概要
『センセイの鞄』は、1997年から2000年まで『太陽』に連載された川上弘美の小説。2001年度の谷崎潤一郎賞。英訳もあり海外での評価も高い。2003年には小泉今日子と柄本明が主演で実写映画化された。
登場人物は主人公の大町ツキコ、ツキコの元国語教師センセイ、居酒屋の店主サトル、ツキコの同級生小島孝。ツキコさんとセンセイの恋愛を描く。
同時代に小川洋子の『博士の愛した数式』がある。また中年男性と若い女性との恋という点ではカズオ・イシグロ『日の名残り』が近い。
純文学はほかに、谷崎潤一郎『春琴抄』、村上春樹『海辺のカフカ』「かえるくん、東京を救う」、遠藤周作『沈黙』、石川啄木『一握の砂』などがある。
本作は「日本純文学の最新おすすめ小説」で紹介している。
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登場人物・キャスト
大町ツキコ(小泉今日子):37歳の独身女性。近くの居酒屋でセンセイと親しくなり、距離を縮める。
(他の出演作:『踊る大捜査線 THE MOVIE』、『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』)
センセイ(柄本明):本名は松本春綱。67歳の元国語教師。離婚しており近くの居酒屋に通っている。
サトル(モト冬樹):ツキコとセンセイが通う居酒屋の店長。
小島孝(豊原功輔):ツキコの高校の同級生で、同窓会を機に親しくしなる。
あらすじ・ネタバレ・内容
高校時代の国語の担当であったセンセイと数年前に駅近くの居酒屋で再開したツキコさんは、居酒屋で会うと交流するのが常であった。ツキコさんと先生は次第に親しくなり、キノコ狩りやお出かけをするようになる。
ある時、センセイはツキコさんを毎年開かれる高校の関係者による花見に誘う。そこでセンセイが美術の先生であった石野先生と仲良さげに談笑しているのを目撃したツキコさんは、先生に対してモヤモヤした気分を覚える。ツキコさんは高校時代の同級生の小島孝に話しかけれ、花見を抜け出してバーへと向かい親しくなる。
ツキコさんは小島孝に旅行に誘われるも、センセイのこともあり返事に困ってしまう。居酒屋でセンセイと再会すると酔っ払ってしまい、気がつくとセンセイの家にいた。小島の旅行に行きたくないと確信し、センセイに告白する。
ある時、センセイに誘われて島に行くことに。そこでも一線は越えられなかったものの、後日、美術館デートに行くことに。そこで正式なお付き合いを始める。
そこから3年後センセイは亡くなってしまう。残されたセンセイの鞄を物思いに眺めるのだった。
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解説
料理文学と空気感
『センセイの鞄』を読み始めると、恋愛小説という触れ込みとは裏腹に、居酒屋でだされる美味しそうで香りたつ料理に唆られる。おつまみ、おでん、豚キムチなどどれもビールに合いそうだ。描かれている料理を読んで味わうのもよし、実際に作ってみるのも面白い。料理の描写にかける熱量が大きいため、料理文学といっても言い過ぎではない。
食べ物が鮮明に描かれるのは、二人が通う居酒屋だけではない。居酒屋の店主サトルさんとセンセイと採りにいくキノコや、センセイと泊まった島でだされるタコ料理など、思えば物語の重要な場面ではセンセイとともに料理が添えてあった。ツキコさんとセンセイの恋愛は、常に料理を媒介してあるいは料理によって飾り付けられて、進行するのである。
普通の小説は視覚に重きが置かれている場合が多い。細かな情景描写は視覚の細部まで取り逃さないことを重視する。だが『センセイの鞄』の場合は視覚の情報は極力抑えられていて、逆に味覚や嗅覚に訴えかけるようなものになっている。そうすることで得られるものは場面としての出来事ではなくて、雰囲気の経験であろう。川上弘美作品の世界観が「空気感」と呼ばれる所以もここにある。
年齢差のある中年の恋愛
これほどにまで料理を丁寧に描くのは、雰囲気を楽しませるためだけでなく他にも意味があるように思えてくる。
ツキコさんとセンセイの恋愛は一般的なものよりも年齢に大きな差がある。すると、同世代の恋愛とは違って、享受してきた文化や状況も全く異なるために、共通の話題や感覚をもつことが難しくなる。実際、世代の微妙なズレのせいで、ツキコさんとセンセイの間には喧嘩が絶えることはない。プロ野球の話題になれば、どちらを応援するかで大喧嘩になる。ツキコさんとセンセイは慎ましい落ち着いた大人の関係というよりも子供の関係と言ったほうがしっくりくるぐらいだ。
ツキコさんとセンセイのその差を埋めるのに一役買うのが居酒屋で出される料理である。料理の好みが似ているツキコさんとセンセイは、一緒に料理を食することで共通の感覚を得ることができる。不穏な雰囲気の時も、意気投合している時も、そこにはいつでも料理があるのだ。
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考察
「こころ」との類似点
本作は夏目漱石の名著『こころ』に似ている部分が多い(夏目の他の作品:『夢十夜』『坊っちゃん』)。「センセイ」という呼び方だけでなくセンセイの死や、センセイの妻やツキコさんの友人の小島との関係なども似ている印象を受ける。そしてなによりセンセイとツキコさんの距離感が、『こころ』の先生と私の距離感に似ている。
『こころ』の先生と私はなぜか一緒にいるのと同じで、ツキコさんとセンセイも適度な距離感を保っている。年齢、昔の関係、元妻、元彼と様々な要素が二人が近づけることを妨げていて、それが読者にはいじらしく感じる。二人の絶妙な時間・空間の描写は非常に素晴らしい。ツキコさんの視点で描かれるためセンセイの感情ははっきりとはわからないから、余計なことを考えたり「期待しちゃダメ」と自分に言い聞かせたりする。いつになっても恋愛は難しい。
実際の恋愛だって重要なのは、この微妙な感じなんだろうと思う。どっちつかずで離れたりくっついたり言葉にしてみたり無視したり、そうやって間延びして縮まって歪んだ奇妙な時間が続いていくのだ。
哲学者と高年男性 —— 木田元の解説
『センセイの鞄』の末尾に木田元の解説が載っている。木田元といえばハイデガー 研究が有名で「反哲学入門」などの一般書もありご存知の方も多いと思う。この小説を哲学者がどう読むか、ちょっと興味が湧くだろう。
二人は会ったり会わなかったりの時間スケールが長いからか、小説内で進む時間が歪んでいるように感じる。木田元も哲学者らしくこの奇妙な時間の流れに注目している。名だたる哲学者を引用したあと、この小説について「やはり特異な時間と言うべきだろう」と結論づける。哲学者らしい鋭い指摘だ。ぜひ読んでほしい。
本解説の見所は後半だ。ヘーゲル、ルカーチ、マルクス、フロイトetcが登場する学者らしい解説のあと、固い文章から打って変わって、木田元の一番好きなくだりが引用される。引用の引用をすると
川からは秋の夜の空気が立ち上ってくる。センセイおやすみなさい。I♡NYのTシャツ、けっこう似合ってましたよ。風邪がすっかりなおったら、飲みましょう。サトルさんの店で、もう秋だからあたたかいものをつまみに、飲みましょうね。
何百メートルかへだてた場所に今いるセンセイに向かって、わたしはいつまででも話しかけた。川沿いの道をゆっくりと歩きながら、月に向かって話しかけるような気分で、いつまでも、話しかけつづけた。
『センセイの鞄』川上弘美
キュンとするシーンだ。相手の想いが定かでない夜に、声が届かないと知りながら相手に語りかけるこの場面は、恋愛ドラマでもありそうなロマンチックなシーンだ。さて、木田元はどう読むのか。
すてきな場面だ。誰にでもいい、こんなふうに話しかけられてみたいものである。
ええええっ!!完全にセンセイ視点じゃーん!
そう、これは哲学者木田元ではない、高年男性木田元としての感想を述べているのだ。「こんなふうに話しかけられてみたい」。こっちが恥ずかしくなるくらい率直な感想だ。学者としての鋭い読みとか難解な読解とかではない、ありのままの感想で哲学者木田元を知る読者には逆に新鮮である。
木田元の解説文には、図らずもセンセイの不器用さとお茶目さが濃縮されている。センセイの雰囲気を知りたいなら、まず木田元の解説から読むのをお勧めする。