スピルバーグ『A.I.』感想|あらすじ解説|内容考察|涙なしでは観られない

スピルバーグ『A.I.』感想|あらすじ解説|内容考察|涙なしでは観られない

概要

 『A.I.』は、2001年のアメリカのSF映画。監督はスティーヴン・スピルバーグ。原案はスタンリー・キューブリック。「AI」は Artificial Intelligence の略で、人工知能という意味である。

 元々はキューブリックが監督になるはずだったのだが、『アイズ ワイド シャット』を最後に1999年に他界してしまったためにスピルバーグが監督を引き継いだ。スピルバーグはほかに『宇宙戦争』や『ターミナル』がおすすめである。

 スピルバーグは『インディ・ジョーンズ』『ジュラシック・パーク』『シンドラーのリスト』などで有名。スピルバーグとキューブリックはどちらもSF映画界を代表する監督である。『ジュラシック・パーク』の続編『ジュラシック・ワールド/炎の王国』は名作なので一見の価値あり。

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登場人物

デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント):少年型ロボット。次世代型であり人間と同じで愛情をもつ。意識が戻らないモニカの息子マーティンの代わりにスウィントン家で生活をする。

ジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ):女性を喜ばせるセックスロボット。途中からデイビットと行動をともにする。

テディ(ジャック・エンジェル):熊のロボット。デイビッドの相棒のような存在。

モニカ・スウィントン(フランセス・オコナー):息子マーティンが不治の病に罹りショックを受ける。夫のヘンリーからデイビッドをもらい、最初はデイビッドを拒絶するも次第に必要な存在になっていく。

ヘンリー・スウィントン(サム・ロバーズ):モニカの夫。デイビッドが家族の関係を壊すのを危惧している。

あらすじ

 近未来。地球温暖化のせいで海面の上昇、出産の制限が敷かれた世の中で、ロボットが人間の手伝いをしていた。ロボット開発者はロボットに愛情をもたせようとしていた。

 ロボット会社に勤めるヘンリーは、息子のマーティンに不治の病が発症してショックを受ける妻のモニカに、愛情をもつ人型ロボットのデイビッドをプレゼントする。デイビッドがマーティンの代わりになることが受け入れられずデイビッドを拒絶するモニカであったが、デイビッドと交流するうちに愛情が芽生え始める。

 ある日、不治の病で寝たきりであったマーティンが目を覚まし家に戻ってくる。モニカは息子の退院を喜び、デイビッド以上にマーティンに愛情を注ぐようになる。デイビッドとマーティンは互いに嫉妬を抑えられず、マーティンの命に関わるような事件が発生してしまい、モニカは苦しみながらデイビッドは森に捨てる。

 デイビッドはテディおよびセックスロボットのジョーと行動をともにする。ロボットを破壊するショーの見世物にされたりするも観客の反対で脱出できる。デイビッドの旅の目的は人間になることで、そのために『ピノキオ』にでてくるブルーフェアリーを探している。

 わずかな手掛かりと偶然から、海の底に錆びれた遊園地とブルーフェアリーの像を発見する。しかし身動きが取れなくなり氷河期が訪れ、2000年間海の底で氷漬けにされる。

 2000年後の世界は、人類は絶滅しロボットが高度化し闊歩していた。進化したロボットは人類の記憶を持つデイビットに興味を持ち、願いを一つ叶えてくれることになる。デイビットはモニカともう一度過ごすことを願い、最新技術でモニカは複製される。だが、モニカは一日しか生きられないことが知らされる。1日モニカと生活し母の愛情に触れ、満足と暖かさのなかデイビットは眠りにつくのだった。

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解説

二人の主人公ー不気味なもの、成長、愛情

 子供のころにテレビで放送されていた『A.I.』を何気なく観たら、とても不安な気持ちになった記憶がある。それ以来トラウマになっていたのだが、大人になってからもう一度観ると子供のころの直感は間違っていなかったことに気がつく。本作にまとわりつく奇妙な雰囲気は、大人になった私でさえも不安な気分にさせるのだ。

 それはこの映画が「不気味なもの」で溢れているからだろう(不気味なものとは何か – フロイト*なるほう堂)。不気味なものとは、親しかったものが突然遠いものになるときに生じる感情であり、抑圧したものの回帰である。デイビッドの笑い方や、ロボットを無残に破壊するショー、同じ顔を持つ複製されたロボットたちは、どれも「不気味なもの」なのだ。「不気味なもの」があふれる本作は、不安の先に大きいテーマを抱えている。

 SFというジャンルの映画は伝統的に人間の本性を問いかけるものが多かった。映画界のSF三部作『2001年宇宙の旅』『ソラリス』『ブレードランナー』は、エンタメ性を追求した『2001年宇宙の旅』を含めてどの作品にも「人間とは何なのか」という問いが通底している。機械と人間の交わりは、機械という対比項を提示することによって、人間存在への問いかけへと必然的に結びついているのである。

 『A.I.』も題名が「人工知能」であるところかもわかるように、伝統的なこの問いかけがテーマになっている。映画の冒頭でホビー教授がいうように、愛情をもち夢をみる人工知能は人間とどれほど遠いのだろうか。

 人間の本質への問いに加えて、親子の関係、兄弟の問題、記憶、夢というテーマが複雑に絡み合っている。生まれたばかりのデイビッドは子供でありながら、赤ちゃんのように学習し人間的な存在へと成長する。その過程で母とは過度な愛情を求め、兄弟とは死が迫るような喧嘩をする。このような母との関係は、ギリシア悲劇の傑作『オイディプス王』の「近親相姦」として一般に知られるものであるし、兄弟との関係は聖書に出てくるカインとアベルの「兄弟殺し」の反復である。つまり問われているのは数千年も前からある普遍的なテーマなのである。

 そのような重いテーマでありながら、エンタメとしても魅せてくれるのはスピルバーグの手腕によるところが大きい。旅と成長という古典的なストーリーも一役買っている。さらに相棒であるテディはいい味を出している。助けるわけでもなくただ単にそばにいるテディの存在は安心感を与えてくれる。

 「成長」というテーマは、デイビッドがホビー教授から自分の正体を明かされ、人間になれないことを悟り海に飛び込むときに前景化する。落下は男性的なものの敗北であり、夢の終わりを意味している。『ピノキオ』のおとぎ話を信じたのは愚かであり、人間に変身することはできないのだ。ところがここに逆説がある。絶望し自殺をするというその行為それ自体が人間的な行為なのである。旅の終わりで人間になることを諦め落下をするとき、人間的な行為をしたデイビッドの新たな旅が始まるのである。

 兄貴分のジョー(俳優のジュード・ロウはファンタスティックビーストのダンブルドア役:ファンタジーににおける政治——『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』*なるほう堂)は、もう一人の主人公としてもう一つのストーリを成している。ジョーはデイビッドより性能は劣り、愛情はなく、そもそもセックスで女性を喜ばせるためだけに作られたロボットだった。しかし、デイビッドと過ごすうちに彼にはセックスだけだはない他の目的が生まれている。デイビッドを助け、デイビッドの夢をともに追いかけ、ときにはデイビッドを見放そうとする。そのどれもが作られ目的とは全く関係がない行為だ。これらの行為は、セックスロボットとして作られたジョーにとっては、余りにも人間的である。デイビッドの中には「愛情」が生まれている。デイビッドはロボットとして生まれ、人間として生きたのだ。だからデイビッドは最後に「I am, I was.」と胸を張っていうことができる。その言葉を涙なしに聞くことはできない。

考察・感想

母の温もりのなかで

 『A.I.』は本国のアメリカでは興行的に振るわなかったかわりに、日本では約100億円という莫大な興行収入を叩き出した。それ以降、日本のマーケットを重視するようになったスピルヴァーグは、2006年に『硫黄島2部作』の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』を制作することになる。

 なぜ日本で大ヒットしたのだろうか。それは『A.I.』が母と息子の物語であったからに相違ない。キリスト教が一般的なアメリカ合衆国では、父権性が強く、そのため映画も父と息子の物語というものが多かった。父を倒す、あるいは父を探す旅の途中で、様々な困難にぶち当たりながら乗り越えること。それが成長するということであり、父になるということであった。アメリカ映画において(特にSF)母と息子の物語は珍しく、スピルヴァーグとてそれは例外ではない。

 その点、日本は大いに異なる。心理学者である河合隼雄の『家族関係を考える』によれば日本は元来、父性ではなく母性の優越した国であった。息子は母に強く依存し、母は息子を手放すことができない。それは現在でもさして変わらないだろう。批評家である江藤淳は『成熟と喪失』で、日本において父は「恥ずかしい父」であったと述べている。「恥ずかしい父」と「母性の優越」は日本の文化において根強い家族関係なのである。

 『A.I.』は父はデイビッドに懐疑的で主要な位置を占めていない代わりに、母のモニカはデイビッドの全てである。モニカの愛を得るただそれだけのために、デイビッドは氷漬けにされてでも2000年の時を待ち続けるのである。だからモニカとの最後の夢の1日は、母性に包まれた幸せの瞬間だった。1日だけでも反復すればいいというデイビッドはいう。旅を終えて、母の子宮に戻り、まるで赤ちゃんにかえったかのようである。そこまできてデイビッドはようやく人間の条件である夢を見ることができる。それは母性に包まれた幸せな夢であると同時に、もう一つの旅の始まりなのだ。

参考文献

河合隼雄『家族関係を考える』講談社現代新書、1980

江藤淳『成熟と喪失』講談社文芸文庫、1993

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