『ガリヴァー旅行記』第一篇を読む――リリパットにおける禁止の過剰について

『ガリヴァー旅行記』第一篇を読む――リリパットにおける禁止の過剰について

リリパットにおける禁止の過剰について

 1735年のフォークナー版『ガリヴァー旅行記』には、1726年の初版にはなかった「ガリヴァー船長から従兄シンプソンへの手紙」という書簡形式のテクストが付け加えられる。現在、オックスフォード世界古典叢書を始め、多くの版で作品冒頭に置かれることの多いこの文章に関して興味深いのは、ガリヴァーが作品最終篇で登場するフウイヌム(理性を備えた高貴な馬)とヤフー(人間の姿をした野蛮な獣)に説明もなくいきなり言及する点である。この一節は、本来ガリヴァーがシンプソンによるテクストの無段改変を非難する趣旨のものであるが、語りが進むなかで、ガリヴァーの非難は徐々に本来の意図を逸脱し、ヤフーそのものの糾弾へと置き換わっていくように見える―― “Do these miserable Animals [Yahoos] presume to think that I am so far degenerated as to defend my Veracity . . .”(「この哀れな動物ども[ヤフー]は、私が退化を極めて、みずから語った真実を弁明するような挙に出るとでも思っているのでしょうか」)(GT 10、富山訳 10)。この書簡部分で繰り広げられるヤフー批判とそれに伴うフウイヌム賛辞は、当然ながら本作品最終篇の内容と地続きとなっており、その意味で言えば、作品の導入部でもある「シンプソンへの手紙」は、『ガリヴァー旅行記』に一種の円環構造を与えている。すなわち、フウイヌムランドへの最後の航海は、冒頭の書簡を経由して、リリパット国への最初の航海へと再度接続されうる。

 実際、第四篇を読んでから第一篇を読み返してみて気づくのは、フウイヌムランドにおいては概念も言葉もない(と一応は説明されていた)“Power”(「権力」)、“Government”(「統治」)、“War”(「戦争」)、“Law”(「法律」)、“Punishment”(「刑罰」)が(GT 227、富山訳 257)、リリパット国では、それぞれ程度の差こそあれ、第二篇のブロブディンナグ国や第三篇のバルニバービ国と比べても、はるかに前景化されているということである。なかでもとくに「法」の要素は、他の残りと密接に関係し合いながら物語中でやや過剰に映るほど頻出する。

 『ガリヴァー旅行記』の第一篇第一章を読み進めるなか、リリパット国の法として読者にまず開示されるのは、ガリヴァーの体によじ登ろうとする者は死刑にするという禁止令である――“But a Proclamation was soon issued to forbid it, upon Pain of Death”(「しかし、それを禁ずる布告がほどなく出されて、違反者は死刑ということになった」)(GT 23、富山訳 27)。近代以前の殺す権力/死への権力を地で行くような法と罰則がここでは表されており、当国の政治体制における強権的な様相をこの時点で窺うことができる。リチャード・H・ロディーノ(Richard H. Rodino)は、“Lilliput is, above all, a world dominated by texts, a world of ritual gestures, proclamations, ceremonies, and ‘Articles’. . .”(「とりわけリリパットは、テクストに支配された世界、すなわち、儀式的素振り、王が公布する言いつけ、さまざまな式、そして「守るべき条項」に満ちた世界である」)と指摘しているが(Rodino 1061、拙訳)、実際、リリパット国の政治において、皇帝を中心とする統治側の権力は、「~してはいけない」とテクスト上で命じる法という形に収束していくことが多い。作品内でガリヴァーに示される誓約書と弾劾文はその典型と言えるだろう(GT 37-38, 61-62、富山訳 42-43, 69-70)。

 もちろん、リリパット国において、ガリヴァーは現地の小人を容易に殺めることが可能な巨人であったわけなので、ガリヴァーの行動を制約する命令が生じてくるのは当然であるが、しかし、「~したものは死刑にする」や「~してはならない」と命じる禁止の法(と罰)は、民衆にも恒常的に向けられている。第5章冒頭では、交戦下にあるブレフスキュ国と交流すると死刑に処されることが語られているし(GT 45、富山訳 50)、とくに第6章では、国の法律や習俗に焦点が当てられ、禁止事項が詳述されている。国家反逆、詐欺、恩知らずといった、これまた死刑に値する罪のほか、職業や教育について許されていないことなど、言及される事柄は幅広い。

 リリパットの社会はなぜここまで執拗に禁止の法にこだわるのだろうか?この問いを探るうえで、リリパットの人々が垣間見せる〈潔癖症〉的な価値観は示唆的であるように思える。第6章で挙げられている法の内容をそれぞれ具体的に見ていくと、それが定めている事柄は、(道徳的な)穢れへの忌避に起因していることが多い。例えば、彼らの親子観は次のように叙述されている。

Their Notions relating to the Duties of Parents and Children differ extremely from ours. For, since the Conjunction of Male and Female is founded upon the great Law of Nature, in order to propagate and continue the Species; the Lilliputians will needs have it, that Men and Women are joined together like other Animals, by the Motives of Concupiscence; and that their Tenderness towards their Young, proceedeth from the like natural Principle: For which Reason they will never allow, that a Child is under any Obligation to his Father for begetting him, or to his Mother for bringing him into the World; which, considering the Miseries of human Life, was neither a Benefit in itself, nor intended so by his Parents, whose Thoughts in their Love-encounters were otherwise employed. Upon these, and the like Reasonings, their Opinion is, that Parents are the last of all others to be trusted with the Education of their own Children: And therefore they have in every Town publick Nurseries, where all Parents, except Cottagers and Labourers, are obliged to send their Infants of both Sexes to be reared and educated when they come to the Age of twenty Moons; at which Time they are supposed to have some Rudiments of Docility. (GT 54)

親子の義務についての考え方はわれわれとは極端に違う。なぜかと言えば、リリパットの人々にとって男女の結合は種の維持増殖を期して自然の大法に基いて営まれるものであるから、男女は他の動物と同じく性欲によって結ばれ、子どもに対するやさしさも同じ自然の原理に発しなくてはならない。そのために彼らは、子どもは、種つけをしてくれた父親、この世に産みおとしてくれた母親に恩義があるとは認めない、人生の悲惨を考えるなら、生まれてくること自体は何の得にもならないし、抱き合っている親の心はよそにあって、そんなことなど思ってもいないからだ。そのために、まあ、他にも理由はあるが、両親になぞ子どもの教育をまかせられるものではないという意見になる。その結果として、どの町にも公営の託児所があり、男の子も女の子も二十ケ月に達すると(この時期になると多少とも言うことを聞くようになるとみなすのだ)、小百姓と労務者以外は、子どもをそこに送って養育と教育をまかせなくてはならない。(富山訳 61)

この一節が明かすのは、人間の子作りの動機は、結局のところ動物的な “Concupiscence”(「性欲」)と不可避に結びついているというリリパットの人々の認識である。そのうえで彼らは子供の教育について、“Parents are the last of all others to be trusted with the Education of their own Children”(「両親になぞ子どもの教育をまかせられるものではない」)という、素朴に考えればかなり極端な結論に至っている。つまり、親という存在のうちに潜在する動物性――教育という公共的目的には相応しくない穢れ――への強い忌避意識が、リリパットの教育システムの前提にはある。そしてこの観点からすると、両親から生まれた子どもを遠ざけなければならないというリリパットの法は、クリステヴァの言うような、おぞましい(アブジェクトな)動物性を切り離そうとする文化的行為に限りなく近い。

おぞましきもの(アブジェクト)は一面では動物の領域をさ迷う人間のあの脆く壊れやすい状態にわれわれを突き当たらせる。その結果、原始社会は、殺戮や性がその典型となる、動物とか動物性の威嚇的世界から文化を脱離させるために、棄却行為(アブジェクシオン)をもって自分たちの文化の圏域を画定する標識としたのである。(クリステヴァ 19)1

 また、他の例で言えば、リリパットの社会では、仕事において ”good Morals”(「徳性」)が神経質なくらいに重視されることにも留意したい――“In chusing Persons for all Employments, they have more Regard to good Morals than to great Abilities. . . . they thought the Want of Moral Virtues was so far from being supplied by superior Endowments of the Mind, that Employments could never be put into such dangerous Hands as those of Persons so qualified . . . ”(「人材の登用にあたっては、彼らは能力の大きさよりも徳性を考慮する。[中略]彼らは、徳義の欠如はとても知力の優秀さによって補えるものではなく、それしか能のない人間の手に公職をゆだねることはできない[中略]だろうと考える」)(GT 53、富山訳 60)。この国の社会では、たとえ能力が劣っていたとしても、道徳的に堕落した人より徳義をわきまえた人が重用される(GT 53、富山訳 59-60)。こうした姿勢もまた、穢れを嫌う潔癖症気味なものであり、「背徳的(イムモラル)」な者をおぞましきもの(アブジェクト)として忌み嫌う棄却行為を喚起する(クリステヴァ 7)。さらに、より物理的な次元では、ガリヴァーを殺す計画を立てようとした際に、皇帝を始めとした統治者が真っ先に悪臭や疫病のことに考えを巡らせる点も、彼らの衛生意識を精査するうえで興味深い(GT 27, 64、富山訳 31, 72)。

 この文脈で言えば、ガリヴァーが鎮火のためとはいえ宮殿に放尿したかどで最終的に国を追い出されることになったのは、リリパットという社会の特質上必然であった。本来、穢れたもの(アブジェクト)の中でも排泄物はその典型として見做されるからである(クリステヴァ 316)。そして、そうした認識に着目すればこそ、放尿についてわざわざ国の基本法に定められていたことや、さらには宮殿内でのその行為が死罪に値すると規定されていたことに、一定の説明をつけることができるかもしれない(GT 50、富山訳 56)。

 要するに、リリパットの社会は総体として、まずおぞましきもの(アブジェクト)をあからさまに棄却しようとする共同空間である。そして、禁止の法の多くは、その棄却行為に起因している。と同時に、おぞましきもの(アブジェクト)(=同一性や秩序や境界を攪乱するもの)を切り離すことで、その社会は〈父の名〉が支配する象徴秩序(ル・サンボリック)として立ち現れてくる。実際、先行研究では、(ややベタにも思えるが)第一篇におけるガリヴァーと皇帝の関係のうちに、エディプス・コンプレックスにおける子と父の対峙を見て取る読みもある。例えば、Frank Stringfellow Jr. は、リリパット皇帝がガリヴァーに課そうとする罰――目を潰して視力を奪うという刑罰――をフロイトの理論に基づいて解釈している。

The punishment is to be precisely what it was in the story of Oedipus himself: blindness as a substitute for death. In Freudian theory, of course, the blindness stands for castration, the mutilation of another valued organ; and this connection is at least hinted at in “A Voyage to Lilliput” by the fact that in his secret pocket Gulliver keeps a pair of spectacles. . . . We recall, too, that almost from the beginning of part 1 Gulliver has been obsessed with protecting his eyes from injury, and at his most aggressive moment, when he steals the fleet of the Blefuscudians, his only real fear is the threat to his eyes. (Stringfellow 59)

その罰は、ほかならぬオイディプス王の物語内で行われた刑とまさしく同じ、ということになる。すなわち、死の代わりとしての盲目である。フロイトの理論において、盲目が去勢、あるいはその他の大切な器官の切除を意味するのは言うまでもないが、この相関性は「リリパット渡航記」の時点で少なくとも仄めかされている。事実、ガリヴァーが隠しポケットにずっと忍ばせていたのは[中略]眼鏡であった。また、それと同様に思い起こされるのは、第一篇のほとんど冒頭から、ガリヴァーが目を怪我しないようにと躍起になっていることである。ガリヴァーが最も攻撃的な態度を見せるのは、ブレフスキュ人の艦隊を拿捕する場面であるが、その際当人が唯一本当に恐れているのは、己の目に差し迫る脅威なのである。(拙訳)

このように、リリパットがおぞましきもの(アブジェクト)を忌避し、言葉の法による秩序に重きを置く父権的空間であることを踏まえれば、テクスト化された禁止の法が第一篇で過剰に登場するのも、相応しい演出と言えるかもしれない。そして、リリパットないしそれに相当しうるような社会に、スウィフトの諷刺的眼差しが向けられていたとしても不思議ではないだろう。

1.この点については、フロイトも同様に、文化の形成において原始的な動物性から人間を切り離すところにこそ〈禁止〉の意義があったと論じている――「用語の統一のために、欲動を満足させることができない事態を〈放棄〉と呼び、この放棄を実行させる機構を〈禁止〉と呼び、この禁止がもたらす状態を〈欠如〉と呼びたいと思う。[中略]そもそも文化は禁止と、禁止がもたらす欠如を作りだすことによって、いつとも知れぬ遠い太古の時代に、人間を動物的な原始状態から訣別させたのである」(フロイト 21)。

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引用文献

Rodino, Richard H. ‘“Splendide Mendax”: Authors, Characters, and Readers in Gulliver’s Travels.’ PMLA, vol. 106, no. 5, Oct. 1991, pp. 1054-1070.

Stringfellow Jr., Frank. The Meaning of Irony: A Psychoanalytic Investigation. Suny Press, 1994.

Swift, Jonathan. Gulliver’s Travels. Edited by Claude Rawson and Ian Higgins, Oxford UP, 2008.

クリステヴァ、ジュリア『恐怖の権力――<アブジェクシオン>試論――』枝川昌雄訳 法政大学出版局、1984年。

富山太佳夫訳『「ガリヴァー旅行記」徹底注釈――本文篇』岩波オンデマンドブックス 岩波書店、2016年。

フロイト、ジークムント『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2007年。

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