乗代雄介『旅する練習』コロナ以後の記憶と旅の文学|あらすじ解説|内容考察|感想

乗代雄介『旅する練習』コロナ以後の記憶と旅の文学|あらすじ解説|内容考察|感想

概要

 『旅する練習』は2020年に発表された乗代雄介の小説。「旅する練習」は2020年に芥川賞候補、 2021年に三島賞受賞、2022年に坪田文学賞受賞。

 乗代はほかに『本物の読書家』『最高の任務』などがある。

 日本の小説はほかに『ぼくは勉強ができない』『博士の愛した数式』『星の子』『海辺のカフカ』『ジョゼと虎と魚たち』がおすすめである。

 本作は「日本純文学の最新おすすめ小説36選」で紹介している。

登場人物

:小説家。塾講師でもある。亜美の叔父。風景描写が得意で、草木や鳥に詳しい。亜美と共に鹿島に歩いて向かう。

亜美:小学六年生。サッカーが得意。過去に盗んだ本を返しに、叔父とともに鹿島に向かう。旅の途中に出会ったみどりと親しくなる。

みどり:大学四年生。自己肯定感が著しく低い。就職決定を機に鹿島に歩いて向かう。旅の途中に亜美たちに出会い行動を共にする。

あらすじ

 舞台は2020年。中学受験に成功した亜美は、サッカーの練習に明け暮れていた。この物語の語り手であり亜美の叔父である「私」は、亜美と鹿島であるサッカーの試合を観戦しにいく計画を立てる。

 しかしコロナの猛威が日本を襲い、サッカーの試合は延期になる。さらに進学先の中学校は臨時休校になってしまう。

 私と亜美は二人で鹿島に歩きながら旅をすることにする。旅の途中、亜美はリフティングの、私は風景描写の練習をする。名所を回りながら日々鹿島に向かって前進する。

 旅の途中、大学四年生で自己肯定感の低いみどりに出会う。彼女は就職が決まったのを機に、亜美たちと同様歩いて鹿島に向かっていた。

 三人は行動を共にして鹿島に向かう。

解説

コロナ以後の風景と記憶と旅の文学

 『旅する練習』は乗代雄介の2020年の小説で、芥川賞にノミネート、三島賞と坪田文学賞を受賞した。乗代の代償作の一つである。

 コロナの騒動が始まった2020年の3月に、語り手である「私」と姪の亜美が鹿島に歩いて旅する物語である。旅の途中に大学四年生で就活を終えたみどりに出会う以外、これといったエピソードがあるわけではない。だけれでもとても強くこの小説に魅かれるのは、抑制の効いた巧みな文体によるところが大きい。亜美はリフティングを、私は風景描写を直向きに頑張る「練習の旅」(p.17)。そこにあるのは反復と成長の、練習と成果のわずかな喜びである。

 抑制の効いた文章に不意に現れる隠しきれない感情が、物語の裏に潜む結末と私の心情を匂わせる。

どんなものでも死はありふれたものと知りながら、それがもたらすものを我々は計りかねている。それでも何か失われたように感じるのは、生きることが何事かもたらすという思い上がりの裏返しだろうか。(p.130)

 死の気配が微塵も漂わない旅の途中、唯一死がカワウの死骸に伴って現れる場面を、「私」は「結果的にこの旅で最も思い出深い場所になってしまった」(p.127)という。彼が練習する風景描写の日付はほかのものとは違い5月である。この描写の最後は、「それは、この開かれたページのすぐ後ろにある旅の風景を未だに振り返ることができないのによく似ている。あの旅について書かなければと私は思う。」(p.129)で締められている。末尾に亜美のリフティングの回数は添えられていない。

 したがってこの小説には複数の時間が内在している。亜美との旅、旅の工程をもう一度辿る一人旅、そして旅の記録を描写を小説に書き写す時間。過去の亜美との旅で平静な「私」と、振り返ると後悔が滲む「私」。それは読者も例外ではない。亜美と私の旅の結末を知った後、何事もなく読み進めていた読者は再読をするよう促される。「私」が繰り返しこの旅を思い出し書きつけることで記憶の中の亜美に出会うように、我々も再読することで違った風景をそこに見る。

考察・感想

感動と忍耐、その間にある書くこと

 抑制の効いた文体は「私」の信条から生まれたものでもある。抑制は忍耐であり、感動を内から律する力である。

そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。この忍耐は何だろう。(p.104)

 「迂闊な感動」は律せられるべきである。何故なら「感動を忍耐しなければ書くことはままならない」(p.118)からだ。それでいて「心が動かなければ書き始めることはできない」(p.118)とも言う。感動と忍耐、その間に書くことは存在している。

 書くことは他者への伝達という役割を果たし記憶に繋がる。「人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ」というジーコの名言が、忍耐と記憶、それに書くことを結びつける。「私」にとって書くことは、亜美の喪失を受け入れて記憶することであり、旅の記憶を辿るときに内から溢れ出す感動を忍耐することである。忍耐の「果てに心のふるえない人間が待望されているとしても」、私は亜美との旅の記憶を「忍耐し、書かなければならない」(p.104)のだ。

 忍耐とその裂け目は文章の随所にあらわれる。それは亜美との記憶が鮮明に残る感動的な場面だけではない。例えば「私は亜美が座って跡がついていた土手の中ほどに腰を据えた。左の手のひらでカンニングしている亜美の真言が聞こえる」(p.38-39)という何ともない普通の場面でも、現在形と過去形が入り混じる。過去形は記憶や感動を抑えた忍耐から生じているが、そこに突如挿入される現在形が亜美の姿をありありと捉える。過去形のなかにひょっこり顔を出す現在形は、至る所にみられる本書の特徴であり、忍耐と感動の間にある書くことの次元を文体から表している。

旅をするための練習

 そのことを百も承知で我々が涙してしまうのは、「私」の忍耐が限界を迎えるところである。

この旅で風景を書く時はいつも亜美がそばにいた。その姿をようやく書き込んだこの時の描写は、見開き二ページにわたるいちばん長いものだ。押さえつける左手がノートののどに詰まった砂粒を見つけながら、対の右手でここに書き写すのは酷な作業だった。私がこの目で見た亜美の姿が、同じように流れる言葉が、あの時はこらえていはずの感動が、あの浜へ私を飛ばして手が止まる。その度にまた会えるけれど、もう会えない。この練習の息継ぎの中でしか、我々が会うことはない。(p.162)

 この旅の練習で「私」は風景ばかりを描いてきた。風景を描写する時いつでもそばにいた亜美を、初めて描いた文章を書き写すとき、「私」は感動を堪えることができずに「手が止まる」。書き写すことは感動を起こし、感動を忍耐しなければ書くことができない。この矛盾に満ちた「酷な作業」が希望でもあるのは、この書くことの練習の先で亜美に会うことができるからだ。

 亜美は「旅も終わりか」(p.166)と呟く。この旅は終わり次の旅は訪れないとしても、「私」の練習の旅は終わらない。「私はこの旅で姪っ子がものにした志に感動するのを「それはいいな」なんて気安い一言ではなく、今この心にあるような、もっと言葉を尽くした最大限の賛辞を、くどくど聞かせてやればよかった」(p.166)、「「そりゃよかった」なんて微笑むのではなく、何ものにも代えがたい素晴らしい旅の時間をともに過ごした喜びの涙を、今ではなく、あの時に流して、笑われればよかった。」(p.166-167)と後悔する「私」は、記憶にある風景を書くことで少しずつ前進する。「旅する練習」は「旅をするための練習」でもある。書くこととの練習が次なる「旅」への一歩に繋がっている。

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