イギリス文学史をわかりやすく解説|文芸批評成立の前史を要約

イギリス文学史をわかりやすく解説|文芸批評成立の前史を要約

文学とは何か

 「文学」に対して人は思い思いのイメージを抱いている。フィクション、ファンタジー、想像力を培ってくれるもの、創造的、社会の反映物、リアリズム、文化的なものなどなど。

 「文学」は一義的に「想像的」(=フィクション)と言えるかもしれない。だがそう主張しようものなら『夜と霧』の著者ヴィクトール・E・フランクルは顔をしかめるだろうし、『アンネ・フランクの日記』は文学的な価値がないことになってしまう。そうであるならば人間の核に肉薄する現実を描写するものが小説といえるだろうか。だがするとフィクションの入り混じるフロベールの『ボヴァリー夫人』も(実現しえない理想と不自由な言葉——フロベール『ボヴァリー夫人』*なるほう堂)、カレルチャペックの『白い病』も微妙なラインに置かれてしまうだろう(誰が罹るかはじめから決まっているとしたら——カレル・チャペック『白い病』*なるほう堂)。

 「文学」は多義的で曖昧、ときに定義不可能なように思える。「文学」の定義を確定させようとするとその定義からはみだしてしまう古典的名作が存在してしまうからだ。そして時に「文学」自体が定義を拒み曖昧であることを望んでいるようにも感じられる。「文学」はすべて言語で構築されていながら、いやそれゆえに、言語で説明などできないものであると言いたげなのだ。何とでも言えてしまうからこそ何とも言えない「文学」。その定義の不可能性は不安を与えると同時に魅力でもあるようだ。

 「文学」の定義不可能性は昔から存在していたわけではない。むしろ多くの時代で「文学」は強固に定義をされてきた。では何故、「文学」に定義を与えることがこれほどにまで難しくなってしまったのか。理由の一端は数百年と続く文学史の初期の動向を知ると自ずとみえてくる。結論を先取りすると、学問として認められようと躍起になっていた新興学問領域の「英語英文学」が様々な定義をみずからに与えていたからなのだ。

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文学史 – 功利主義に抗って(18世紀-19世紀)

 18世紀のイギリスでは、文学の概念は「想像的」や「創造的」な著述に限定されていなかった。そして哲学書・歴史書・随筆・書簡・詩の全てが文学であった。「文学」は文字通り、文字を扱う学問だったのである。

 小説がまだ文学的価値を認められていなかった頃(1719年、ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』。1726年、ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』、文学の基準は「高尚文学(polite letters)」であるか否かであった。貴族のような社会階級が共有する価値を表現するものが「文学」であったのだ。ところが、18世紀において文学は他の意味合いも持つようになる。社会の混乱のあと少しずつ力をつけていた中産階級に、貴族階級と同じレベルの秩序や礼節を身につけさせるという重要な役割を「文学」は獲得していったのである。

 19世期にロマン派の時代に突入して、文学はようやくに限られるようになる。そしてその方向性は加速する。当時イギリスは産業革命が起こり、教養軽視の功利主義が支配的なイデオロギーに成長していた。そのような社会において、詩はその動向に反旗を翻す人間の創造的営為であった。詩的精神という直感的・超越的精神領域があらわれ、これが合理主義的で実証主義的なイデオロギーに対立するものとして担ぎ上げられたのだ。

 面白いことに、ここにロマン派の詩人たちの両義性があらわれる。文学を功利主義から離れた想像的で創造的なものであるとしながら、文学と社会の連続性を強く意識していたのだ。そしてロマン派の詩人は政治活動家であった。結局この矛盾は解消されることに失敗し、以後、文学の想像的な側面が強化される。ロマン派詩人の理想主義は観念論的なものとなってしまうのだ。

 同時期に美的存在を前提とする近代「美学」が発展する。芸術はそれ自体に価値がある。それは文学自体に価値がある、という語り方と相似形だ。つまり社会から疎外された何か(美学、文学など)は、価値があるために疎外され疎外されたがために価値が生じるのである。18-19世紀の美学理論は象徴シンボルに関する原理であった。象徴は主体客体、普遍-個別、感覚-思弁、物質-精神、秩序-自然の対立の解消する。功利主義が蔓延る社会で、時代に呼応するように、便利な道具として重宝されたのである。

英語英文学の誕生 – 宗教におきかわる文学(19世紀後半)

 19世紀後半、キリスト教の破綻が決定的になる。宗教の終わりは、人間と社会の関係を不安定化、道徳的価値感の崩壊を意味していた。そこで現れたのが「英語英文学」である。なんと「英語英文学」が宗教の担っていたイデオロギー的使命を肩代わりするというのだ。ここで中心的に活動するのがマシュー・アーノルドである。

 マシュー・アーノルドは喫緊と課題として、中産階級の古典化と教養化の必要性をあげた。実際の目的は労働階級を効果的に抑制し懐柔しやすくするためであり、そのために文学が要請された。文学はリベラルな「人間化する」営みであり、すべての階級の人間のなかに共感と同胞意識を育むとされたのだ。文学は宗教と同様に情緒と経験に訴える。分析的思考や科学的探究に真っ向から対立するものになったのである。

 最初に英語英文学が学問の科目となったのは大学ではなく、職人専門学校、労働者専門学校、巡回公開講座であった。オックスフォードに入れない貧乏人の教育のために使われたのである。そのため社会階級間の連帯や道徳的価値の伝達が重要視された。この道徳的価値は文学の意味の変容と軌を一にしていた。道徳はカント的な定式化された規範から、経験の中にある捉えがたい生の全実質を感覚的に把握しようとする姿勢へと変化していた。この文学と道徳のニュアンスの一致は、文学が道徳的イデオロギーそのものになったことを意味している。

 大学では「英語英文学」の地位をめぐって攻防が繰り広げられていた。「英語英文学」を教えるのは女性か二流の男性で女性のアカデミニズムに進出する防波堤になってさえいた。

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英語英文学は男性的なものへ – リーヴィスの誕生(20世紀初頭)

 20世紀に入ると、イギリスは帝国主義が全盛の時代に入り、他国との領土争いが熾烈化していく。それに伴い「英語英文学」の意味合いが変化した。「英語英文学」は男性的なものになっていくのだ。「英語英文学」は国民的使命感の育成のために読まれ、有機的統一を保つ国民的伝統と国民意識に目覚めよ、と煽り立てたのである。

 これに伴い「英語英文学」と大学との攻防戦は「英語英文学」の勝利に傾く。それは間接的にドイツに対する第一次世界大戦の勝利によってもたらされた。「英語英文学」にとって敵対関係にあったのはドイツ系の学問である古典的文献学であり、それがドイツに勝利したことで一気に衰退したのだ。結果的に、戦争による荒廃状態によって「精神的飢餓状態」に陥いった国民の精神的不安を解消するべく、「英語英文学」が採用されることになる。

 ケンブリッジの教員はブチブルジョワ階級の人々が選ばれ、そこにF.R.リーヴィスもいた。F.R.リーヴィスは、1920年代初頭は価値を見出すことのできなかった「英語英文学」を1930年初頭には最大の地位へのし上げる、偉大な立役者である。文学は最高の文化的営為、精神的支柱とまで言われるようになったのだ。

 1932年、リーヴィスは『スクルーティニー』(=吟味)を刊行する。『スクルーティニー』の主張は、英文学が道徳性の中枢を占めること、それが社会生活全般と密接なつながりがあることである。さらに文学は功利主義とは異なる創造的エネルギーを温存していると説いた。文学に価値を置かない社会というのは、人間の深い内的衝動を締め出す欠陥社会とされたのである。

 次なる運動として『スクルーティニー』は、17世紀のイギリスの「有機的統一のある」共同体社会を良しとして、イギリス文学の地図を刷新する。この改革の破壊力は凄まじく、今なおその影響下にある。チョーサー、シェイクスピア、ヘンリージェイムズなどが至高であり、デフォー、リチャードソン、ウルフは二級に位置付けられた。後にディケンスが一級に認められる。一級のほとんどが保守的作家であった。

 『スクルーティニー』の問題点は圧倒的なエリート主義である。古典を読むことは素晴らしく、読まない人は見下された。そして。『スクルーティニー』は中産階級の下の方の出身が多く、その階級だけを偏って擁護した。基準にこだわり貴族階級を蹴落とし労働者階級を疎外したのである。だが『スクルーティニー』の運動は、17世紀の被搾取農民を有機的全体性に見立ててノスタルジーを感じていただけに過ぎない。

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極右的権威主義T・S・エリオットと『スクルティーニ』の末路(20世紀初頭から中期)

 同じ頃ロンドンでT・S・エリオットも『スクルティーニ』と同じような動きをしていた。T・S・エリオットはイギリス史の全面的政治的読み直しを行ったのである。T・S・エリオットのイギリス史観を概観しておこう。

 17世紀初頭のジョン・ダン、ジョージ・ハーバードは思考と感情の融合、感性の統一が簡単にできていた。元々言語は感覚的体験と直接触れ合っていたのだ。だが君主の斬首、科学主義、民主主義のせいで感性の統一は失わて、残念なことに17世紀のどこかで「感性の分離」が起きてしまう。そしてミルトンが決定的でそれ以降、文学は堕落しその先にロマン主義思潮とヴィクトリア朝思潮がある。文学は集団的信念を失い個人主義へと傾倒してしまったのだ。

 T・S・エリオットの攻撃対象は産業資本主義の公式の支配的イデオロギーである中産階級のリベラリズムであった。エリオットは極右的権威主義で非個性的秩序、つまり<伝統>のために個性や個人的見解を犠牲にするべきだと説いた。ここでの<伝統>は作品相互の理想的秩序を築くもので、新しい作品も<伝統>に認められれば<伝統>になるのである。

 政治的にみてT・S・エリオットは極右的権威主義で反ユダヤ主義であった。1920キリスト教に帰依し、田園社会を理想とした。T・S・エリオットにとって詩は知性に訴えかけるものではなく、脳に直接来るものであった。ロマン派のせいで文学は感傷的で女々しくなり男性的なものは失われてしまった。本来であるならば、文学はより自然発生的で創造的な<生>という超個性的な力に道を譲らなくてはならないのだ。だがこう言った考えはいずれファシズムへと傾いていく。

 『スクルティーニ』はT・S・エリオットと異なり、極右反動ではなくリベラルシューマニズムの拠点の最後の抵抗の場になっていた。個人の価値と個人相互の創造的領域に関心を寄せていたのである。文学作品の価値は<生>という言葉に要約された。悲しいことに、『スクルティーニ』が推したD・H・ロレンスの作品の<生>が現れる場面は、セクシズム、レイシズム、権威主義と手を取り合っていたのである。『スクルティーニ』は抽象論の話ばかりになっていく。スクルティーニは1953年、リーヴィスは1978年まで生きた。最後は技術への悪意の発露に向かっていき力を失っていく。

ついにアメリカの新批評(ニュークリティシズム)へ

 リーヴィスは実践批評(practical criticism)や精読(close reading)と結びついていた。

 実践批評はテクストを社会的コンテクストから切り離し、詩や散文の断片に焦点化して、文学の「偉大さ」や「中心性」をみた。一節を評価し次の節へといった具合に。これでは近視眼的であり実務的なであったため、形而上学的な<生>という概念が導入された。<生>は直感で把握できながら絶対的な価値でもある、あまりに便利な概念であった。この無敵な概念を使えば、問答無用で功利主義のせせこましさを叩けたのである。

 精読は注意の向け方を示す。すべての文章はコンテクストから分離し理解できるという幻想を育んだのである。これが文学作品の物象化のはじまりである。

 そして精読がアメリカの新批評ニュークリティシズム新批評とは何か – 文芸批評理論*なるほう堂)に繋がっていくのである。

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参考文献

テリー・イーグルトン『文学とは何か』大橋洋一訳、岩波文庫、2014年

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