概要
「檸檬」は、梶井基次郎の短編小説。1925年に同人誌『青空』に掲載。1931年、梶井基次郎(1901年-1932年)の死の一年前に刊行された。
色彩の豊かさや詩的表現の巧みさなどが、高く評価されている。現代でも日本文学の傑作の一つに数え上げられ、国語の教科書にも採用されている。
「えたいの知れない不吉な塊」のために始終不安を抱えていた青年が、丸善に積み上げた本の山の上に爆弾に見立てた檸檬を乗せる物語。
小説はほかに、夏目漱石『こころ』「夢十夜 第一夜」、宮沢賢治「注文の多い料理店」「やまなし」、魯迅『故郷』、ワイルド「幸福な王子」、ヘッセ「少年の日の思い出」、梨木香歩『西の魔女が死んだ』などがある。
本作は「日本純文学のおすすめ」で紹介している。
登場人物
私:「えたいの知れない不吉な塊」を始終心を圧えつけれている人物。肺尖カタルや神経衰弱などの持病を持つ。
名言
錯覚がようやく成功し始めると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。(p.9)
——つまりはこの重さなんだな。——(p.14)
あらすじ
「私」は「えたいの知れない不吉な塊」に、始終心を圧えつけれていた。「私」は肺尖カタルや神経衰弱などの持病を持ち、借金まで拵えてたのだが、心を重くしているのはそれらではなく、「不吉な塊」だと考えていた。
このような状態になると、以前は好きであった音楽や詩が楽しめなくなり、よく通っていた文具書店の丸善も魅力的ではなくなった。借金取りに追われる日々は、どこにいても「私」を重苦しい気持ちにさせた。
「私」は焦燥にかられながら、友人の下宿を転々として過ごしていた。そんなある日、京都の街の裏通りを当てもなくぶらついていると、寺町通の果物屋に置いてあった檸檬が目に入った。それを買い手に取ると、心を圧えつけていた「えたいの知れない不吉な塊」が緩んでいくのを感じた。「私」は久々に幸福を覚え、上機嫌で丸善へと出掛けて行った。
しかし丸善に入ると、途端に興奮が覚めてしまい、再び憂鬱な気分になってしまった。先程までの上機嫌は嘘のように無くなり、棚から画集を取り出すのもままならない。「私」は思い思いに画集を開いては横に投げ捨て、画集を積み上げていき、その画集の山をぼんやりと眺めた。
ふと、「私」はこの画集の山の上に、檸檬を置いてみた。すると、あの軽やかな興奮が、再び舞い戻ってきた。雑多な場所にポツリと置かれたレモンイエローが、周囲の色を吸収し、カーンと冴え渡っていた。「私」はこの状態をそのままにして、何食わぬ顔でそのに出ることを決意する。
檸檬を爆弾だと見立て、丸善が木っ端微塵に爆発することを想像しながら、檸檬をそのままにして京極を下っていった。
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解説
梶井基次郎と芥川龍之介と病気文学
梶井基次郎は1901年生まれの小説家で、1932年に31歳という若さで肺結核によりその短い生涯を閉じた。残した作品の少なさ(二十篇あまり)にもかかわらず、特徴的な文体と豊かな表現は後世の文豪から高く評価されている。本作が中学校の国語の教科書に載っていることもあって、梶井基次郎の人気は現代でも非常に高い。
梶井と同様、若くして亡くなった同時代人に芥川龍之介がいる。芥川龍之介は1892年に生まれ、1927年に35歳の若さで服毒自殺をはかった、夭折の天才作家である。その短い生涯の間に「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」などの名作と評される短編小説を書き残した。
そんな彼が自殺を図る直前に周囲に漏らしていたのが、「ぼんやりとした不安」である。死の直前に書かれた「河童」などで主題されたこの不安は、「檸檬」に登場する「えたいの知れない不吉な塊」に通ずるものがある。どちらも神経衰弱に罹り、病気になり、何か言い知れぬものに不安を感じていた。同時代の作家が奇しくも似た感覚に苛まれていたとすれば、これは時代の要請だとも言える。二人はこの時代に、一体何をみたのだろうか。
得体の知れない不吉な塊とは何か
「得体の知れない不吉な塊」は、「檸檬」の冒頭の一文に登場する。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。
梶井基次郎『檸檬』新潮文庫、1967年、8頁
ここでまず注意しなくてはならないのは、「えたいの知れない不吉な塊」について、主人公の「私」は完結に言語化できていないということである。だから読者は、この言語化できていない「不吉な塊」に対して、「私」の記述を忠実にトレースしていくしかない。ここでは少し丁寧に文章を読解してみよう。
まず、「不吉な塊」は「焦燥」や「嫌悪」と表現される。しかしそれでは「私」もしっくりこないとみえて、宿酔(二日酔い)と言い換えられるが、これが普通の宿酔ではなく「酒を毎日飲んでいると」やってくる「宿酔に相当した」ものと表現される。
酒に酔うと「いま・ここ」の現実がゆらゆらと揺れ、浮いたような感覚に陥ることがある。「私」が酒の例を出したのは、そのような非現実の状態が続いていたからに他ならない。そして酒が二日酔いを生じさせるように、「私」に生じていた非現実感も「えたいの知れない不吉な塊」を招いたのである。つまり、えたいの知れない不吉な塊とは、非現実と現実の差異の中で生じた不快感のことである。
その後の「私」の行動に注目すれば、自体はより明確になる。まず、「私」は自宅に留まることができず、京都の街をぶらぶらしている。また、以前なら興味を唆った音楽や詩に、熱中することができない。この二つの事象は、「私」が「いま・ここ」に集中できないことを意味している。心ここにあらず。この状態が「私」を蝕んでいる。
このようなぼんやりとした浮遊感は、「Kの昇天」や『ある心の風景』(『檸檬』に収録)など、他の小説でも追求されている。これは梶井基次郎が、結核などの病に悩まされていたことに起因している。彼は生涯を通じて、病気と文学、死と浮遊感を描き続けていたのである。
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考察
色彩と感覚の鋭敏さ
「檸檬」は一人称小説で、感覚や色彩に敏感であることを特徴とする。この感覚の敏感さは、「私」の心に大きな揺れを強いる。京都の街を散歩、八百屋で檸檬を発見、丸善に入店、丸善を出店というあまりエピソード性のないこれらの出来事にすら、「私」の感情は憂鬱と興奮を繰り返すのである。
色彩への鋭敏な感覚も、「私」が神経過敏であることに起因しているだろう。「あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束」や「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」など、色彩に関する描写が多いのはそのためである。
ここで「絵具」という単語が使われているのは偶然ではない。「私」は物の色を「絵具」のように知覚している。だが言うまでもなく、「絵具」とは作り物である。現実にある物を作り物として認識するということは、物を「絵具」のように塗り替えられることに他ならない。つまり「私」は現実を虚構として認識しているのである。
「私の錯覚と壊れかかった街との二重写し」の意味
繰り返すと、「絵具」という表象は、現実を虚構に塗りかえることを示唆している。
錯覚がようやく成功し始めると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。
梶井基次郎『檸檬』新潮文庫、1967年、9頁
ここに「絵具」が登場することに、再度注目してほしい。「私」は「壊れかかった街」に「想像の絵具を塗りつけ」ようとする。ここで「私」は、現実と虚構の二つの位相を生きていることがわかる。「二重写し」とは、「壊れかかった街」という現実と、「私の錯覚」という虚構を、「私」が同時に生きていることを意味している。
そのような二重の位相を生きる「私」にとって、わざとらしい作り物、例えば、花火、南京玉などは、現実の街にいながら想像へと誘う装置である。だから「私」はそれらの物を好むわけで、檸檬もそれらの装置と同じ機能を持つ。
物語の冒頭に戻ろう。「私」が京極をぶらついていたのは、「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧えつけられていたからである。これは宿酔とも表現されていた。酒に酔うことが現実と虚構の入り混じった世界を生きることであるとすれば、「えたいの知れない不吉な塊」(=宿酔)は「二重写し」の世界を我慢ならなくさせる。そこでは想像を掻き立てる花火や南京玉も役に立たない。そして同じく想像の世界へと誘ってくれた丸善も、今やその効力は失われてしまっている。
現・現実と現・虚構へ——伝えたいことは何か
そこで発見されるのが、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」をした「檸檬」である。檸檬が花火や南京玉と違って心地いいのは、「握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさ」と「重さ」を有するからだ。
——つまりはこの重さなんだな。——
梶井基次郎『檸檬』新潮文庫、1967年、14頁
「身内に浸み透ってゆく」と言う表現が示すように、「重さ」と「冷たさ」は身体的な経験である。これが心地いいのは、いま・ここの現実を与えてくれるからだ。それは現実と虚構の入り混じった世界に二日酔いした「私」に、確かな足場を提供してくれる。
ただしこれは、「壊れかかった街」が表象するような単なる現実ではない。何故なら、ここで手に入れたいま・ここの現実は、虚構への入り口である「檸檬」によって与えられているからだ。「えたいの知れない不吉な塊」に襲われる前に存在した現実と虚構ではなく、現実と虚構の二項対立の外部にある現実、いわば現・現実とでも言うしかないようなものがここにある。
「私」は虚構に入る装置としての「檸檬」を介して、身体性に根ざした感覚を経験し、「幸福」を感じた。だが、丸善に入ると再び意気消沈し、「心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった」。このとき「私」はある過ちを犯していた。「平常あんなに避けていた丸善」に「やすやすと入れるように思えた」「私」が、誤解していたことは何か。
「私」は「檸檬」の重さと冷たさに、現実への回帰を感じた。それは二日酔いから覚めるような経験だったに違いない。だが、それが勘違いなのだ。「檸檬」の重さと冷たさは、決して従来の現実を見せたわけではない。そこで「私」が感じたのは、現実や虚構ではなく、現・現実である。したがって、旧来の虚構を表象する丸善に満足できないのは、自明なことである。「以前にはあんなに私をひきつけた画本」も、いまでは耐え難い。「私」は本を「以前の位置へ戻すことさえでき」ず、「積み重ねた本の群を眺め」る。
その時、第一のアイデアを思いつく。それは、「本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて」できた「奇怪な幻想的な城」の頂に、檸檬を据えるというものだった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。
「奇怪な幻想的な城」の上に置かれた檸檬の色彩は「カーンと冴えかえ」り、「埃っぽい丸善の中の空気」は「檸檬の周囲だけ変に緊張」しているような状態へと作り替える。「幻想的な城」と「カーンと冴えかえ」る檸檬の色彩、それによって生み出された変な「緊張」は、先程気分を好転させた、現・現実の言い換えに他ならない。
現・現実を認識したとき、第二のアイデアは必然性を帯びる。その第二のアイデアとは、檸檬を爆弾と見立て、「それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る」という企みである。この想像(=虚構)は、現実を絵具で塗り替えきたこれまでの想像(=虚構)とは程遠い。むしろここでの想像とは、現・現実と対になる想像であり、いわば現・虚構というべきものである。
現・現実としての檸檬と、現・虚構としての爆弾。「私はこの想像を熱心に追求し」「京極を下」る。この地点において、もはや現実と虚構の混合による二日酔いなど存在しない。始終圧えつけていた「不吉な塊」は、どこにも見当たらないのである。
補足
現・現実の接頭辞である「現」とは何か。それはドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが『存在と時間』で提唱された概念「現存在」にヒントを得た。現存在はドイツ語で”Da-sein”と表記される。”sein”は存在という意味で、”Da”は「現」と訳される。意味としては「現という在り方・在りようをしている存在者」となるが、ここでは詳細を省く。ぜひ「現存在」の記事を読んでほしい。
さらに、現・現実のこの組み合わせは、フランスの文学者アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』で提唱したシュルレアリスム、別名、超現実主義から拝借した。シュルレアリスムとは、アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動のことだが深くは立ち入らない。ちなみに、非現実を意味するシュールという単語は、シュルレアリスムを省略した和製フランス語である。
驚くべきことに、『存在と時間』が出版されたのは1927年、『シュルレアリスム宣言』が提唱されたのは1924年、「檸檬」が掲載されたのは1925年1月である。「現実」と「人間」のあり方を乗り越えようとする思想・運動が、この時期に噴出しているのだ。それは第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた不安定な時代における、喫緊の課題だったに違いない。
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参考文献
梶井基次郎『檸檬』新潮文庫、1967年