祈り・物語・愛 – 『好き好き大好き超愛してる』舞城王太郎

祈り・物語・愛 – 『好き好き大好き超愛してる』舞城王太郎

ベタ・ネタ・メタ

 舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』は「ベタ」で「ネタ」で「メタ」な恋愛小説だ。この小説が発表された2004年の頃は、青春恋愛小説の『世界の中心で、愛を叫ぶ』や携帯小説の『恋空』が発表されたりしていた。小説やドラマで「愛」という一瞬語るのを躊躇ってしまうようなあまりに純な概念をまさにに語ることが流行していた。そのようなこの時期に特有な社会の雰囲気のなかで発表されたのが『好き好き大好き超愛してる』なのである。ところが、そのような経緯を知らないと、『好き好き大好き超愛してる』という題名は時代の波にタダノリしようとした悪趣味なものに見えてしまい、『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『恋空』と同じカテゴリーにいれられてしまう。そうして恥じらいもなくベタに愛を語るこの題名に、多くの人が反射的に嫌悪感を表明したのである。代表的なものは芥川賞選考委員の石原慎太郎で「タイトルを見ただけでうんざりした」と題名に文句をつけていた。

 もちろんこれは舞城の戦略で、大事なことは「ベタ」でありながらなことのほうだ。「ベタ」を一つ上の方から眺めることで、愛という概念の輪郭を描き出しているのである。

 この小説の出来は「ネタ」で「メタ」が上手くいっているかにかかっている。その判断で好き嫌いが分かれそうな小説だ。単に「ベタ」なだけだと思えば題名だけで読む気が失せるだろうし、どこが面白いのか全く理解できないだろう。逆に「ネタ」で「メタ」が上手くいっていると思えば、この小説を楽しめるだろうし、運が良ければ愛についての理解が深まるかもしれない。

 今回は小説内で個人的に良かったところを引用することにした。引用は講談社文庫から。

お気に入りの引用

愛し過ぎていないなら、充分に愛していないのだ。

〜〜中略〜〜

愛しすぎるというのはそういうことなのだ。そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。

p.187

祈り

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちにみんなそろって幸せになってほしい。

p.1

祈りとは何か。人は何に祈るのか。

 願いと祈りは似ているようで違う。相手にこうなってほしいという願いは、期待と要求につながり、裏切られ果ては失望にいきつく。願いから期待を取り除くとそこに祈りが生まれる。

祈ることは何かを欲しい欲しいということだけで、でも同時に無欲な行為だ。

p.36

欲しいといいながら欲しないということではない。得られないと知りながら欲しいと望むこと。つまり、あり得ないことを願うこと、それでいて本当に欲すること、それが祈りだ。だから祈りは叶わなくても「誰も悔しがらない」(p.36)。

演出

逆のことはあっても、愛情によって言葉が演出されない。

「好きだ」あるいは「好きなのかも」と思ったり言ったりすることでなんとなく相手を好きになることはあっても、誰かのことを好きな人が相手のことを好きだと思うとき、そう言うとき、それは全くの本心で、どんな演出もない。

p.172

 言葉に発することでそのようになることがある。絶対に勝つとか、将来これになるとか。言葉を演出することで心が変化していくのだ。

 しかしその逆はないという。「小説と私どっちが大事」なのかと聞かれたとき治は「比べられないよ」と言うか悩み「柿緒だよ」と答える。嘘なのだろうか。

 愛情から言葉は演出できない。どちらも大事であっても、愛情から出る言葉は本当のことなのだ。そして、比べられないと言いたくないだけで、それだけで「小説よりも柿緒の方がずっと好きで大切で大事だと言う根拠に充分だったのだ」(p.172)。

想像

バカバカしいことを考えている。智依子が腕を失うかもしれないというところなのに、僕は自分が握る手のことばかりを考えている。そんなんじゃ駄目だ。僕はもっと智依子の感じている恐れや痛み、苦しみなどをもっとちゃんと真摯に想像するべきなんだ。

p.11

恋人が苦しんでいる時、その苦しみを想像することは可能か。それは他者の痛みを感じられない以上不可能なことであるが、いまや可能か不可能かの問題を飛び越え倫理の問題へと置き換わっている。自分の欲望をだすことは倫理に反する行為で「そんなんじゃ駄目だ」と一蹴される。

 「真摯に想像するべきなんだ」は従って「真摯に」のほうに重点が置かれることになる。想像することだけでは痛みを共有することはできない。では痛みはいかに共有されるのか。それは「もっとちゃんと真摯に」想像することと、それでも実際の痛みに到達できないことの間に生じる痛みによって可能になる。共有したい、ができない、ことに痛むのだ。だがその痛みは智依子の感じる痛みとは異なる痛みであり、意識を持っていかれる常に感じる痛みではないために、また「バカバカしいことを考えて」しまう。「想像するべきなんだ」と決意した直後にこう思う。

でも僕が僕として寂しいのは智依子の手を握れなくなることだ。

p.11

痛みも想像も永続しない。想像はどこかに消えて、すぐに心は寂しさに覆われてしまい、それに気づいた時また痛みを想像することから始めなければならない。

手紙

手書きのその手紙を眺めながら、僕は柿緒がどんなに綺麗な字を書いたかを思い出す。柿緒が僕に宛てて残すどんな小さなメモも、僕は捨てずに残してあった。

p.93

残るのは記憶だけではない、物も残るのだ。記憶は薄れて思い出せなくなっても、手紙は書き手の感情をそのまま保存し、読み手の前にありありと現出させる。それゆえ耐え難い存在でもあり、捨てては拾い天袋に押し込まれることになる。

百年

私の言葉が治のところに届くこと自体が、私の喜びなので。わがままを言うようだけれど、できるだけ我慢してください。大好きだよ。柿緒

p.96

柿緒が死んだ後も、柿緒からの手紙は誕生日の前日に毎年届く。それも百年間も。百年、この数字に意味があるのだろうか。

 この手紙を送るシステムを解約できるのは治だけで、解約すると手紙は燃やされる。毎年送られてくる手紙は、嬉しくもあり重荷でもある。そのことを柿緒も知っている。いずれは嫌になって解約するだろうことを知りながら、できるだけ我慢するよう願う。そしてそのことすら治は知っている。どちらも両義的な感情を抱えている。

 百年後は当然だが治は生きていない。つまり、絶対に読まれることのない手紙が存在することになる。原理的に届くことのない手紙に意味はないのだろうか。いや、あるのだ。なぜなら書かなかったことで蝕まれてしまうこともあるからだ。百年分書かないことは、百年間も生きないということを含意してしまう。読まれることでも、伝わることでもない、書くことが重要だったのだ。

 百年後も生きていると信じて、あるいは信じてるふりをして書かれた、絶対に届かない手紙は、したがって、無駄としりながらする祈りに似ている。

不在

死の直前に柿緒は治に行き先を言わずにどこかに出かける。どこに行くか教えてもらえなかった治は一日中不安に苛まれる。

柿緒はどこに行ったんだろうと考えはじめる。誰に会っているんだろう。何をしているんだろう。

〜〜中略〜〜

ひょっとして僕のために何かしてるんだろうか、と僕は考えてみる。

〜〜中略〜〜

九時を過ぎて僕は腹を立てる。

十時に心配しはじめる。

怒ってるんだか心配なんだか悲しいんだか退屈してるんだか何がなんだか分かんなくなる。

p.181-182

相手の不在はそれだけで自分の存在を不安定にさせる。なぜなら自己は相手の存在によって規定されるからだ。「柿緒がいないと居場所がない。柿緒がいないと存在意義もない」(p.180)。

 不在の穴を埋めるためにできることは想像しかない。考え、期待し、不安になり、怒り、焦る。そして疲れて「何がなんだか分かんなくなる」。当然相手はこの感情の変遷を知ることはなくて、全て自分の中で完結してしまう/しなければならない。11時に帰ってきたとき待つ間に湧き出た感情を吐露することはない。

 不在の間に何処で何をしていたかの種明かしをされることはなく柿緒は死んでしまう。あの時間に沸き起こった感情は浪費され消耗し何も残らない。無駄だったのか。そうではない。決して明かされることのなかった不在の穴を埋めようとするとき、そこに物語が生まれるのだ。

暴力

とにかくマジな話、なんであんた実在の人物の名前使ってんの?小説に。小説だったら全部あんたが考えて書きゃいいんじゃない

p.144

柿緒を連想するような名前を持つ主人公と弟がいる小説を治が書いたことに、柿緒の弟賞太は激怒する。デタラメを書くなと迫る賞太に、エンターテインメント小説だからと言い訳する声は如何にもか細い。

 物語を書くことは暴力なのだ。過去はあり得なかった生であり、それは多かれ少なかれに死者を書くことにつながっている。反論できない、伝えることのできない人を書くのは、その人の所有物を強奪するようなものだ。これは柿緒に対する暴力だけではない。柿緒と賞太の関係を周りの人に想像させることでもあり、賞太の記憶にいる柿緒を冒涜することでもある。

 マキューアンの『贖罪』は死者を蘇らせて生きていた世界を描き、いとうせいこうの『想像ラジオ』は死者の声を代弁した。とても身勝手な行為だ。しかしそれは死者の記憶と感情を改変したからではない。物語に内在する物なのだ。物語と現実が一致することはあり得ず、ズレてしまう以上それは暴力である。物語は暴力を内在している。

本心

「好きだ」「愛してる」「ありがとう」「忘れない」「柿緒はすでに僕の一部だから、僕の中でずっと柿緒は生き続ける」なんてウンコみたいなことばっかりは言ったけど、いや、それは言えてよかったんだけど、でもたった一言、「死なないでくれ」と言うのを忘れた。

p.37

相手を思いやることは相手が望む言葉をかけることに違いない。死が間近に迫った柿緒に伝える感謝は当たり障りのないクサい言葉になってしまう。もちろんそれは他の人が言い忘れてしまいそうな重要な言葉で、負担にならない言葉だ。しかし僕の本当の気持ちはどうなってしまうのか。

 「死ななでくれ」と嘆願することは意味のない暴力的な行為だ。願いは叶うことはないし、叶ったとしても痛いのは柿緒でしかない。無責任で暴力的な本心を、それでも伝える価値があるといえるだろうか。

ははは。ある。あるよ。全ての気持ちがそうであるとは言わないけれど、僕たちの気持ちの中には、絶対に言葉にしないと、何と言うか、自分を蝕んでしまうようなものが紛れ込んでいる。

p.37

死ないなでくれ、と言わなかったことで、遡行的にまるで柿緒の死を受けれいていたかのように感じてしまう。無駄と分かっていても発する言葉にはこういう価値もあるのだ。そして逆もまた然りである。言わないことで自分を蝕むこともあれば、言葉にすることでそうなるような気になることもある。言霊とでもいうのだろうか。

 そもそも柿緒の本当に望んでいることなど僕に分かることなどできなかったのではないか。僕の本心を聞くことが柿緒の望んでいる場合もあるのだ。しかしそれすらどうでも良くて、「僕が柿緒に何を言いたかったのかが問題なのだ」(p.38)。

物語

僕はその日の柿緒の行動をいろいろ想像する。これまでもこれからも。

その想像は全て僕の小説の形にしない物語であり、柿緒を求める気持ちそのものだ。柿緒の居場所を仮定する。何があったかをストーリーにする。僕はそこに行きたいと思う。どのストーリーも、どの《行きたい》も、僕の愛情の反映だ。

p.185

空白を埋めるために想像すること、それは愛情の反映だ。相手に無関心であるならば、想像はおろか思い出すことすらないだろう。何をしていたかという問い続けるのは虚しい行為だが、それゆえ愛情の裏返しでもある。

 過去を捏造することは暴力である。しかしそれは愛情でもあるのだ。暴力と愛情、その両方を備えたところに物語が生まれるのかもしれない。

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