『夢十夜』「第一夜」解説|ハッピーエンドかバッドエンドか|あらすじ感想考察|夏目漱石

『夢十夜』「第一夜」解説|ハッピーエンドかバッドエンドか|あらすじ感想考察|夏目漱石

概要

 『夢十夜』は、1908年7月25日から8月5日まで『東京朝日新聞』で連載された夏目漱石の短編小説。第一夜から第十夜までの十の夢から構成され、冒頭が「こんな夢を見た」から始まることで有名。

 無を悟れなくて切腹しようとする侍の話(第二夜)、爺さんが手拭いを蛇に帰ると言いながら川の中に入っていく話(第四夜)、明治の世で運慶が仁王を掘り出そうとしている話(第六夜)、金魚売りが全く動かない話(第八夜)など、非現実的空間で起こる様々な出来事を鮮やかに描き出しながら、幻想的な風景へと仕立て上げている。謎めいた話が多く、様々な暗示を読み取ることができる。

 夏目漱石はほかに『坊っちゃん』『こころ』「現代日本の開化」がある。弟子の芥川龍之介は『羅生門』『』『蜘蛛の糸』、宮沢賢治は『注文の多い料理店』などがある。

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第一夜あらすじ

 第一夜は死んだ女が百合の花に転生して自分の元に帰ってくる話である。

 はじめに仰向きに寝た女が自分に向かって「もう死にます」という。自分は到底死ぬようには見えないので、「死ぬんじゃなかろうね」と聞くと、それでも「死ぬんですもの、仕方がないわ」と女は返事する。

 しばらく黙っていると女は「死んだら、埋めてください」という。そして1、00年待っていてくれたらまた会いに来るという。自分は待っていると答えた。女が死ぬと、自分は真珠貝で穴を掘ってそこに埋め、墓の横で女が来るのを待つことにした。

 ずっと待っていたが、女はなかなかやってこない。自分は騙されたんじゃなかろうかと考え始めた。すると、自分の方に青い茎が伸びてきて百合の花が咲いた。そしてそれに目を向けると星が輝いていた。そのとき自分は100年はもう来ていたことに気づいた。

全文

 こんな夢を見た。
 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な瞳の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢つやを眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍に口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片((かけ))を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
 「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯うなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年私の墓の傍で待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、ひとみのなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長いまつげの間から涙が頬へ垂れた。ーーもう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土のにおいもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片かけの落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角がとれて滑かになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
 しばらくすると唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下からはすに自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた。真白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへはるかの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁はなびらに接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

解説(漱石が伝えたいこと)

『夢十夜』全体の解釈の分類と歴史

 『夢十夜』を解釈するパターンはいくつかあるが、『漱石ーー『夢十夜』以後ーー』によれば、五つに分類されるという。一つ目が、統一的な原理で解析しようとする立場。二つ目が、各夜にそれぞれの理念を見ようとする立場。三つ目が、いずれかの夢を特権的に扱う立場(第一夜、第三夜、第七夜が多い)。四つ目が、一夜から十夜への展開を見ようとする立場。五つ目が、比較文学のかかわりで論じる立場である。

 簡単にいえば、それぞれの夢が独立しているのか、それとも繋がっているのか、で解釈が異なるということだ。もしそれぞれの夢が繋がっている場合、主題が同一のものなのか、はたまた一夜から十夜にかけて発展しているのか、で立場が異なるということになる。

 専門家の文学研究における伝統的解釈では、『夢十夜』全体をネガティブにとる立場が支配的であった。この解釈の土台を提示したのが、小説家で文芸評論家の伊藤整である。伊藤は『夢十夜』に漱石の「人間存在の原罪不安」が現れていると主張した(とりわけ第三夜)。この解釈に賛同する評論家は多く、漱石研究で有名な江藤淳は「絶対的な力、超越的な意志に対立する、人間の無力感」を読み取り、荒正人は漱石における「暗黒の部分」が現れていると解釈した。確かに『夢十夜』は明るい話ではない。加えて、夢の内容が不幸な結末で終わることも多く、そういったことから漱石の負の意識の表出として解釈される傾向が強いのである。

第一夜はハッピーエンドかバッドエンドか

 全体としてネガティブな傾向がある、という解釈から出発すると第一夜は不思議な夢となっている。一見すると、亡くなった女性が100年後また会いにくるというすごくロマンチックな話なので、ネガティブな感じがしない。そこで江藤淳は、この話は例外的にハッピーエンドの話であり、夢が進むにつれ徐々にバットエンドとなっていくと述べた。しかし、さすがにこの見方を受け継ぐ解釈はほとんど存在しない。例えば、そもそも女性自身が帰ってきたのではなく、百合として形を変えて帰ってこざるを得なかったという状況から、あまり幸福な場面とはいえないだろうという批判がなされている。彼女自身は死んでしまったのである。

 『夢十夜』自体が暗い話なのだから、第一夜もその系列に属するというのが一般的な解釈である。荒正人「漱石の暗い部分」では第一夜を漱石の暗い部分(父親殺しと母子相姦への願望)の重要な指標として読み取っている。水谷昭夫「『夢十夜』の世界」では、第一夜に〈現実の死ー愛なき結婚ー他者への婚姻ーまたは姦通〉のモチーフを読み取り、漱石文芸の女性たちが背負わされている「暗い美の刻印」だとする。また、越智治雄「父母未生以前の漱石ー「夢十夜」」では、第一夜は幸福な夢に見えるが、必ずしもそうではないとし、そこで表現されているのは、自己を失った喪失感であり、これは「痛き夢」だと推察する。この「痛き夢」であるという解釈は好評のようだ。第一夜に物悲しい感じがするのはそのためである。結論はそれほど幸福ではない

 「痛き夢」ではないという解釈もある。笹淵友一「「夢十夜」」では、この第一夜には暗い影がないとし、潜んでいるのは、恋愛の永遠性の観念だという。読み取るべきなのは、幸福なのか不幸なのかといったことではなく、俳句の転生感覚(ナルキソス転生)であって、それがここに描写されているということである。この話はそれで完結しており、他の夢の主題とも関係がない。彼からすれば、そもそも『夢十夜』全体のモチーフを読み取ることがナンセンスなのである。

百合の花が象徴するものと、百年という時間——柄谷の解釈

 バーグルエン哲学・文化賞(2022年)を受賞した日本を代表する思想家柄谷行人は、第一夜をどのように読みているのだろうか。

 柄谷の解釈は一風変わっていて、哲学的な観点から考察を深めている。彼が注目したのは「百年」という期間である。この「百年」という期間、柄谷によればこれは「ただ長い時間を意味しているのではなく、通常の時間性とは質的に異なったもの」(227頁)だという。百年後というのは、現在が普通の成人年齢だとしたら120〜130歳であり、そんな年齢まで普通の人は生きられない。そして柄谷は言う。

「第一夜」のばあい、「百年はもう来てゐたんだな」と気がつくのは、自分がそのとき死んでいるということだ。女が百年経ったら逢いにくるといったのは、ただ「自分」が死ぬことによってのみその女に誰にも邪魔されず会うことができるという意味にほかならないのである。

『漱石文学論集成【第四巻】』、同頁。

 つまり、第一夜の舞台は死後の世界だ。その世界では生者と死者が出会うことはない。百合=女に出会えたのは女が生き返ったからではなくて、100年経って男が死んだからなのである。第一夜での出会いは男の死を表している。したがって、

「百年」とは、したがって自分が死ぬという一つの飛躍を意味しており、またこの飛躍が自己(意識)にとっては体験不可能であるために、「百年」の長さという象徴として表現されているにすぎない。

同書、同頁。

 「百年」とは別世界への入り口だったのだ。しかし、なぜ百合という転生した女と出会えたのか。仮に本当に死んでしまったら、その瞬間意識もなくなるので、女と出会うことはできないのではないか。死後の世界は体験できないのではないか、という疑問が湧いてくるだろう。これはハイデガーが言うように、死は体験できないので死への飛躍は象徴的な形態をとることしかできないからだ、と柄谷は述べる。百合はその象徴化である。生と死のはざま、それが夢である。漱石はそのはざまの世界を幻想的に描いたのである。

考察・感想

生きることと死ぬこと(漱石の場合)

 第一夜を見てきたが、全体として『夢十夜』は現実と虚構の対立・緊張関係を描いている作品が多い。例えば第一夜では、柄谷は生と死との緊張関係を読み取ったが、恋愛の永遠性を読み取るような笹淵の解釈も同じく緊張関係を読み取った解釈である。なぜなら現実に永遠なるものは存在しないからである。永遠の誓いが無意味なことは『ハッピーマニア』を読まなくても分かる。だからこそ、それは理想(虚構)となりうるわけだ。

 そもそも対立・緊張関係の中では、極限状態までいくと磁石の同じ極同士のように互いに反発しあう。「第二夜」では、自分は悟れなければ死んでやると思っていたが、鞘に手をかけて死のう(現実の外側に行こう)とした瞬間に夢が終わる。「第三夜」では、背負っている子が結局のところ誰なのかは明かされることがない。「第四夜」で、川の中へ入ったっきり出てこなかった爺さんは結局どうなったのだろうか。「第五夜」では、女と自分は出会うことができない。『夢十夜』の話は、ことごとく現実と虚構の対立・緊張関係で成り立っている。

 さらに面白いのは、『夢十夜』は夢が進むにしたがってだんだんと目覚めたような話になることだ。そもそも冒頭「こんな夢を見た」は1,2,3,5夜にしかない。「第九夜」では、悲しい話を夢の中で母から聞くだけで、自分は不思議な体験をしていない。「第十夜」でも、豚に襲われるのは庄太郎であり自分は話を聞いているだけである。最初は自分が虚構から現実を眺める視点であるが、徐々に現実の方から虚構を眺める視点へと移り変わっている。

 醜い生、美しい死。生より死、現実よりも理想。漱石が「死」というものを良いものとして考えていたことはよく知られている。しかしながら彼が、死の方が生よりも良いのに、自分は自殺ができないというジレンマを自認していたこともまた確かである。自分はそういった態度が『夢十夜』に非常に色濃く出ているのではないかと思う。

 この作品では、漱石は生と死や現実と虚構の対立に優劣をつけていない。悟れなくて死のうと思う侍はしかし死ぬのになかなか踏ん切りがつかないし、船から飛び降りた人は船を離れた瞬間に後悔する。私たちは原罪を背負っているのかもしれないし、理想には決して追いつかないのかもしれないが、だからといって「現実」をやめられない。「第十夜」はその意味で象徴的だと思う。庄太郎は助からないが、パナマは健さんのものなのである。現実の欲求を、悟りとは程遠い現実の欲求を消すことはできないが、さりとてそれが悪いわけではない。「パナマは健さんのものだろう」とさわやかにさらっと収めるところに、漱石の人生観がよく現れている。

生きることと死ぬこと(芥川の場合)

 比較対象として芥川龍之介を見てみたい。芥川は本当に自殺してしまった人間である。しかし芥川が嬉々として死ねたわけではないことは確かだ。

 或る自殺者

彼は或些末さまつなことの為に自殺しようと決心した。が、その位のことの為に自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にしたまま、傲然とこう独り言を言った。ーー「ナポレオンでも蚤に喰われたときは痒いと思ったのに違いないのだ。」

 或夜の感想

眠りは死よりも愉快である。少なくとも容易には違いあるまい。
(昭和改元の第二日)

『侏儒の言葉』

 このアフォリズムは悲痛である。悲痛の中にアイロニーを持ち込もうとしている。それこそ私たちは彼に対して同情と諧謔の精神しか持ち合わすことができない。

 漱石には同情などという精神は生まてこない。漱石はおそらくそれほど深く考えすぎなかったし、考えすぎないくらいなのが現実であり理想であった。彼の幻想的な風景はこの距離感から現れてくるのだろう。死んでしまった男、芥川と死ねなかった男、漱石。生も死も理想も現実もいつでも我々を魅了し続けている。

参考文献

鳥井正晴・藤井淑禎編『漱石文学論集成【第四巻】漾虚集・夢十夜』桜楓社、1991年。

柄谷行人「内側から見た生ー漱石試論(II)」(鳥井正晴・藤井淑禎編『漱石文学論集成【第四巻】漾虚集・夢十夜』桜楓社、1991年。)

清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。

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