嘘から始まる物語 —— 魚豊『チ。―地球の運動について―』

嘘から始まる物語 —— 魚豊『チ。―地球の運動について―』

概要

 『チ。-地球の運動について-』は魚豊の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』連載。単行本は全8巻。

 15世紀のヨーロッパを舞台に、迫害されながらも信念を貫き地動説の研究をする人々を描く。世界観とストーリーが読者を魅了する作品で、第26回手塚治虫文化賞の大賞に選ばれている。

登場人物

・ラファウ・・・一章の主人公にして本作の最重要人物。地動説を信じ、毒物を自ら飲み自殺した。
・ノヴァク・・・異端審問官。全章を通じた敵役。
・オクジー・・・二章の主人公。頭が悪くネガティブだが純粋な心を持つ。
・グラス・・・二章の主人公。頭が良くポジティブだが自己中心的な面がある。
・ドゥラカ・・・三章の主人公。効率主義で金を稼ぐことを第一に考える。

あらすじ : 研究をするためになぜ生死を賭けなくてはならないのか

 迫害とっていっても生半可なものではない。天動説を教義とする「C教」という宗教団体から受ける弾圧によって、地動説を研究する主人公たちは無残にも殺されていく。現代の研究者が行うような安全で国に保護された研究ではない。私的で危険で死に直結してしまうような、過酷な状況での研究なのだ。どちらかというと効率を重視し人生に冷めた視線を投げかけるような人々が、ひょんなことから地動説に魅了されどうしようもなく命を賭けてしまうという展開はとにかく「熱い」。このリアリティーと高揚感が人気の理由の一つになっている。とはいえ、地動説信者の迫害というのは作中だけの話で、現実には地動説信者の環境はそこまで酷くはなく、信じられているほど迫害もされていなかったらしい。『チ。―地球の運動について―』は史実を基にしたフィクショナルな作品なのである。

 まずは、あらすじを簡単にみておこう。

 15世紀のヨーロッパにの「P王国」では「C教」という宗教が覇権を握っていた。『C教』は天動説を教義にしており地動説信者を迫害していた。そのような時代に生きる12歳の若者ラファウは、効率よく立ち回りこの社会を「チョロい」と感じていた。
 ところがある日、拷問を受けていたフベルトという地動説信者と出会ってしまい、人生が急変する。神学を専攻するはずであったが、天文学を志望するようになり、次第に『C教』の傭兵ノヴァクから目をつけられるようになる。

 地動説 = 「真理」のために意味もなく殺されていく人々。物語を通して問われているのは、生死を賭けてまで人はなぜ真理を探求するのか、という疑問である。

考察 : なぜ「自由」を求めるのか

 『チ。―地球の運動について―』を考察する前に、2010年代を代表する漫画『進撃の巨人』をみておこおう。何故なら二つの作品の間にはいくつもの共通点があるからだ。

 『進撃の巨人』の主人公エレンは壁に囲まれた街に住んでいた。壁の外には巨人がいるため人類は壁の外に出ることができない。エレンは囲まれた壁の向こうにでることを「自由」といい、「自由」を得るために命を賭ける。

 『チ。―地球の運動について―』の「真理」と『進撃の巨人』の「自由」は物語の中でほぼ同じ役割を果たしている。歴史上最も重要視されてきた権利(=自由)は言論の自由と行動の自由であったが、『チ。―地球の運動について―』では言論の自由が『進撃の巨人』では行動の自由が制限されている。これらの自由に対する制限は生きることの本質を脅かすような制限であり、それだからこそこれらの自由は命を賭けねばならぬほどに切実な問題なのだ。特に『進撃の巨人』では自由と生きることが強く結びついていて、エレンはことあるごとに「オレたちはもとから自由だ」と自らを奮い立たせている。

 ところが、この「自由」への欲求はエレンが叫んで訴えるほど誰にでも明らかなことではない。壁の内部で生活する住人は壁の外に出ることを望んでいない。壁の内部の生活は安心、安全で、外部に出ることができないことを除いては、文字通り「自由」なのである。ではエレンは何故「自由」を望むのか。この問いに『進撃の巨人』は答えられていない。「自由」を望むのは「オレたちは本当は自由だったからだ」と、エレンは言う。しかし過去にあったというだけで、命をかけるほど大きな動機になりえるのだろうか。あろうことかエレンは「自由」を知りすらしないのに。

 われわれの生活を考えてみればいい。エレンみたいな人が一体どれだけいるのだろうか。いたとしてその人が掲げる「自由」がどれ程そそられるものになるだろうか。

 この違和感を解消するために要請されるのが継承の問題である。エレンは「進撃の巨人」という名の巨人を継承する。「進撃の巨人」はどの時代の継承者も「自由」を求めて戦っていたというのだ。脈々と受け継がれる「自由」への闘争という系譜の最先端にエレンがいるというわけだ。

 しかし問題は、継承がなければあるいは歴史が存在しなければ、我々は「自由」を追い求めることができないのか、ということである。これは壁の中に生まれた一般人は「自由」を求めることができるだろうか、と問うことに他ならない。そして答えはノーだ。一般人には継承がなければ歴史もない。「自由」を求める権利がそもそも与えられていないのだ。

感想 : 嘘から始まる物語

 では『チ。―地球の運動について―』の場合はどうだろうか。『チ。―地球の運動について―』の主人公たちも、エレンが「自由」を追い求めたように「真理」を命がけで探求する。そして『進撃の巨人 』と同様に、「自由」を求める戦いが受け継がれていく点で継承が問題になっている。

 だが、それは『進撃の巨人』の場合と少し異なるようだ。『進撃の巨人』が「自由」の継承が自明しされているのに対して、『チ。―地球の運動について―』では継承は当然のことではない。むしろ継承の権利を持っていない一般人が偶然に継承してしまうのである。このことはこうとも言い換えることができる。『進撃の巨人』は「自由」を追求する物語であり、『チ。―地球の運動について―』は「真理」を追求するきっかけとなった偶然性を示す物語である、と。

 『チ。―地球の運動について―』において、主人公たちは効率よく生きる少年であったり、権威を欲する学者であったり、金持ちになりたい若者であったりする。どっちかというと人間らしい卑近さをもった人たちで、主人公になる資格のないような、世俗にまみれた人たちなのである。どういうわけか、そういった凡な人たちが「真理」のために命をかける=主人公になってしまうのだ。

 一体全体「真理」がそのために死ねるほど価値があるものだといいたいのだろうか。「真理」は誰しもが恋い焦がれる永遠普遍の対象とでも言いたいのだろうか。多分そうではない。そう考えてしまうと『進撃の巨人』と同じ問題に突き当たり、「自由」のために闘う狂人か、継承された「自由」への意志がが必要になってしまう。そもそもそのために死ねるといった「自由」や「真理」のような確固たるものは存在しないのだ。

 なぜ凡人が主人公になれるのか。なぜ普通の人が「真理」を求めて命を賭けられるのか。それは地動説が魅力的であったからでも、真理の探求が止められないからでもない。そうではなくて、天文学者のフベルトが嘘をついて死んだという事実が、ラファウの心を動かしたからだ。フベルトは地動説が真理であると「直感」はしてしても証明はできなかった。そして証明できるとも思っていなかった。しかしそれでも、地動説が正しいかのようにラファウに自説を唱えて死んでいった。

 この嘘はハッタリだ。そしてフベルトが如何に無責任であるかも示している。実際フベルトのせいでラファウは死んでしまったのだ。

 しかし嘘の物語は無責任だが「世界を動か」す力を持っているとも言える。フベルトの嘘の物語はラファウを死に追いやり、彼の死を演技じみて劇的なものに変えた。その演技じみた死が人の心に残ることもある。嘘の物語が偶然に人と人を繋ぐこともある。つまり「地動説」は命をかけるほどに価値があるという嘘の物語が未来へと伝播することがありえるのだ。そしてそれがなくては人は「真理」や「自由」という虚構を追い求めないだろう。嘘の物語が作り出す力を『チ。―地球の運動について―』という嘘(=フィクション)の物語は伝えている。

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