「芋粥」解説|飽くことのない欲望と幸福|あらすじ感想・伝えたいこと考察|芥川龍之介

「芋粥」解説|飽くことのない欲望と幸福|あらすじ感想・伝えたいこと考察|芥川龍之介

概要

 「芋粥」は、1916年9月に『新小説』で発表された芥川龍之介の短編小説。芥川の「」と同じく『宇治拾遺物語』の一話から題材を得ている。国語の教科書に掲載されている。

 芋粥が欲しくて欲しくて堪らない五位が、藤原利仁のおかげで芋粥を食べれることになるも、次第に欲望が減退してしまう物語。

 教科書に採用された小説は他に、太宰治「走れメロス」、宮沢賢治「注文の多い料理店」、志賀直哉『城の崎にて』「小僧の神様」、中島敦「山月記」などがある。

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登場人物

五位:摂政藤原基経に仕える侍。背が低く、赤鼻で、口髭は薄く、頬が痩けた、風采のあがらない40歳を越えた男。五、六年前に別れた妻は、酒飲み法師と関係を持っていた。年に一度臨時の客に出される芋粥を飲むのが唯一の楽しみ。

藤原利仁:民部長の長官である藤原時長の子息。各地の守を歴任した武将。嫁の父は敦賀に住む藤原有人。芋粥を飽きるまで食べたいという五位の発言を聞いて、芋粥を食べさせるために五位と共に敦賀に向かう。

名言

いけぬのう、お身たちは(p.35)

彼等にいじめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが——多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めている。(p.35)

それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るようになった。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害のを掻いた、「人間」が覗いているからである。(p.35)

人間は、時として、充されるか、充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。その愚を晒う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。(p.38)

あらすじ

 舞台は平安時代の元慶の末か、仁和の始めの頃。主人公の五位は、摂政藤原基経に仕える侍で、背が低く、赤鼻で、口髭は薄く、頬が痩けた、風采のあがらない40歳を越えた男で、侍所にいる連中には見向きもされず無視されていた。それでも五位が腹を立てなかったのは、不正を不正と感じないほど、意気地のない臆病な人間だったからである。

 同僚の侍となると、5、6年前に別れた妻と関係のあった酒飲み法師の話題でからかい、五位の酒を飲みあとに尿をいれるという悪ふざけをしていた。五位はそれでも「いけぬのう、お身たちは」というばかりである。丹波国から来た男はこの言葉を聞いて以来、五位の中に迫害にベソを掻いた「人間」を見たが、それ以外の人々は五位を軽蔑していた。

 五位は犬を虐める子供たちを発見し、勇気をだして「もう、堪忍してやりなされ」と止めようとした。ところが「何じゃ、この鼻赤めが」と悪態をつかれると、恥をかいた自分が情けなくなりその場を後にした。

 そんな五位でも、ある物にだけは異常な欲望を持っていた。それが芋粥である。当時、五位が芋粥を食べられるのは一年に一回で、それも招待客を歓迎する時に出されるわずかな量だけだった。五位はその芋粥を飽きるほど飲みたい、と望んでいたのである。

 ある年の正月二日、臨時の客が訪れたときの宴会に芋粥がでてきた。いつもよりも少ないがとても美味しく感じた五位は、「何時になったら、これに飽きる事かのう」と呟いた。するとそれを聞いた民部長長官の藤原時長の子息、藤原利仁が飽きるまで食べさせてあげようと提案した。五位は「忝うござる」と応え一同の失笑をかうも、頭の中では芋粥で一杯になっていた。

 四、五日後、五位と利仁は馬に乗って東山の近くにある湯を目指していた。ところが栗田口を過ぎると山科までと言われ、そのまま三井寺まで来てしまった。まだかと尋ねる五位に利仁は、嫁の父親である藤原有人が住む敦賀に向かっていると答える。敦賀までの道のりは遠く、盗賊に襲われる可能性もあり五位は怯える。利仁は狐を捕まえると、男を遣わし高島まで馬を二頭連れてくるよう、敦賀の者に伝えよと命令し野に放つ。

 翌日、利仁の命令通り出迎えが来て、獣すら使いこなす利仁に五位は驚嘆した。その夜、ついに芋粥が食べれるのかと時間の経つのが待ち遠しいのと、食べる瞬間がすぐきてはいけないという、矛盾した二つの感情が渦巻く。すると外の庭から芋粥を採ってこいという声を聞いた。

 翌朝、目を覚ますと山のように積まれた芋があった。それが芋粥へと調理されているのを見ているうちに、五位の食欲は失せてしまう。芋粥を食べるために途方もない旅をしてきたことが情けなく、また食べる前から満腹を感じていたからだ。利仁は芋粥を意地悪く勧めてくるが、一口啜っては嫌になり、もう飲めなくなってしまった。

 その時、昨日利仁が遣わした狐が現れた。利仁はその狐にも芋粥を食わせてやった。

 五位は芋粥を飲む狐を眺めながら、敦賀に来る前の自分を懐かしく振り返った。多くの侍たちに愚弄され、孤独で憐むべき存在でありながら、芋粥に飽きたいという欲望を持つ幸福な彼である。五位はこれ以上芋粥を飲まなくていいことに安堵しながら、朝の寒さに大きなくしゃみをした。

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解説

執筆当時の状況——人生初の一流文芸誌『新小説』への掲載

 「芋粥」を『新小説』に発表した当時、芥川龍之介は23歳で文壇にデビューした期待の新人だった。芥川は彼と久米正雄、菊池寛、成瀬誠一、松岡譲の5人で創刊した第四次『新思潮』の創刊号に「」を載せて、それが夏目漱石に激唱されたのである(夏目の作品:『こころ』「夢十夜」『坊っちゃん』「現代日本の開化」)。

 1915年に「羅生門」、1916年2月に「鼻」で夏目漱石を含め多くの文壇人の評判を得た芥川龍之介は、当時の代表的な文芸誌『新小説』と『中央公論』から原稿依頼を受ける。そこで執筆したのが「芋粥」と「手巾」で、「芋粥」は『新小説』9月号に「手巾」は『中央公論』10月号に掲載された。「芋粥」は初めての一流文芸誌への執筆とあって、芥川は推敲を重ね満足に足る作品を作り上げた。

 「芋粥」の題材は『今昔物語集』巻26第17話および『宇治拾遺物語』第1話18である。これは前作「鼻」が『今昔物語集』および『宇治拾遺物語』を題材にしたのと同様で、この2作は芥川の古典翻案ものの代表作になる。

人間の本質を鋭く炙り出す

 古典を題材にしていても、主題は「鼻」と同じく、近代人の心理や自我にある。

 摂政藤原基経に仕える五位は、背が低く、赤鼻で、風采のあがらない40歳を越えた男。同僚や子供にすら軽蔑されても腹を立てないほど、意気地のない臆病な人間である。この不幸な主人公像は、人並み以上に長い鼻を馬鹿にされる「鼻」の主人公、禅智内供と似ている。芥川は不幸な人物の視点から心理と社会を眺めることで、人間存在の本質を鋭く炙り出す戦略を取っている。

彼等にいじめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが——多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めている。(p.35)

 芥川は古典を題材に不幸で特異な人物を描いているが、主人公の裏には「彼の顔と声とを借り」る「多数の誰か」がいる。つまり普遍的な問題を扱っているのだ。それはまた丹波の国から来た男が、五位の顔に「世間の迫害のを掻いた、「人間」」(p.35)を認めることからも示されている。「芋粥」は五位という特異な人を扱いながら、その裏にいる多数の人々と、それを嘲笑する無数の人々を、つまり一般に現れる人間の本質を問題にするのだ。

 その問題の一つは、年に一度だけわずかな量を食べることができる芋粥への異常な執着、つまり「欲望」である。人間の活力の源である欲望は、何故生まれ、どのように解消されるのか、そして、欲望と幸福はどのように結びついているのか、それが本書の主題(テーマ)である。

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考察・感想

欲望の源泉は、充されるか、充されないかの間にあること

 「欲望」に対する「芋粥」の態度は、次の文に端的に現れている。

人間は、時として、充されるか、充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。その愚を晒う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。(p.38)

 人間は欲望のために「一生を捧げてしまう」ことがある。しかしその欲望の対象は、端から見れば取るに足らないものであり、そのために「一生を捧げ」るのは愚かしいことだ。だがその愚かしいことに一生を捧げることの意味を理解できないのであるならば、人生についても理解することはできない。作中の登場人物でいえば、芋粥に異常に執着する五位は愚かしい存在だが、「「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないそうな」五位の言葉が完らない中に、誰かが、嘲笑った」(p.39)と笑う藤原利仁は、「人生に対する路傍の人」ということになる。

 さらに言えば、「充されるか、充されないか」という点も、欲望の本質を言い当てている。手に入ってしまっても、余りに遠くにあっても、欲望は掻き立てられない。手に入りそうで入らないぎりぎりところにある物にだけ、欲望は湧いてくるのだ。一年に一度だけ手に入る芋粥は、その条件にピタリとはまっている。我慢をすれば一年に一度少しばかりの芋粥が手に入るが、決して十分な量ではないために、五位は「何時になったら、これに飽ける事かのう」(p.39)と呟いてしまう。

伝えたいことは「欲望」と「幸福」の関係

 藤原利仁の計らいで芋粥を飲めることになった五位は、馬に乗って利仁についていくのだが、進めども進めども一向に目的地に着かない。目的地を騙していた利仁が目指す先は、嫁の父親である藤原有人が住む敦賀であった。そこに到着するためには、盗賊が出没する長い旅路を進まなくてはならない。芋粥を食べるという欲望の前に、大きな壁が立ちはだかるのだ。

 「往来の旅人が、盗賊のために殺されたと云う噂さえ」(p.46)ある敦賀までの長い旅路は、芋粥を食べるという欲望に見合っていない。そもそも五位の芋粥への執着は、他人から見れば失笑してしまうほどのつまらないものであった。欲望に立ちはだかる危険な障害の前に、その対象の乏しさが否応なく身に染みる。

 だからこそ、その旅の先にある大量の芋粥に、喜びではなく嫌悪感を抱いてしまう。その予感は敦賀に到着して時から、「何となく釣合のとれない不安」(p.53)として現れていたが、その不安もすぐに「あまり早く芋粥にありつきたくないと云う」(p.54)、はっきりした形を持ち始める。五位はもはや芋粥を欲していないのだ。このことをまとめて、文学者の関口安義は「主人公の抱いた欲望の貧しさ」、「つまらぬ目的のために」「「覚束ない馬の歩み」を続ける苦しさ」、「苦難を越えた果てに」「見ただけでもうんざりするものが横たわっていたという哀れさ」(p.90)の三つの問題提起があると指摘している。

 結局、わずかばかり芋粥を食しただけで満足した五位は、「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる」(p.58)と、芋粥を拒否する。そこに現れた狐に利仁は芋粥を与え、それを食べる狐を眺めながら、五位は「此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返」る(p.58-59)。そこにいたのは、同僚に馬鹿にされ子供に罵られる哀れで孤独な五位である、と同時に、「芋粥に飽きたいと云う欲望を、唯一人大事に守っていた、幸福な」(p.59)五位である。幸福とは欲望の対象を手に入れることではなく、欲望を持ち続けることなのだ。

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参考文献

芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫、2005年。

関口安義『芥川龍之介』岩波新書、1995年。

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