概略
ゴジラの命題とはアトムの命題と対になる概念。ゴジラに関する分析やアトムとゴジラを連関させて分析する考察はいくつも挙げられるが、ゴジラの命題と言い切って世に知らしめたのは、おそらく宇野常寛『母性のディストピア』が初めてである。
ゴジラの命題の定義
宇野によれば、ゴジラの命題とは
虚構を通じてしか捉えることのできない現実(具体的には、戦争)を描くこと
『母性のディストピア I』81−82頁。
である。
ゴジラというのは、映画の『ゴジラ』シリーズに登場する巨大怪獣である。怪獣映画の始祖『ゴジラ』(1954)では、ゴジラが、ビキニ環礁の水爆実験で安住の地を追われ、東京に上陸し破壊のかぎりを尽くす(その後はアメリカ軍の核実験が原因で異常進化を遂げた古代生物だと説明されることが多い)。そして、それに対抗して日本の防衛隊が応戦しやっつけるという構図になっている。
このようなゴジラシリーズを代表とする怪獣映画では、怪獣の巨大な力が恐れや憧れといった戦争の多様性を代弁する構造となっている。戦争という現実をまざまざと語りうるという点で、怪獣映画は、「戦後社会を覆う「あえて」演じられる虚構に対し、現実を対置する想像力」(『母性 I』81頁)だと宇野はいう。この構造をもった映画の命題、つまり怪獣映画の命題が「ゴジラの命題」である。
アトムの命題とゴジラの命題
アトムの命題は大塚英志が提唱した概念である。鉄腕アトムでは、成長しない/死なない身体で、成長/死といった自然主義的な身体の機能を描こうとしている。この矛盾をはらんだ構造におけるアトム的な表現を大塚は「アトムの命題」と名付けた。
アトムの命題とゴジラの命題はそれぞれ完全に独立したものではない。宇野によれば、アトムの命題とは、世界と個人、公と私、政治と文学という戦後日本的な接続の問題を後者(個人、私、文学)の側から捉えたものであり、この同じ問題を前者(世界、公、政治)の側からとらえようとしたときに出てくるのがゴジラの命題である。
このような連関に関しては宇野以前に加藤らによって指摘されていた。加藤典洋によれば、アトムとゴジラは、実のところのコインの表裏の関係であり(原子力と核兵器)、それが福島第一原発事故によって露わとなったという。アトムはアメリカの核の傘下で安住した平和の肯定であり、逆にゴジラはその後ろめたさの解消である。これを加藤はアトムとゴジラの一体性と呼ぶ。
ゴジラの命題の現在
今日においてもはや「アトムの命題」は機能しない。
『母性 II』193頁
現代においては、もはや永遠の12歳の少年のように振る舞うことはできない。日本は経済的に没落しておりもはやネエテニーですらなく、さらにまたアメリカも核の傘の下でわれわれを保護してくれるほどの力はない。
しかし、アトムの命題が通用しなくなってしまった今日においても、いまだ通用する命題がゴジラの命題である。それを体現するのが2016年の『シン・ゴジラ』である。この映画は福島大震災以後のことであり、ゴジラはその震災の比喩である。そして、『シン・ゴジラ』は、その震災が東京を襲っていたらどうなっていたのかという問いを背景にした映画であると宇野は指摘する。映像の世紀が終わりかけているこの、インターネット空間が蔓延している現代において、ゴジラの命題はかろうじで問いとして生きながらえている。
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関連項目
・拡張現実の時代
・第三者の審級
・中動態
・動物論
・フェミニズム
・平成転向論
参考文献
加藤典洋『日の沈む国から 政治・社会論集』岩波書店、2016年。
宇野常寛『母性のディストピア I 接触篇』『II 発動篇』ハヤカワ文庫JA、2019年。
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