葱とスカートとグローバル・ワンダーランド 『街とその不確かな壁』を読む

葱とスカートとグローバル・ワンダーランド 『街とその不確かな壁』を読む

この話に主題を探す者は起訴される。 

― マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』エピグラフ

コラボUT着てる奴もうグッナイ

Mの人生語る奴もうグッナイ

直子だけ言う奴もうグッナイ

ハードでワンダーな奴もうグッナイ

初出コピーしてる奴もうグッナイ

アンチぶってる奴もうグッナイ

装丁褒める奴もうグッナイ

壁とその不確かな壁って言う奴もうグッナイ   

― suchmos「STAY TUNE」の今流行っている替え歌

私がでっち上げた、私たち二人が自由に遊びまわれる世界の物語を、あなたはいつまでも聞いてくれた。帰らざる城、悲しみの国、忘れられた言葉たちの森。覚えてますか?

ーポール・オースター『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳、原著1987年)

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「完璧な批評などといったものは存在しない。完璧なハイスペック男子が存在しないようにね。」ある作家は僕に向ってそう言った。

しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕にとって書くことのできる領域はあまりに限られたものだったからだ。例えばトップガンについて何かが書けたとしても、コッペパンについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。

『街とその不確かな壁』が店頭に並んで3週間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。―3週間。長い歳月だ。

今、僕は書こうと思う。

「村上春樹の最新長編」ではなく、『街とその不確かな壁』という名の、単なる一つの小説を読んでいく。この論考はそこから始まる。それが入口だ。うまくいけば、出口が見つかるかもしれない。そしてその時、コッペパンはブルスケッタに還り僕はより美しいパスタを和えながら391杯目の生ぬるいビールを飲み干すだろう。

この論考は2023年の4月30日に書き始められ、8日後、つまり同じ年の5月8日に書き終えられる。

1. 「街」と「町」

「街」とは何だろうか?「私」が図書館長として勤務する、福島のどこかにあるらしい「ちっぽけな田舎の町」(p.254)である「Z**町」とは注意深く区別して表記された、「街」とは?

『街とその不確かな壁』の第一部は、「きみがぼくにその街を教えてくれた。」という印象的な一行で始められる。「ぼく」は十七歳、「きみ」は十六歳。「きみ」は「ぼく」に、今の「きみ」は身代わりにすぎず、「本当のきみ」は現実世界には存在しない、高い「壁」に囲まれた「街」の図書館に勤めていると語る。第3節では唐突に、獣たちと「街」の描写が挿入され、読者を戸惑わせる。「でも私は自分の目で、実際にそのような光景を目撃したわけではない。きみからその話を聞いただけだ」(p.21)。この文で「私」が導入されている。第5節では、「街」の図書館に<夢読み>として勤務する「私」と、共に働く(「きみ」ではない)「君」との会話が描かれる。「君が丁寧な口調で答えるのはおそらく、君がまだ十六歳のままなのに、私はもう十七歳ではないからだ。君にとって私は今ではもう、遥かに年上の男性なのだ」(p.31)。「ぼく」と「きみ」、「私」と「君」との対応/移行関係を読者は推量する。「私は自分の目で…目撃したわけではない」と語られていたわけは、「私」が「街」に行けなかったからではなく、「街」に踏み入れたものの短期間だったため春を経験できなかったからであることも、ここで読み取ることができる。案の定、第23節で「四十五歳」になった「ぼく」は、穴に落下し、「街」の世界で男に発見される。読者はこれ以降の「ぼく」が、第5節の「私」に接続されると読むよう期待されている。「私」は「影」と「街」からの脱出を決意するが、第25節で翻意し、第26節で「影」と別れ「街」の図書館に向かって歩みを進めてゆく所で第一部が閉じられる。

十六歳の「きみ」いわく、「街」には電気もガスもなく、人々はなたね油をエネルギー源とし薪ストーブで暖を取って暮らしている。「なたね畑はたくさんあるし、油は豊富に簡単に取れる」(p.110)ため、なたね油=エネルギーが不足することはない。水にも不自由することはなく、人々が少食なため食料品は自給自足でまかなえる。皆、「昔からあるものを修繕しながら大事に使っている」(同)。ここからイメージされるのは、中世ヨーロッパの修道院を囲む荘園のような、低成長・停滞型の社会である。「私」が第9節で実際に目にする「街」の描写にも、「職工地区」という地名が「ただの慣習的な呼称となって」おり、「工場はとうの昔に操業を停止していたし、建ち並ぶ高い煙突は煙を出すことをやめていた」(p.60)と、「非・成長」のモティーフが埋め込まれている。

だが、「街」に工場が存在するものの現在は操業を停止していることが暴いているのは、「街」のまとう中世ヨーロッパ風のイメージが、実は偽りにほかならないことだ。イギリスの経済学者コーリン・クラークは、第二次世界大戦下における国民経済を研究する過程で、「第一次」「第二次」「第三次」の産業分類を考案した。「第一次産業」は農林水産業、「第二次産業」は工業、「第三次産業」は小売業・対人サービス業がその代表である。クラークは後に「ペティ=クラークの法則」として高名になる主張の中で、社会の発展に伴って就業人口や総生産が第一次、第二次、第三次と移行していくとした。クラークに従うならば、第二次産業の象徴たる工場すらもはや過去の遺物となっている「街」は、第一次産業を中心とする中世ヨーロッパ的な共同体ではあり得ない。「私」自身も、「『官舎地区』と呼ばれる区域に、小さな住居を与えられて」(p.61)、<夢読み>として暮らしている第三次産業従事者である。「街」の第二次産業は空洞化しており、第一次産業に従事しているはずの者(例えば、なたねを収穫する農家、食料を生産し「自給自足」する人々)の姿や労働はテクスト上で不可視にされている。「私」による描写から読み取れる「街」は、「きみ」の語りが醸し出す「非・成長」イメージとは裏腹に、第三次産業が支配的となった「近代」的「脱・成長」社会だ。(もちろん、「壁」の近くの区域を探索した「私」が後に推理するように、疫病等の要因で第二次産業が放棄され廃墟となった可能性もあるが、一度は「工場」の段階を通過していることは揺るがない。)

「近代」がある時「脱・成長」の段階に達し、にもかかわらず時に中世的な「非・成長」イメージをまとおうとすることは、近年のエコロジー運動や一部の音楽フェスを想起すればわかるように、珍しいことではない。しかし、「街」はそれら現実の物事とも決定的に異なっている。「街」には正確な時刻が存在しない。「中央の広場には高い時計台があるけれど、針はついていない」(p.10)。それだけでなく、はるか後の第三部に「イエロー・サブマリンの少年」が総括するように、「進行する時間」という近代の中心概念そのものが存在していないのだ。

「時間がなければ、蓄積みたいなものもない?」

「ええ、時間のないところには蓄積もありません。蓄積のように見えるのは、現在の投げかける仮初めの幻影に過ぎません。本のページをめくるところを想像してください。ページは新しく変わりますが、ページ番号は変わりません。新しいページと前のページとの間には筋の繋がりはありません。まわりの風景は変わっても、ぼくらは常に同じ位置に留まります」

(p.634)

同じことを、「影」は「ここはなんだかテーマパークに似ていると思いませんか」(p.128)とより直接的に表現している。「朝に門が開いて、日が暮れれば門が閉まる。書き割りみたいな光景が至るところに広がっている。単角獣までうろうろしている」(同)。

「街」は「非・成長」のイメージをまとった「テーマパーク」的世界である。では、もう一方の「町」とは何だろうか?

現実の「町」が、第二部から登場する。「街」にとどまったはずの「私」は、なぜか「現実の世界」(p.188)に「戻ってきて」おり、「この現実が私のための現実ではないという肌身の感覚」(p.190)に耐えきれず、勤務していた書籍取次の会社を辞職する。「図書館で働く」(p.197)ことに決めた「私」は、見た夢を手掛かりに、福島県「Z**町」という「町」の図書館へと向かう。

注意すべきなのは、「私」が夢で見た図書館の情景にカレンダーが出てきた点である。「壁にはカレンダーがかかっている。山と湖の風景写真がついたカレンダーだ」(p.199)。カレンダーと言えば、第一部における「この実際の世界」の側の描写で、「ぼく」が「きみ」の長文の手紙を受け取る直前に、「秋は過ぎ去り、季節は冬へと移っていった。カレンダーが最後のページとなり」(p.115)という描写があった。時間の進行しない「街」の図書館とは対照的に、現実の「町」の図書館は完全に「進行する時間」に屈している。そのことは、第二部後半から重要性を増していく、図書館によく来る「イエロー・サブマリンの少年」が象徴している。彼は、社会から外れている存在なのだということが「私」の視点から何度も強調される一方、なお「登場人物の生年月日が何曜日か言い当てる」ことを特技とする「カレンダー・ボーイ」(p.388)に他ならない。

「街」の図書館が現実を離れた理念的な存在ならば、「町」の図書館は現代社会の関数である。「私」のために「Z**町」の図書館をリストアップしてきた元同僚の大木は、その図書館が名義上町営となっていながら町が運営に関わっていないことを「今風にいえば、民間移管された図書館というわけです」(p.205)と説明する。「街」では「官舎地区」に住む「官吏」として図書館に勤務していた「私」は、現実の「町」では、民間から再雇用され民間人として図書館長となる。本作のこのような設定は、現実の日本社会で新自由主義的グローバル化政策が推進されるさなか、2003年に開始された公共施設の「指定管理者制度」がもたらした想像力に立脚している。この制度に基づき、現在では約15%の公立図書館が民間委託されているという。『街とその不確かな壁』は、まずなによりも、図書館民営化の小説である。本作で「私」が行うさまざまな図書館業務は、規則に従った従来型の労働ではなく、民間で働いていた「私」が子易さんからの信頼を受けて行う、アイデンティティー維持のためのクリエイティブ労働でなくてはならない。「ああ、あなたの評判は間違いないものでした。仕事においては有能であり、人柄も森の樹木のように信頼できると」(p.222)、「図書館以外に、私の行くべき場所はない。こんな簡単なことに、なぜこれまで気づかなかったのだろう?」(p.196)。だから、薪ストーブを使うための煙突の清掃という「非・本質的」な業務は、「専門の業者」(p.264)に委託されることとなる。

日本では、公立・私立を問わず、全ての図書館は昭和25年4月30日公布の「図書館法」に基づいて設置されている。その第三条で「図書館は、図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望に沿い、更に学校教育を援助し、及び家庭教育の向上に資することとなるように留意」するよう規定されている。指定管理者制度の一般化以前は、図書館法の影響力が現在よりも強く、「学校教育を援助」の文言があるために「図書館=不登校生徒の居場所」論の立脚する余地が少なかった。しかし本作の図書館は、「私」が町役場と連絡を取ろうとしても放任されるほど、独立性が高い。

何かを相談しても、「なんでも、そちらの好きにしてください」と言わんばかりの応対だった。町役場はこの図書館とできるだけ関わりを持たないよう努めているのではないか、という印象を持ったほどだ。[…]しかしそれは結果的には、私にとってけっこうありがたい状況だったと思う。どんなちっぽけな田舎の町にだって、官僚的な部分は避けがたくある。いや、小さい政体であればあるほど、縄張り争いみたいなのは熾烈かもしれない。そういう面倒な部分と関わりを持たずにすむのは、まず歓迎すべきことだった。

p.253-254

官僚的に縄張りを守ることより、クリエイティブに規則の弾力的な運用を、というのが民営化の進む現代の趨勢である。不登校生徒の図書館利用に関しても、現在では、鎌倉市中央図書館の「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」という2015年のツイートを皮切りに論議が活発化しているのは周知の通りだ。図書館員の添田さんが、学校に行かない「イエロー・サブマリンの少年」を見守るという本作の展開は、このような現実の動きと連動している。

 だが添田さんが、全図書館員の行動原理であるべき「図書館の自由に関する宣言」に反して行動している可能性があることは指摘しておかねばならない。「図書館の自由に関する宣言」では第3宣言「図書館は利用者の秘密を守る」において、「読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。」と誓約している。「私は添田さんが一昨年の春から記録している、この図書館における彼の読書リストを見せてもらった」(p.402)という行動は、「私」は館長であるので「外部」の人間ではないにせよ、「イエロー・サブマリンの少年」のプライバシーを尊重しているとは到底言えない軽率なものだ。添田さんについて「私」は、「図書館の運営に必要なものごとは、おおむねすべて彼女のコントロール下にあった」(p.237)と称賛しているが、「イエロー・サブマリンの少年」の行く手から害を及ぼしそうな本をアンダー・コントロール(=検閲下)に置く彼女の方針に関しても、規則の弾力的運用の範疇で捉えているようだ。公共領域の、民営化による置き換えが進む現代社会の影響が、「町」の図書館に如実に形象化されている。

以上のように、一見対照的に描かれている想像上の「街」と現実の「町」とは、第三次産業を主体に構成されている(と、語り手の「私」からは見られている)点で、実は同一の地平にある。一方で時間に関しては、「街」には針のない時計に象徴されるように近代的時間の感覚が存在していないのに対し、「町」ではカレンダーに象徴されるように近代的時間の意識が貫徹している。「町」の図書館運営をめぐる描写には、公共領域における民営化の浸透という現代社会の特徴も反映している。

「街」と「町」の違いは、それらを動かすエネルギーの違いにも表れている。「街」では、前述のように無尽蔵のなたね油(その精製過程は不可視であるのだが)が全体を駆動しているようだ。一方の「町」は、「私」がそこに「東北新幹線」「在来線」「ローカル線」(p.208)などの「電」車を使ってたどり着くように、「冷蔵庫」(p.227)などの家「電」を受け継いで暮らすように、(われわれの社会と同じく)電気がエネルギーの中心となっていると推測される。ところが、実際に記述されるのはガスである。

「しかしそれでも、ガスの火のことはどうしても彼女[=子易さんの妻]の脳裏を去らなかった。」(p.326)

「それから彼女[=コーヒーショップの女性]はゆっくり私の前を離れ、ガスの火を止め、沸いた湯で新しいコーヒーを作り始めた。」(p.470)

本作が福島を舞台にしているにもかかわらず、シャブリを冷やす冷蔵庫、マフィンを温め直す電子レンジ等に使用されているに違いない作品世界の電気がどこから来るのかについては何も示さず、かつ「電気」の語そのものも「ぼく」と「きみ」との対話(p.109)を除いて排除されているのは、現代社会を考察する上できわめて徴候的な例となっている。しかしここでは、「街」のなたね油と「町」のガスが「火」のテーマで対をなしていること、両者をつなぐ中間領域として設定された半地下の「真四角な部屋」(p.260)には「赤く燃え盛る炎」(p.263)を眺めることのできる「古典的な薪ストーブ」が置かれていることのみを指摘し、次章に移ることにする。

2. 「壁」と「服」

「壁」とは何だろうか?想像の中に位置する「街」は高い「壁」に囲まれているが、読者の生きる現代社会にほど近い「町」には、その対応物はあるだろうか?

答えへの手がかりは、本作の第二部末尾で提示されている。「私」はコーヒーショップを経営する女性と親密な間柄になり、コーヒーショップの二階にある彼女の部屋で抱き合う。彼女がセックスという行為に抵抗感のあることを既に伝えられていた「私」も、彼女が硬質の「特別な下着」でその身を防御していることに驚く。「<仮説的なものごと>対<特別な下着>」(p.582)。

彼女とのキスに、「私」は「唇はやはり温かく柔らかく、そしてそれ以外の身体の部分とは違って、何かに堅く防御されてはいなかった」(p.584)と感じる。さらに、「今の私が求めているのは、彼女が身につけた防御壁の内側にあるはずの穏やかな温かみだった。そしてその特殊な素材で作られた円型カップの奥に脈打っているはずの心臓の確かな鼓動だった」(p.586、強調筆者)とも。

「私」が「特別な下着」を彼女の「壁」と見なしていることは重要である。ここでの「壁」は、内部の温かさを外界から守るためのものだ。「私」は、彼女の愛読している『コレラの時代の愛』からの連想で、この世界に境界が存在していることを一度は疑うが、やがて不確かな形で存在していることを確信する。

ガルシア=マルケス、生者と死者との分け隔てを必要とはしなかったコロンビアの小説家。

何が現実であり、何が現実ではないのか?いや、そもそも現実と非現実を隔てる壁のようなものは、この世界に実際に存在しているのだろうか?

壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはずだ。でもそれはどこまでも不確かな壁なのだ。場合に応じて相手に応じて堅さを変え、形状を変えていく。まるで生き物のように。

p.587-588

「町」における「壁」とは何か?自己と他者、生と死、現実と非現実とを区切り、「周囲に潜む(とおぼしき)仮説的なものごとから自分を防御」(p.585)し、自分が自分でいられるようにするためのもの。それがなければ、自分が日々を送っていくことのできないもの。「町」における「壁」は、そのようなものだと考えてよいだろう。

ではタイトルになっている「街とその不確かな壁」は何を指すのか。「街」を「きみ」や「私」の内面世界の比喩と捉えるならば、高い「壁」がそれを守る自意識の比喩であることもすぐに想像がつく。「イエロー・サブマリンの少年」の言葉を受けて「私」が言う、「魂にとっての疫病」(p.449)を排除するために「壁」(=自意識)が「街」(=内面)のシステムを再設定したという寓話も、一見するほど唐突ではない。

…等々、「壁」をめぐるこうした比喩の連なりは、いわば本作の「公式見解」もしくは「初期設定」であり、意味を追及しても堂々巡りに陥ってしまうように感じられる。より重要なのは、コーヒーショップの女性にとっての「特別な下着」のように、「町」においては「服」が「壁」として機能していることを、文字通り受け止めることだ。本作に「境界のどちら側なのか」というモチーフが頻出するのは、衣服が自己の内でもあり外でもある事物だということと響き合っている。「不確かな壁」とは、現実の世界においては、布で作られた「服」のことなのである。

例えば、コーヒーショップの女性の「特別な下着」を、「私」は「特性の鎧でも身につけているみたいだ」(p.581)と形容している。ところが、初めて「鎧」と形容されるのは彼女の衣服ではなく、実は「私」の衣服だ。「もう二十年くらい前から着ている」ダッフルコートを彼女に褒められ、「私」が謙遜して自分で「鎧みたいに重い」(p.467)と言っているのだ。明らかに、「私」にとってはダッフルコートが世界に対する「壁」なのであり、そのデザインの古さは、「私」が過去の喪失感を現在に引きずっていることの象徴である。「私」は「壁」であるコートを「ずいぶん素敵」と言ってくれたことからコーヒーショップの女性を自宅に招き、「小エビの殻を剥き、グレープフルーツを切り揃え」(p.479)て料理を作る。いずれも固い表皮を取り去られて柔らかい身が調理されているのは偶然ではない。

視点を変え、「きみ」に対する認識もまた「壁」を通してしか行われないことを確認しよう。「ぼく」が「きみの身体」について考える時(年月が過ぎたのちに「私」がもう一度想起するシーンとなるが)、「ぼく」が考えるのは「きみのスカートの中」「きみの白いブラウスのボタン」「きみのつけている(であろう)白い下着の背中のフック」(いずれもp.67)など、実はほとんどが「きみ」の身体でなく衣服についてである。「ぼく」は「きみ」がいなくなった後も、「きみのハンカチーフ」(p.46)を媒介に「きみ」の記憶に浸っている。「ぼく」は、衣服や小物という「壁」を通してという形でしか、「きみ」を認識することができない。「きみ」が「まるっきりの裸。一糸まとわず」(p.51)でいられるのは、夢を綴った手紙の空間内だけだ。(読者も考えてほしい、いったい、現実の世界で「壁」なしに他者を認識できることなど、あり得るだろうか?)

「私」が「街」の世界で老人に聞いた「完璧な横顔」を持つ女の反対側の顔についての話は、他者を真に認識することの難しさ・認識してしまうことの恐ろしさを表す寓話である。

「そこで自分が目にしたものを、自分自身になんとか説明しようと、私は長い歳月をかけて言葉を探し続けた。[…]ひとつだけ言えるのは―そこにあったのは人が決して目にしてはならぬ世界の光景だったということだ。とはいえ同時にまた、それは誰しもが自らの内側に抱え持っている世界でもある。私の中にもそれはあるし、あんたの中にもある。」

p.85-86

第二部の中心をなす子易さんは、「目にしてはならぬ世界の光景」を目にしてしまった人物である。まさに「仮説的なものごと」—世界では脈絡などなく、どんな物事でも起こり得るということ―の暴力に、彼の家族はさらされた。第40章で添田さんが語る子易さんの息子(子易森)の死に、因果や意味はない。悪いことに、加害者となったトラック運転手も、悪人では全くない。息子の死に妻(子易観理)は精神を病み、自らを縛って川に身を投げ命を断った。自分のベッドに、「白くて太い立派な葱」(p.332)を二本、身代わりのように残して。

この「葱」の全くの意味のなさ、全ての解釈を拒むたたずまいこそ、「仮説的なものごと」のもたらす暴力性の象徴となっている。子易さんは、この不条理な世界に対して、それでも生きていくことを選択した。その時に彼が「壁」として、「鎧」として選択したのが、スカートである。スカートを着用する理由を、子易さんは「私」に次のように説明している(この説明は二度繰り返されている)。

「ひとつには、こうしてスカートをはいておりますと、ああ、なんだか自分が美しい詩の数行になったような気がするからです」

p.224

もちろん、人間は詩になることはできないし、詩の世界に入ることも(「きみ」や「私」を除けば)できない。それでも、現実の不条理なまでの散文性に対し、人はこのように抵抗する。「スカートをはくようになってから、[…]まるで身なりを一変することを機会に、別の人格に乗り換えられたかのように」(p.341)。子易さんは亡霊となってもなお、スカートを着用し言葉の端々に詩的な感嘆詞、「ああ」を織り交ぜることをやめない。おそらく彼自身、その意味を正確にはわかっていないし、自分にとっても自分が謎であることだろう。

葱とスカート。この二つの事物は、本作の中で対比をなしている。自然(野菜)対人工(衣服)。現実対人為。散文対詩。「仮説的なものごと」対「壁」。

ここまで考えを進めれば、「きみ」が語る「街」の詩的な設定それ自体が、生きるための虚構であり、いわば「きみ」にとっての「壁」だったのではないかという可能性に思い至る。そして、この小説そのものがまた、愛する「きみ」に突然去られた「私」が、「仮説的なものごと」から自分を守るための「壁」に他ならない、という可能性にも。

それとも、あるいは…そう、この世界ではありとあらゆる可能性が密かに人を待ち受けている。すべての曲がり角には思いもよらぬ危険が潜んでいる。しかし彼女の身に実際に何が起こったのか、あなたはそれを知る術を持たない。

愛する相手にそのように、理不尽なまでに唐突に去られるのがどれほど切ないことか、それがいかに激しくあなたの心を痛めつけ、深く切り裂くか、あなたの内部でどれだけ血が流されるか、想像できるだろうか?

p.153

「ここにいるわたしは、本物のわたしの身代わりにすぎません。本物のわたしの影のような存在に過ぎません」(p.131)と「きみ」は手紙に書いた。しかし、「街」で老人が「私」に語ったように、子易さんに妻の遺した「葱」の意味が全くわからなかったように、そもそも人間は他者の一面=影しか認識できない。逆に他者からも、自己の一面=影しか認識され得ない。自己による自己の認識も、実は他者からのそれと大差ないものだ。他者の前にさらされている自分が「影」で、内面世界=「街」にいる自分は本物の自分であって「影」を持たない(従って「影」は「街」に入れない)、というのは、「影」を「(自己の)イメージ」として比喩的に捉えれば、しごく当たり前のことである。われわれは現実の世界では誰も、生身の自分(そもそもそんなものがあるのか?)では生きていないし、生きていけない。そういうものだ。

「きみ」は「ぼく」に、「街」の中に入ることはとても難しいとしながらも、入るには「ぼく」が心から「ただ望めばいい」(p.11)とも言う。本作は第一部で、「本当の自分としてあるべき場所で生きられたら」という命題が実現不可能である一方で、その不可能性にしか真の愛を成就させる希望が存在しない状況を提示した。第二部では、いるべきでない場所で生きていると感じる「私」が、現代社会によく似通った「町」で日々を送る姿を、子易さんやコーヒーショップの女性の姿とともに描き、分量的にも第一部の命題を圧倒し相対化した。現実には、人は誰も「壁」なしでは生きられない。しかし第62章で、「私」は「その不確かな壁」(p.589)を乗り越え、若返って第1章の夏の情景に回帰する。「きみ」もかつての姿で登場し、ゴチック体で冒頭の文章が再度引用される。

しかし、この多幸的な場面ですら、二人は真の自分たちとして「街」で出会っているわけではなく(なぜか初読だとついそのような読みに誘導されてしまうが)、ただただ現実世界で起きた過去の出来事をノスタルジックに懐古したイメージにすぎないことには注意が必要だ。わかりやすいサインとして、この場面には「街」には存在が許されないはずの虫たち(「虫だって一匹も見かけなかった」(p.401))が、二人と共にいる。「緑色のバッタが一匹、すぐそばの草むらから慌てて飛び上がり」(p.595)、「無数の蝉たちが声の限りに」(p.596)という具合に。

「そして私ははっと覚醒する。あるいはまぎれもない現実の大地に引き戻される」(p.598)と第二部は終えられる。しかし戻されるまでもなく、第二部を通して「私」はずっと、「まぎれもない現実の大地」を他者と共に生きてきたのであり、二度繰り返される「わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」(同)という「きみ」の言葉は、今や人間の条件を宣告しているように響く。われわれは皆、「街」ならぬ「町」では、現実の世界では、本当の自分とでも言うらしい何者かの影に過ぎないのだから…。だからこそ、第二部の最後には、「きみ」の声は「きみ」でなく「彼女の声」と相対化されて名指され、「私」の認識の深まりを暗黙に示している。第三部では再び舞台が「街」に戻ることで読者を戸惑わせるが、その前に「イエロー・サブマリンの少年」について考えなければならない。

3. 共有コンテンツとしての「街」

 第二部後半から登場し、ある意味で本作全体を支配することになる「イエロー・サブマリンの少年」(以下YSと呼ぶ)に関わるプロットで奇妙なのは、YSの「街」への移行(と見える現象)から、「私」が疎外されてしまっていることだ。通常のドラマツルギーならばこうなるだろう。過去の経験から「街」への手がかりを持っている「私」が、それをYSに教えるべきかどうか悩み、確信を持って、あるいは何らかの偶然で、最終的には「街」へと案内してしまう。YSは喜ぶが「町」からは消滅し、遺された家族の心情にも触れ、「私」は責任を感じる。だが、自分の決断の正しさを最終的には確信する、云々。

ところが、相談を受けた子易さん(の幽霊)は早々に「私」のYSへの責任を解除し、「私」を疎外する。

「ですから、もしあなたがそうしようと決めたところで、あなたには彼をそこまで手を引いて案内して行くことはできません。あの子は自分の力で、自分自身のルートを見いださなくてはならんのです」

「つまり判断に苦しむも何も私には、あの少年がその街に移行するための具体的な手助けをすることはできない。そういうことですか?」 「そのとおりです」と子易さんは言った。

p.502

そして実際、YSの移行は、「私」の全く関与できない状態であることを強調する形で起こっている。YSの移行時に「私」に与えられた描写は、「イエロー・サブマリンの少年は、翌日も図書館に姿を見せなかった。またその翌日も。」(p.507)、これだけである。あまりにも記述が乏しい。読者はそこになお、「私」の思念とYSの移行との関係を読み込みたくなるが、三浦玲一がかつて別の作品に寄せて分析したように、「そこに関係はあり、その関係の解釈は可能である、あるいはむしろ求められているが、そこに正解はないのである。」(三浦p.32)と解釈するのが最も妥当であろう。例えば、「私」とコーヒーショップの女性との会話でなぜか執拗に言及されるクラシックの「ロシア五人組」(p.544)で「五人組のうち四人」を思い出せたという細部にザ・ビートルズの四人の残響を聴き取り、「バラキレフ、と誰かが私の耳元で囁いた」(p.546)の「誰か」は「私」に憑依したYSではないのか、という強引な「誤読」も許容されるに違いない。

「私」の疎外、すなわちYSの移行に「私」がいわば「直接手を下さない」立場であり、夢や幻想の領域でのみ(耳を噛まれるなどして)関係を持つことは、逆に、無関係な物事同士の関係性を想像させ、様々な可能性を呼び寄せる。従来、利用者個人の価値判断や人生に干渉しない存在だった図書館が、YSの人生および生命をも大きく動かす出会いの場になったという可能性。われわれはそこに、第1節で分析したような、図書館民営化に代表される現代の影響を見ることができる(YSの父が「幼稚園や学習塾の経営」(p.512)をしている人物だという設定も、官庁と民間企業の管轄境界が不分明になった現代をよく表す)。インターネットが繋ぐグローバル化の時代には、何かがどこかで何かを触発し、何事かがそうとはわからない形で何事かと関係していく。「何かと何かが繋がっている」(p.219、原文傍点)。

ここまで分析して初めて、われわれは本作の第三部が何のためにあるのかわかる。「きみ」、「私」、YSという、本来関係していなかった三者が、「街」において関係を取り結ぶ。「街」はもはや、影としての人生に苦しむ「きみ」が「壁」として生み出した寓話ではなく、「私」の妄想の産物でもなく、YSにも(そして読者にも)共有されるコンテンツとなっている。コンテンツには、時間が流れない。「影」は「街」をテーマパークに例えていたが、そのパークの名はきっと、グローバル・ワンダーランドだ。

しかしながら、コンテンツとなってしまった「街」は、「ぼく」と「きみ」だけのものではなくなっている。「街」の幻想を共有し、<夢読み>の職をYSに「継承」(p.503)することと引き換えに、「私」は「街」から疎外されてしまう。いや、YSとは関わりなく、YSが訪れる前に、「街」は「私」の属する場所ではなくなっていたのではないか? 「街」と「町」が交互に描かれる第一部と比較して、第二部が一度も「街」の描写に章を割いていないことは、「町」で「私」の送る日常の堅固さを物語る。第三部でのYSとの対話の中で、「私」は「町」の「私」を「彼」と呼びながら、

「だとしたら、ぼくらは既にそれぞれの役目を入れ替えてしまったのかもしれない。つまり今では彼がぼくの本体として活発に機能していて、ぼくがまるで彼の影のような、いわば従属的な存在になっている。そんな風にも思えてしまうんだ。」

p.646

と語っているが、まさに「私」の「街」からの疎外を言い表している。何よりも、第三部の「私」は「きみ」=「君」を、「少女」「彼女」という三人称の指示語でしか呼べなくなっている。

「街」という幻想からの疎外。映画『イエロー・サブマリン』のペパーランドが、もはやその幻想を生み出したザ・ビートルズの手を離れ、コラボUT、ではなくパーカーの柄にされているように。そして、本作のエピグラフに掲げられているS・T・コールリッジの詩『クブラ・カーン』は、まさに「幻想からの疎外」の痛みを歌った作品だった。壮麗な宮殿「ザナドゥ」の描写が絶頂に達しようとする時、不意に連が切り替わり、「ダルシマーを持った乙女(A damsel with a dulcimer)」が現れる。詩の語り手は阿片を服用して幻想を育んでいたのだが、通りかかった少女に現実へと戻されたのだ(本作第二部の終わり方との類似に注意)。

長々と論じてきた『街とその不確かな壁』は、こんな小説だと思う。われわれの人生は、思うにまかせない。たとえ明確な「敵」が現実にも比喩の世界にもいなくても。自分のことも、他者のことも、愛する相手のことでさえも、影のように一部分しかわからない。「葱」のような理解不能な現実を、「スカート」のような「不確かな壁」でもって何とかやりすごすしかない。グローバル・ワンダーランドのコンテンツに没入し新たな生を見いだしたように感じることもあるだろうし、熱狂から急に現実に覚醒することもあるだろう。しかし、引き裂かれて悩み、自分には場所がない(nowhere)のだと苦しむ必要はない。YSが「私」に言ったように、「今・ここ(now here)」にある自分は、本当であれ贋者であれ自分なのだから。

「自分が自分の本体であれ。あるいは影であれ。どちらであったとしても、今こうしてここにあるぼくが、ぼくの捉えているぼくが、すなわちぼくなのです。」

「本体であろうが、影であろうが、どちらにしてもあなたはあなたです。それに間違いはありません。」

p.646-647

「葱NEGI」は世界の不条理を象徴するが、The BeatlesのBを足して並び替えれば私たちの「現存在BEING」となる。「始めるBEGIN」にもなる。それがグローバル・ワンダーランドを生きる私たちへの福音であるのか醒めるべき阿片の幻想であるのか、答えは暗闇の中であるけれど。

【引用文献】三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン グローバル化の文化と文学』(彩流社、2014年)

*本論考を三浦玲一氏に捧げる。

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