロジャー海賊団が明治期のジョブ型、白ひげ海賊団がメンバーシップ型だということがわかる。白ひげ海賊団とは、いわば戦後日本の大企業そのものなのだ。彼の身体は病気で蝕まれ、世界政府の前に無惨にも散ってしまう。戦後日本のメンバーシップ型企業は、新世界の荒波に儚くも散ってしまったのだ。
ルフィーはロジャーと白ひげの次の世代を代表する若者である。だから彼はゼロから仲間を集め始めるベンチャー企業の社長だ。彼が幼馴染や故郷の仲間と出発しないところに、作者の意図をヒシヒシと感じる。戦士、航海士、料理人、医者などなど。彼が求めるのはすでに技能を持つプロフェッショナルたちだ。ということは、ルフィーが求めるのはジョブ型の海賊団なのだろうか。
ところがそうではないのだ。ルフィー海賊団に入るためには、特定の分野のプロフェッショナルであるだけでは十分ではない。彼/彼女らが入団するとき、その前に数話もかけて人間性のチェックが入る。技術の保持だけではなく、魅力的な人間であるかが重要な判断材料なのだ。これは言い換えれば、ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用のハイブリットであると言える。ジョブ型雇用だといって求人を出し、メンバーシップ型雇用のようにコミュニケーション能力を確認される。事実、医者や航海士として就職したチョッパーやナミも戦闘に駆り出される。職務が先にあるのではなく、人がいて職務を割り当てるこの雇用形態こそ、メンバーシップ型そのものである。
したがって彼/彼女らは、弱くても、敗北しても、失職することはない。まるでルフィーと船員たちの間に終身雇用の契約が結ばれているかのようである。唯一失職の危機があるとすれば、社長であるルフィーに盾を突くときだけである。ルフィーの理念を共有できないもの、それだけが失職の原因となる。
この新たな雇用とジョブ型雇用の違いは、『ワンピース』と『オーシャンズ11』『オーシャンズ12』や『インセプション』、あるいは『ミニミニ大作戦』や『ザ・ウォーク』を比較するとよくわかる。海外の映画で集められるプロフェッショナルたちは、仕事が終わると解散になる。彼/彼女らには職務を遂行するだけの能力が求められるが、人間性については不問に付されている。その関係は日本人から見ると冷淡にみえるかもしれない。しかしこれこそが本場のジョブ型雇用なのだ(本作との違いは『オーシャンズ13』でも言及している)。
ラスボスが黒ひげである必然性——忍び寄るアメリカの影
ルフィーが理想とする雇用形態は、ジョブ型とメンバーシップ型のハイブリッドである。ルフィーはそこに白ひげが代表する戦後日本の高度経済成長を支えたメンバーシップ型雇用を超える新たな雇用形態をみた。この雇用形態をとった企業を「日本型ベンチャー企業」と呼ぼう。もちろん「アメリカ型ベンチャ企業」とは、ジョブ型雇用を採用した企業のことである。
ルフィーが到達した雇用形態は、シャンクスとロジャー海賊団の系譜にある。彼らの戦闘シーンが多くないため判断がつきにくいが、どちらも職人気質のジョブ型雇用だと思われる。あえて分類するならば明治のジョブ型雇用であろう。ベックマンなんかがいい証拠である。彼は赤髪海賊団のナンバー2でありながら、この世界では珍しい銃使いで、如何にも職人といった具合である。
さて、旧世代の四皇はメンバーシップ型雇用の大企業だった。では新たな四皇はどうだろうか。
赤髪海賊団は旧四皇から残った唯一の海賊である。彼らはロジャー海賊団の流れを汲む職人気質のジョブ型雇用であった。そしてルフィー海賊団は新世代の働き方である日本型ベンチャー企業として登場していた。気になるのは残りの2人である。
新たな四皇にバギーがなったことは多くの読者を驚かせたが、これまで論じてきた観点からみれば作者の巧みな意図が読み取れる。バギーはこれまでの海賊と違い、所属する海賊を傭兵として送り込む「海賊派遣組織」である。そう、バギーは現代日本で肥大化した派遣会社と同じ仕組みの海賊団を作り上げていたのだ。バギーは弱いままである。それでも四皇になれたのは、個人の強さではなく組織形態が重要であったからだ。
そうすると残るマーシャル・D・ティーチが理想とする組織の形態も鮮明に見えてくる。元々、ルフィーと同じように組織づくりをしていたティーチは、途中から明らかにジョブ型雇用に舵を切った。能力だけを判断材料に、各地で強者どもを仲間にしていった。ここにルフィーが求めるメンバーシップ型の側面、つまり人間性や暖かい絆のようなものは必要ない。それを象徴するように、ティーチは元海軍大将の青キジを、強いというだけで仲間に迎え入れたのだ。ティーチの組織は、言うなれば「アメリカ型ベンチャー企業」である。
ここにメンバーシップ型雇用の次に覇権を握る可能性があるすべての組織が出揃った。職人気質ジョブ型雇用、派遣雇用、ジョブ型雇用(アメリカ型ベンチャー企業)、日本型ベンチャー企業。おそらく、最後の戦いは黒ひげとルフィーの戦いになるだろう。そこには一つなぎの大秘宝をめぐる戦いを超えた、日本とアメリカの雇用形態をめぐる壮絶な覇権争いが繰り広げられているのだ。