『1Q84』考察|リトル・ピープルとビッグ・ブラザー|あらすじ感想・意味解説|村上春樹

『1Q84』考察|リトル・ピープルとビッグ・ブラザー|あらすじ感想・意味解説|村上春樹

概要

 『1Q84』は村上春樹の長編小説。BOOK1とBOOK2が2009年に、BOOK3が2010年に新潮社から出版された。全巻ミリオンセラーを記録した。

 1Q84年と呼ばれる新しい世界で、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』に導かれるままに、青豆と天吾が冒険する不思議な物語。

 村上はほかに長編『街とその不確かな壁』『風の歌を聴け』『海辺のカフカ』、短編「神の子どもたちはみな踊る」「かえるくん、東京を救う」などがある。

 純文学はほかに森見登美彦『四畳半神話大系』、芥川龍之介河童」、太宰治「人間失格」『走れメロス』、谷崎潤一郎『春琴抄』などがある。

 また「日本純文学の最新おすすめ有名小説」で日本小説のおすすめを紹介している。

登場人物

青豆:主人公。普段はジムのスポーツ・インストラクター。裏の顔は暗殺者である。「さきがけ」教団のリーダーの暗殺を老婦人から請け負う。

天吾:主人公。予備校の数学教師。予備校で教える傍ら小説も執筆している。『空気さなぎ』の代筆を行う。

ふかえり(深田絵里子):17歳。『空気さなぎ』の作者。

小松:編集者。天吾に『空気さなぎ』の書き直しを依頼する。

老婦人:70歳。個人レッスンを青豆から受けている。また、暗殺を青豆に依頼している。

先生(戎野先生):元文化人類学者。60歳前後。ふかえりを預かっている。アザミという娘がいる。ふかえりの父である深田保と、大学で教えている頃親しくしていた。

あらすじ内容(BOOK1)

エピグラム

ここは見世物の世界 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる

It’s a Barnum and Bailey world, Just as phony as it can be, But it wouldn’t be make-believe If you believed in me. 

“It’s Only a Paper Moon” (Billy Rose, E. Y. Harburg & Harold Arlen)

青豆の物語

 青豆がタクシーの中でヤナーチェクの『シンフォニエッタ』を聞いているところから物語は始まる。青豆はある打ち合わせに間に合わせるためにタクシーに乗ったが、高速道路で渋滞に遭い待ち合わせの時間に間に合わないとタクシー運転手に告げられる。しかたなく青豆はタクシーを降りて、高速道路の非常階段から地上に降りていく(1)。

 非常階段を降りているときに、高校時代の親友の大塚環との生々しい記憶を思い出す。地上に降り立った青豆は、電車で待ち合わせのホテルの一室へと向かう。待ち合わせ場所にいるのは、そのホテルの4階にいる40歳前後の石油関連の企業に勤めている金持ちの男である。ホテルのマネージャーを装い、空調設備の点検のためと言って部屋の中に入る。そして男に「首筋に何かついてますよ」と言いながら近づいて、その首筋の一点に、小ぶりのアイスピックに似た道具の先端の針先を突き刺す。男はそのまま全身の筋肉が収縮し死んでしまう。青豆は誰にも見られないように辺りに最新の注意を払って外に出ていく(3)。

 青豆はバーに入る。そこで髪の薄くなりかけている中年男を見つける。青豆は20歳前の頃から、そういった中年男に惹かれるようになっていた。「カティサークはお好きなの?」と青豆は話しかける。会話を一通り終えた後、バーの勘定を払い、二人は彼の部屋に移る。セックスを終えた後、テレビをつけるが、ホテルでの死体発見のニュースはまだ流れていなかった(5)。

 土曜日になり、青豆は「柳屋敷」を訪れる。その屋敷は立派な屋敷なのだが、青豆はその屋敷にある温室に来てもらいたいとタマルに言われ温室に行く。温室では、70代半ばの小柄な女性、女主人(老婦人)がいた。女主人は青豆が殺した男について言及する。「何ひとつ心配しなくていいのよ、私たちは正しいことをしたのだから」。温室を出たあと、警官の制服と拳銃が新しくなったのはいつかとタマルに聞くと、2年前だという。青豆はとても重要なニュースなのにそのことを覚えていない。他にも覚えていない事件がいくつかある(7)。

 青豆は区立図書館に行き、新聞の縮刷版の閲覧を請求する。彼女が探していた事件は10月19日に起こっていた。朝刊の一面には「山梨山中で過激派と銃撃戦 警官三人死亡」(本栖湖の事件)と大きく印刷されていた。こんな大事件見逃すはずはないと思っていたが、NHKの集金人が大学生を刺した事件も知らなかった。もしかしたら世界が本当に入れ替わってしまったのではないかと青豆は思った。その予兆を辿ると『シンフォニエッタ』にたどり着く。そういえばタクシー運転手も奇妙であった。風景が変わり、ルールが変わった。これらは仮説に過ぎないが、青豆はこの変わってしまった世界に独自の呼称が必要だと感じた。1Q84、青豆はこの新しい世界をそう呼ぶことにした。Qはquestion markのQである(9)。

 バーにいる。青豆は過去を回想している。青豆は体育大学をスポーツ・ドリンクと健康食品を製造する会社に4年間勤める。親友の環が死んで、そのあとはスポーツ・クラブのインストラクターとして就職する。そこでスポーツ・クラブの護身術クラスでは男の睾丸の蹴り方を教えていた。そのクラスで護身術クラスに参加していた老婦人と出会う。その後、個人的に老婦人の自宅でのマーシャル・アーツの教授を依頼される。そういった過去を追想していると「何を飲んでいるの」と声をかけられる。相手はあゆみという警察官だった。二人で男を誘おうと相談を持ちかけられる。相手がある中年っぽい二人組に決まると、あゆみは積極的に声をかけにいく(11)。

 青豆が目を覚めると、かなり深刻な二日酔いだということが分かる。しかしどうやって家まで戻ってきたのか記憶がない。そもそもあゆみと男たち四人でホテルの部屋に行った後の後半が記憶がない。あゆみと電話した後、老婦人の個人レッスンに行く。老婦人と話をしながら大塚環が死んだ前後のことを思い出す。二人は同い年で、都立高校のソフトボール部のチームメイトだった。どちらの家庭にも難があり孤独な二人であった。そういったこともあり、無二の親友となり様々なことを語り合った。環は大学一年生の秋に処女を失った。相手はテニス同好会の先輩であったが、ほとんど無理やり犯された。深く傷を負った環の代わりに青豆はその男に制裁を加えることにした。男が部屋にいない時に鍵を壊して部屋に入り、部屋の中にあるものをバットで何から何まで叩き壊した。環は24歳の時に2歳上の男と結婚した。青豆はうまくいかない予感がしていた。環は26歳の誕生日を3日後に控えた晩秋の日に、自宅で首をつって自殺した。家庭内には何も問題はないと言われていたが、家庭内暴力があったことを環の弟から知らされた。青豆は、あの男には制裁を加えなくてはならないと、心に決めた。そして針先の尖った特殊な器具を使って実行に移した。青豆が周期的に激しく男の身体を求めるようになったのはそれからである(13)。

 青豆はあゆみと一緒にフランス料理店に行く。そこであゆみに「これまで恋人を作ったことはある?」と聞かれる。青豆はないと答えるが、好きになった人は一人だけいるという。「十歳のときにその人が好きになって、手を握った」。青豆は無理に探したりしないが、運命の邂逅を待ち続けている。「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」。食事を終えて、あゆみは青豆の家に泊まることとなった。あゆみが先に寝ると、青豆はベッドを出てベランダに出る。夜空を見上げるといつもの夜空と違っている。月が二つつ浮かんでいる。ひょっとしたら、と彼女は思う、世界は本当に終わりかけているのかもしれない。「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。「待ちきれない」とどこかで誰かが言った(15)。

 翌日の夜、月はやはり二つのままであった。このところ奇妙なことが私のまわりで起こり続けている。私の知らないところで、世界は勝手な進み方をしていると、青豆は思う。警官の制服と制式拳銃が一新されていた。警官隊と過激派が山梨の山中で激しい銃撃戦を繰り広げていた。アメリカとソビエトが共同で月面基地を建設したというニュースもあった。それら全て青豆は知らなかった。老婦人の個人レッスンに行き、夕飯の食事を共にする。その部屋は彼女が老婦人に向かって、最初に秘密を打ち明けた部屋である。その秘密とは環の夫を殺害したということであるが、それを打ち明けた時、老婦人は「あなたは正しいことをしたのです」と言った。そして老婦人も然るべき手段をとってある人間を消えさせたことがあるという。「さて、これであなたと私は、お互いの重要な秘密を握りあっていることになります。そうですね?」。老婦人は自らが立ち上げたセーフハウスの話をした。老婦人は言う「よかったら私の仕事を手伝ってくれませんか」。この人は間違いなく一つの狂気の中にいる、と青豆は思ったが「私にできることがあれば、お手伝いしたいと思います」。そして現在また新たな依頼が老婦人から提案される。老婦人曰く今回は急を要する。その男は10歳の女の子(つばさ)に暴力を働いたのである。しかも彼女の子宮は破壊されており、子供を産めない身体となっている。「いったい誰がそんなことを」青豆は言った。「はっきりしたことはまだわかりません」と老婦人が言った。「リトル・ピープル」と少女が言った(17)。

 リトル・ピープルって誰のこと?と青豆が聞くが、返事はない。レイプの痕跡が認められると老婦人は言う。「ひどい話です。何があろうと許せないことです」。そして老婦人はこの子を自分で育てるという。さらに、この子に性的な暴行を加えた男に対しては野放しにしておくことはできず、できるだけ早い機会によその世界に移ってもらう必要があるという。それは「さきがけ」のリーダだということである。青豆はその話を聞いて帰宅する。夜につばさは老婦人と同じ部屋で眠りについた。やがて彼女の口がゆっくり開き、そこから、リトル・ピープルが次々に出てきた。全部で五人。彼らはベッドの下から肉まんじゅうほどの大きさの物体を引っ張り出してきて、いじりながらだんだんと大きくしていった。作業は数時間続いたが、つばさと老婦人はこんこんと眠り続けていた(19)。

 青豆は「さきがけ」について図書館で調べた。「さきがけ」として成立してから宗教法人化されるまでの報道などをである。青豆は図書館を出るとあゆみに電話をかけた。「さきがけ」が銃撃戦の後、何か事件を起こしていないか調べてもらうためである。三日後あゆみから電話がかかってきた。それによれば、あまり報じられてない部分としては、「さきがけ」は何度か法的なトラブルを起こしている。それも土地売買に関するトラブルであり、経済活動に関しては見かけほどクリーンではない。そしてもう一つきになる点として、教団の中の信者の子供たちが結構いるが、その子たちが地元の小学校を通うのを途中からやめてしまうことである。さらにその子たちは、上の学年にいくに従ってだんだんと口数が少なくなり、表情がなくなり、そのうち極端に無感動になるという(21)。

 青豆はまたあゆみと一緒にバーに行く。そこで一緒に男を探すが、今夜は手ごろな男を捕まえられない。二人は夜遅くまで営業しているイタリア料理店に入る。そこで『さきがけ』の教団について話したりする。青豆は今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信が持てないとう。しかし青豆には深く愛する人が一人いる。「私はいつかどこかで彼にたまたま巡り合うの」。二日後、タマルから電話がかかってくる。明日の午後また老婦人の個人レッスンをする予定を設定した後、あまり面白くない話をする。老婦人の犬が、朝になったらバラバラになって死んでいたという(23)。


天吾の物語

 天吾には1歳の頃の記憶がある。母親が父親でない男とセックスしているのを見ているという記憶である。その記憶から物語は始まる。現実では、天吾は小松と喫茶店でふかえりの小説『空気さなぎ』について話している。この小説を天吾に書き直してもらいたいと小松から提案される。天吾は困惑し答えを保留するが、小松に本当は君自身書き直しをしたがっているというところを指摘され、押し切られる形で書き直しをすることになる(2)。

 小松がふかえりに了承を得るために連絡すると、ふかえりは天吾にまず会ってみたいと返事する。天吾は了解し、ふかえりと新宿の中村屋で会うことになる。面会してみると、ふかえりは、アクセントの慢性的な不足など、話し方に独特な特徴のある風変わりな人物であった。話の最後に『空気さなぎ』を書き直していいか聞くと「すきにしていい」という。それでは明日から書き直しの作業に入りたいというと、ふかえりは「あってもらうひとがいる」という。天吾はその人と日曜の朝に会う約束をする(4)。

 朝の9時過ぎに人妻のガールフレンドから電話が来る。残念だけど今日は、身体の具合が思わしくなく会えないという。しかしそれほど残念というわけではなかった。天吾はワードプロセッサーを買って、『空気さなぎ』の書き直し作業を始める。作業を夢中になって続けていると3時になった。天吾は『空気さなぎ』の主人公はおそらく過去のふかえり自身だと推測する。5時半にまた人妻のガールフレンドから電話がかかってきたあと、今度はふかえりから電話がかかってくる。日曜日の待ち合わせは「あさの九じ、シンジュクえき・タチカワいきのいちばんまえ」だという。『空気さなぎ』の主人公は過去のふかえりか聞いたが答えない。「じゃあ、日曜日の9時に」と天吾がいうと、ふかえりは何も言わずに電話を切る(6)。

 日曜日は天吾にとって良くない日である。天吾の父に連れられてNHKの集金に回ったからである。父の過去の話を思い出す。父は、母親は天吾を産んで数ヶ月後に死んだという。しかし天吾の記憶では、母親は彼が一歳半になるまで生きていた。そして天吾の眠っている側で、父親以外の男と抱き合っていた。ふかえりが待ち合わせ場所に来る。二人で電車に乗り込む。話をしながら、ふかえりが読字障害(ディスレクシア)だということが分かる。そして『空気さなぎ』は、おそらく先生と呼ばれている人の娘であるアザミという人物が、ふかえりに内緒で新人賞に応募したことが判明する。天吾は何かを恐れている感じがする。ふかえりは天吾の手を握り「こわがることはない。いつものニチヨウじゃないから」という(8)。

 先生と会い、『空気さなぎ』書き直しについて話をする。先生はふかえりに聞きながら書き直しを了承する。そこでふかえりの父である深田保や「さきがけ」の話を聞くことになる。深田保は先生の親友であり、深田保が「さきがけ」のリーダーになるまでの話を聞く。話の最後に発作が襲ってくる(10)。

 発作は収まり、「さきがけ」の話が続けられる。そうしてある日、ふかえりが予告もなく先生のところに現れたという。深田に電話をかけるが深田は電話に出ない。結局それ依頼7年間、一度もふかえりの両親と連絡が取れていない。『さきがけ』の内部で何かよくないことが起こっているはずである。しかも『さきがけ』はいつのまにか宗教法人の認可を受けていた(1979年)とのことである。先生はその真相を暴こうと思っていることが分かってくる。天吾は帰りに駅で親子連れを見かける。そのうちの少女の目は、一人の少女のことを思い出させた。親が「証人会」という宗教団体の信者だったところの子供である。彼女は小学生の頃、周りの生徒から無視されていた。しかし天吾は一度だけその女の子を助けたことがある。そしてあるときその女の子は天吾の手を握ったのである(12)。

 天吾は喫茶店で小松と会う。書き直した『空気さなぎ』を完璧に近いと小松に褒められる。小松と別れたて夜になるが読書に集中できない。天吾は年上のガールフレンドに白いストリップを着てきてくれないかと頼んだときのことを思い出す。それから父親のことを考える。母親の乳首を吸っている男の方が、自分の生物学的な父親なのではないかと。天吾は小学校五年生の時に、日曜日に父親とNHK受信料の集金に回るのはやめたいと宣言した。父親は家を出てけと言った。言われた通り天吾は家を出たが、よるところもないので、そのことをクラスの担任の教師に打ち明けた。そしたらその担任の教師は父親を説得して家にいていいし日曜日は自由だということになった。その担任の教師は小学校卒業後会う機会がなかったが、高校二年生の時に再会した。しかし再開した時には、どうしても彼女の名前を思い出せなかった(14)。

 十日かけて『空気さなぎ』を完成させた後の天吾は穏やかな日々を迎えた。5月になって小松から電話がかかってくる。『空気さなぎ』の新人賞受賞が決まったという。小松は記者会見を開くことになると思うから、その質問の答えをあらかじめふかえりに教えといて欲しいと言われる。天吾は無理だと思いながらも了承し、ふかえりと喫茶店で打ち合わせすることになる。喫茶店でふかえりと記者会見の質問に答える練習をするが、最終的には好きなように答えればいいということになる。ただし、『空気さなぎ』の書き直しの件だけは誰にも言わないで欲しいという。さらに今日着てきていた薄い夏物のセーターを、記者会見当日も着ていくことをふかえりに個人的にお願いする(16)。

 記者会見が終わる。「見事な出来だよ」と小松が言う。そして小松の予言は的中する。ふかえりの『空気さなぎ』が掲載された文芸誌はほとんどその日のうちに売り切れ、書店から姿を消した。文芸誌が売り切れることはほとんどないにも関わらずである。単行本の出版予定の4日前にふかえりから電話がかかってくる。今日の午後に会いたいという。いつもの喫茶店に行くと、ふかえりと一緒に戎野先生もいる。先生はお礼を言いにきたという。『さきがけ』の話になる。『さきがけ』の内部で何が起こったのかという話をしていると、ふかえりは、「リトル・ピープルがやってきたから」と言う。先生は言う「ビック・ブラザーの出てくる幕はもうない」。戎野先生は先に席を立って帰っていった。残った天吾とふかえりも喫茶店を出る。帰る時になってふかえりは天吾のうちに泊めてもらうという。天吾はふかえりを部屋に入れる(18)。

 天吾は眠れなかった。ふかえりは彼のベッドに入って、彼のパジャマを着て、深く眠っていた。ふかえりが起きてきたのは午前2時過ぎだった。ふかえりは「あなたがかいたものをよんでほしい」という。天吾は途中の原稿は人に見せないことにしているといい、代わりにアントン・チェーホフの『サハリン島』を拾い読みすることにする。その中でギリヤーク人について書かれた文章にふかえりは注目する。ギリヤーク人というは、ロシアたちが植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた先住民のことである。チェーホフはサハリンのロシア化によって急速に失われていくギリヤーク人たちの生活文化を間近に観察し、少しでも正確に書き残そうと努めた。天吾はギリヤーク人について書かれた箇所を続きを読んでいく。そのうちふかえりは完全な眠りについていた。読むのをやめ、天吾もソファで横になった。朝8時半に目を覚ますと、ふかえりの姿はベッドの中にはいなかった。「ギリヤーク人は今どうしているのか。うちに帰る」と書かれた用紙が置いてあった。もしかして、おれはあの子に恋をしているのだろうか。今日はガールフレンドのくる日である。考えるのはそのあとにしよう(20)。

 天吾のガールフレンドがきてセックスをする。天吾はふかえりのことを考えて、何度もガールフレンドの口の中に射精してしまう。ふかえりの『空気さなぎ』は単行本発売後、2週間目にベストセラー・リストに入り、三週目には文芸書部門のトップに踊りでていた。小松は『空気さなぎ』を送ってきてくれたが、天吾はページを開くこともしなかった。ふかえりと出会ってから、天吾は数学教師として教壇から教室を見廻しても、17か18歳の少女たちに興味を抱くことはもうなかった。ふかえりはきっとて特別な存在なんだ。と天吾はあらためて思った。他の少女たちと比べることはできない。それは俺に向けられたひとつの総体的なメッセージなのだ。しかしふかえりに関わるのはもうよした方が良い。そうしたなか小松から電話がかかってきて、ふかえりの行方がしばらくわからなくなっているという。行方不明になって三日経つが、天吾のところにも連絡は来ていない。戎野先生は警察に捜索願いを出すといっている。小松の電話を聞いてからというもの、何をしても気持ちを落ち着かせることができなかった。そうして、『空気さなぎ』がベストセラー・リストになって6週目を迎えた木曜日にふかえりから連絡が来た(22)。

 60分テープが送られてきた。ふかえりの声が録音されていた。ふかえりは、心配していると思うが、今のところ危険もないし大丈夫だという。ただし他の人には言わないようにということと、この間は泊めてくれてありがとうとうことと、リトル・ピープルには気を付けろということだった。金曜日にはガールフレンドがいつもの通りやっていた。書きかけの小説の話になる。ガールフレンドはその内容を教えて欲しいという。天吾は言う。その世界はここではない世界であり、例えば、その世界には月が2個あるという。この設定は『空気さなぎ』から運び入れたものである。insaneとlunaticの区別をガールフレンドから聞かされた後、「あなたにはこの世界のことが何にもわかっていない」と言われる。ガールフレンドが大学で英文学の講義を受けているところを想像する。ディッケンズのロンドンを照らす月。そこを徘徊するインセインな人々と、ルナティックな人々。彼らは似たような帽子をかぶり、似たような髭をはやしている。どこで違いを見分ければいいのか分からず、天吾は今どの世界に自分が所属しているのか、自信が持てなくなる(24)。

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解説(BOOK1)

ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル

 村上が好んで用いる複数の物語の同時進行がこの小説にも見られる。二人(天吾と青豆)の話が同時進行で進む。あらかじめ述べておくと、BOOK3ではさらにそこに牛河という人物が加わり、三人の物語になる。また題名からも分かる通り、『1984』という小説が背景をなしている。『海辺のカフカ』は『オイディプス王』が下地を成しており、そういった構造も今までの小説を引き継いでいる。

 また『ねじまき鳥クロニクル』との相似点も数多く見出される。ともに1984年の設定であり、主人公が29−30歳であること、三巻共に月表示(『1Q84』の場合BOOK1は4−6月、BOOK2は7−9月、BOOK3は10−12月である)が割り振られていることなどである。加藤典洋によれば、これは村上が意識的に行ったことだと推測している(『村上春樹は、むずかしい』)。

 注目すべき点がいくつか挙げられるが、まずはリトル・ピープルである。作中でも明かされているが、リトル・ピープルはビッグ・ブラザーと対の存在である。ビッグ・ブラザーとはジョージ・オーウェル『1984』(1948年)に登場する独裁者のことである。しかし先生の言葉にもあるように作中では「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」と宣言されている。そんな2000年代に暗躍し、力を持つのがリトル・ピープルである。

 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』によれば、リトル・ピープルとは「現代のシステム(グローバル資本主義)が不可避に発生させる力(51頁)」のことである。リトル・ピープルというのはそういった力を持った人間のことではない。そうではなくて、このグローバル資本主義そのものに宿る負の部分みたいなものである。宇野の分析ではまた、リトル・ピープルとは旧い壁=ビッグ・ブラザーなきあとに出現した現代における新しい壁のとことであり(「壁と卵」)、その力に負けない「個」を育成するために、この『1Q84』が書かれたという。

 宇野はさらに日本の精神史にリトル・ピープルを位置づける。すなわち、そのようなグローバル資本主義の力が強くなった時代、1995年以降の日本はリトル・ピープルの時代なのである(アメリカは2001年以後)。さらにこのリトル・ピープルの時代は、宇野自身の概念である「拡張現実の時代」とも対応することになる。

考察・感想(BOOK1)

天吾と青豆の交差

 村上作品は現実と複雑に絡み合いながらも現実ではない世界(夢、記憶など)が度々登場する。『1Q84』では、いつのまにか現実なのに現実でない世界(月が二つある世界)に迷い込んでしまう。すごいことになったなあと思う。

 そして現実と虚構との境が不透明なると、様々な虚構としての現実が紛れ込んでくる。それなのに、はっきりとこれが現実だと明かしたりはしないのが、村上作品の特徴である。

 『海辺のカフカ』では、カフカの本当のお母さんや姉と思わしき人物が登場するし、ほとんどそうなのだろうと思わせるような描写もあるのだが、それは最後まで明かさない。佐伯さんは過去のことを綴ったノートをナカタさんに渡して燃やしてしまうのである。果たして、本当のところどうであったのかは永遠にわからない。もちろん現実と虚構の区別があそこまで不透明だと本当のところという問いかけ自体がややずれているということもできる。

 『1Q84』でも、そのような謎めいた虚構めいた現実がたくさん登場する。天吾に関していうと、NHKの集金人であった父は、本当に父だったのだろうかという問いかけである(14)。まず天吾にとって父親との関係が定かではない。ふかえりは『空気さなぎ』の話自体が謎めいている。そもそも仮にそれがふかえりの体験談だったとして、月が二つとはどういうことなのだろう。また、リトル・ピープルという存在自体が謎でもある。また、青豆の1Q84の世界である。これらのうちのいくつかは、BOOK2,BOOK3と進むにつれて謎が解けることになるらしいが、今回も謎を残したままにするのかは興味深いところである。

 『海辺のカフカ』では物語の話が一つに、あるいは交差する地点が設けられている。どこかで重なるということだ。『1Q84』ももちろんそのようなことになるだろう。すでにそれはBOOK1の段階でかなり明らかとなる。

天井のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与えください。アーメン。

天吾(12)、青豆(13)

 この言葉が天吾と青豆の両方のパートに登場する。また「王国の到来」という言葉は青豆(11)に登場する(「王国の到来をしっかりと直視させてやる」)。というわけで、結構早い段階で天吾が小学生の時に手を握った証人会の少女は青豆のことで、青豆が唯一好きでいる男の人というのは天吾のことである。これがBOOK2、BOOK3でさらに展開していくのだろう。

 他にも謎多き豊かな登場人物が存在する。編集者の小松と先生はいったい何が目的でふかえりを利用しているのだろうか。小松の目的は文壇の破壊で、先生の目的は「さきがけ」と深田が生死の解明なのだろうか。また暗殺を青豆に依頼する老婦人もなかなかの魅力だ。芯が通っているとはいえ、いささか狂気じみている人物である。さらには、タマルやあずさなども今後どういう展開を見せるのか。今後の展開が待てないBOOK1である。

(続く)

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