『ミュウツーの逆襲』感想|あらすじ解説|内容考察|涙のゆくえ

『ミュウツーの逆襲』感想|あらすじ解説|内容考察|涙のゆくえ

概要

 『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』は、1998年に公開されたアニメ映画。監督は湯山邦彦。映画「ポケットモンスター」シリーズの第1作目。2019年にはリメイク版の『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』が公開された。次作は『幻のポケモン ルギア爆誕』。

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登場人物

サトシ:ポケモンマスターを目指す少年。

ピカチュウ:サトシの最初のポケモンにして相棒。ねびみポケモン。モンスターボールに入るのが嫌い。コピーとの戦いでは相手を攻撃しない。

ミュウツー :ミュウのまつげの化石の遺伝子情報から作られたコピーポケモン。オリジナルのミュウより強くなるよう作られる。コピーである自分の存在理由に悩み、頼んでもいないのに自分を創り上げた人間への逆襲を宣言する。

ミュウ:幻のポケモン。最も珍しく最も強く最も古いポケモン。好奇心旺盛で人間を翻弄したりする。オリジナルポケモンであり最強でもあることにプライド持つため、ミュウツーとの戦いでは、体がぶつかり合えばオリジナルが負けることはないと主張する。

フジ博士:科学者。ミュウツーを創り上げる。もともとは事故死した愛娘のアイを生き返らせるために研究をしていた。ミュウツーを制御することに失敗し、研究所ごと破壊される。

アイツー:フジ博士の娘アイのコピー。オリジナルは事故死している。実態はなく光のような状態で存在し、ミュウツーとも会話をする。ミュウツーとは違い長くは生きられない。複数回作られていて、何回目のコピーかは自分でも把握していない。

あらすじ

 ロケット団の探検隊が険しい森の中にある史跡で、幻のポケモンミュウのまつ毛の化石を発見する。フジ博士率いる研究チームは、生物の一部から生物自体を復元するクローンの研究をしていた。フジ博士らは、ミュウの化石から戦闘力を強化したミュウツーを人工的に誕生させる。

 ミュウツーは精神世界のようなところで、フジ博士の娘であるアイのクローン、アイツーとポケモンのクローンたちと出会う。だが、クローン技術はまだ発展段階で、作られても短い時間で死んでしまう。死ぬ間際、アイツーは「生きてるって、ね?きっと、楽しいことなんだから」とミュウツーに告げる。

 何故か生き残ることができたミュウツーは、自分の存在意義に悩み苦しむことになる。自分を利用しようとするロケット団を裏切り、勝手に創り出した人間への逆襲を企てる。それはポケモンのコピーを創り出し、人間やポケモンを攻撃するというものだった。

 そこでミュウツーは優秀なポケモントレーナーを、住処であるポケモン城に招待する。ミュウツーによって作られた嵐を突破できたポケモントレーナーたちは、サトシたち以外に三名だけだった。だが、そのトレーナーたちですら、ミュウツーには全く歯が立たず、ポケモンたちは特殊なモンスターボールによって捕まってしまう。捕まったポケモンたちは地下に送られ遺伝子情報を読み取られて、より強力なコピーが作られる。

 捕まったピカチュウを追って地下に来たサトシは、サトシを追ってきていたロケット団に遭遇したあと、コピーをつくる機械を壊す。産まれたコピーとサトシたちはミュウツーのもとにいくと、ミュウツーのオリジナルのミューが現れる。敵意を剥き出しオリジナルとコピーの対決を提案するミュウツーにたいし、ミュウは体がぶつかり合えばオリジナルが負けるはずがないという。

 戦い熾烈を極め悲惨な状態になる。ミュウとミュウツーの戦いを止めるためにサトシは間にはいるも、双方からの攻撃をうけ石化してしまう。悲しみにくれるポケモンたち。その涙に反応してサトシは生き返る。ポケモンに、しかもオリジナルやコピーを分け隔てなく救おうとしたサトシの姿に、ミュウツーは希望を見出し戦いをやめる。ミュウツーはこのことは忘れたほうがいいとして、サトシたちの記憶から自分たちコピーの存在を消して、コピーたちと何処かへ去っていく。

 気がつくとサトシたちはもとにいた場所に戻っていて、おさまりつつある嵐の切間からミュウを見つける。幻のポケモンにまた会う日を夢見つつ、旅を続けるのだった。

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解説

名作は偶然と妥協の産物

 本作は映画「ポケットモンスター」シリーズの第1作。誰もが一度は観たことがあるはずだ。子供向けのアニメ映画でありながら、人工生命(コピー)の存在意義、創り出した人間への逆襲というとても重いテーマをあつかっている。一見すると子供に受けなさそうな内容でありながら興行収入は2022年現在トップの72億円。リメイク版のキャッチコピーで「原点にして最高峰」と掲げるのも納得である。

 冒頭から妖しげな雰囲気が漂う。フジ博士の愛娘アイの死。ミュウツーの誕生と存在意義への懐疑。アイツーとコピーされたポケモンとの束の間の出会いと別れ。それだけでも他のポケモン映画とは一線を画することがわかる。ポケモンの代名詞的なオープニングソング「めざせポケモンマスター」の軽快な音楽とともに、野良のポケモントレーナーとポケモンバトルをするお馴染みの光景は、映画が始まってから20分も待たねばならない。それまでの20分の間に、われわれはミュウツーの苦悩と、人間への逆襲という、子供向けとは思えないドシリとした難題を問いかけられる。

 とはいえ、このような異様な始まりとなったのは、実は偶然と妥協の産物でしかない。予定ではこの冒頭の20分のシーンは、TV版の本編に挿入するはずだったのである。ところが、映画公開以前のテレビアニメ放送中に一部視聴者が光過敏性発作等を起こし救急搬送された事件、通称「ポケモンショック」またの名を「ポリゴンショック」のせいで、TV放送が4ヶ月も延期されてしまい、ミュウツーを本編で紹介することができなくなってしまった。このままでは誰もミュウツーの存在を知らないまま映画に突入してしまうため、仕方なく冒頭にあのシーンを挿入したというのがことの顛末である。この妥協はむしろ映画にとって絶大な効果を与えたと思われる。深い問いかけが冒頭で提示されることで、子供だけではない大人も楽しめる内容になっている。「ポリゴンショック」と放送延期という偶然の失敗と妥協が、ポケモン映画シリーズ史上最高傑作を生み出したのである。

考察

生きることの意味と存在理由

 冒頭の20分はいわば問題提起編であり、問い自体はここで出尽くしているといえる。ミュウツーとアイツーとの会話で問われる生きることの意味、コピーの存在意義への懐疑がその中心にある。

 アイツーはフジ博士の娘のコピーで、オリジナルのアイはすでに亡くなっている。作られたアイツーは身体をもたず思念体として存在しているのだが、生存時間は短く、何度も作られてはすぐに亡くなってしまうことがフジ博士のセリフから読み取れる。アイに依存し忘れることができないフジ博士が、意図していないとはいえ、繰り返しアイ(アイツー)を殺していることに言い知れない悲惨さがある。ここにフジ博士ひいては人間一般の、オリジナルにたいする信仰、そしてコピーにたいする卑下があるともいえる。オリジナルの代わりにコピーを作ろうとうする試みは、コピーの死や苦しみに無頓着なのである。コピーであっても苦しみや悲しみを感じることをミュウツーは知っている。しかし、人間はミュウツーを人工物、言い方を変えれば、所有物としてしかみていない。オリジナルより強く作ることができるコピーは、人間からすると作品としての価値しかない。オリジナルより強いか、人間より従順か、それだけがコピーの存在理由なのである。

 ミュウのコピーであるミュウツーは、人間によって与えられた人間のための存在理由に納得するはずがない。ミュウツーは自分を創りだした研究所を破壊し、ロケット団の長と決別する。作られた人間に従順であることを拒むのだ。ただ、人間を拒んだからといって存在理由を見つけたわけではない。だから、ミュウツーは作られた場所に戻って、根本的な問いを発する。

私は誰だ。ここはどこだ。私は何のために生まれてきたんだ。 私は人間に造られた。だが人間でもない! 造られたポケモンの私は、ポケモンですらない! 誰が生めと頼んだ!誰が作ってくれと願った!私は私を生んだ全てを恨む。 だからこれは“攻撃”でもなく“宣戦布告”でもなく、私を生み出したお前たちへの“逆襲”だ!

 ミュウツーはあろうことか人間からもポケモンからも疎外されている。人間でもポケモンでもないミュウツーを支えてくれるようなアイデンティティーはどこにもない。何ものでもないならば、何故作ったのか。そこから作った人間への恨みに向かうのはもはや必然である。戦いたいのでも、敵だと認定したいのでもない。これは生みだしておきながら疎外してきた人間への「逆襲」なのだ。

涙を流せない存在

 オーストリアの動物行動学者コンラート・ツァハリアス・ローレンツの「刷り込み理論」によれば、孵化したばかりのガチョウの雛は最初に目に入った生物を母だと学習するという。例えば、雛鳥が最初に目に入ったのが人間だとすれば、鳥たちはその人間のあとを追ってしまうのである。このことからも、ミュウツーが最初に目にした生きものは特権的な存在であるといえる。

 ミュウツーが最初に出会い会話をする生きものはアイツーである。それは現実世界ではなく精神世界でなのだが、実質的な意味は変わらないだろう。ミュウツーに生き方を示したのは、フジ博士ではなくアイツーであったのだ。この初めての対話によって、アイツーはミュウツーが生きるうえでの指針になる。とはいえ、アイツーはまだ子供なのであり、ミュウツーに生きる指針を与えるほど成熟もしていなければ経験が豊富でもないではないか、と訝しるかもしれない。しかしアイツーはミュウツーを子供に自分を親に見立てて、おままごとのようにその役を演じているようにみえる。アイツーは母としてあるいは父として、そしてミュウツーは子として、指針を与え受け取るのである。

生き物は、体が痛い時以外は涙を流さないって。悲しみで涙を流すのは、人間だけだって。

ありがとう、あなたの涙。でも泣かないで、あなたは生きてるの。生きているって、ね。きっと楽しいことなんだから。

 アイツーが消えてなくなろうとするとき、ミュウツーの目から自然と涙が溢れる。アイツーはこれを人間の証だという。ミュウツーはポケモンでもあり人間でもある、と彼女はいうのだ。しかし彼女は「でも泣かないで」ともいう。それは死にゆく運命にあるアイツノーの優しさから発せられた、生きることの希望にほかならない。生きることは「きっと楽しいことな」のだ。

 だが、このことが意に反してミュウツーを生きにくくさせてしまう。ミュウツーはアイツーの言いつけを守ることで、涙を流せなくなるのだ。人間の証であるはずの涙を流せないことで、ミュウツーのアイデンティティは揺らいでしまう。ミュウツーはポケモンでも人間でもなくなってしまうのだ。

フジ博士の与えた「強さ」に縛られる

 優しさから発せられたアイツーの言葉に縛られる一方で、拒絶したはずのフジ博士の言葉にも縛られる。ミュウツーは、フジ博士が「コピーはオリジナルより強く作られた」といったときの「強さ」に、アイデンティティを発見する。自分を創りあげた人間の服従の命令を破りながら、そのものが発した言葉に囚われてしまうのは、生きることが「楽し」くないにもかかわらず、その条件である「泣かないで」のほうばかりに縛られることとパラレルである。ミュウツーは「泣くな」と「強くあれ」という禁止と命令に縛られている。

 したがってコピーはオリジナルと戦う必要がある。「人間たちへの逆襲だ」と宣言しておきながら、オリジナルポケモンと戦うのもそのためだ。コピーたちにとって、いまにも崩れ落ちそうなアイデンティティを確保することは、何よりも重要なのである。

 ミュウツーに対峙するミュウは、おふざけが好きなお茶目なポケモンである。ロケット団を欺き、サトシ達を混乱させるミュウは、オリジナルとコピーの境界を撹乱する存在かに思われた。しかしミュウはそのようなイメージを真っ向から否定する。戦いを迫るミュウツーにたいして「本物は本物だ。技など使わずに体と体でぶつかれば、本物はコピーに負けない」というのである。原初にして最強のポケモンであるミュウはそのプライドにかけてミュウツーと戦うおうとうする。

 それに呼応するかようにオリジナルとコピーの戦いは、終わりのみえない悲惨な様相を呈してくる。この戦いはどちらかが倒れるまで終わることはない。この悲惨さを傍観者の役目を担うロケット団のムサシ、コジロー、ニャースたちが上手に言い表している。

なんだかんだと言われたら、なんだかなー。なんだか気の毒で気の毒で、自分で自分をいじめてる。昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~。

 だが、この戦闘のなかで、戦い自体を無効化しようとするものがいる。ニャースとピカチュウだ。戦いを無効化しようするのは、ニャースとピカチュウが他のポケモンにはない特殊な地位にいるからだ。ピカチュウは人間とポケモンの区別の外部にいる。ニャースは言語を翻訳し媒介することでポケモンと人間の間をとりもつ場所にいる。

おミャーは!にゃ…これ痛いだろうにゃー…。ポケモン同士みんな戦ってるのにおミャーはズルにゃ!何?おミャーの方がズルいにゃ?なぜミャーと戦わにゃいだと?その爪痛いだろって?おミャーの爪の方がもっと痛いにゃろ!ん?今夜の月は丸いだろって?そうだにゃー、きっと満月だろにゃー。おミャーこんな時にお月様の話だなんて風流だにゃ…。哲学してるにゃ。

 これはオリジナルとコピーのニャースの会話だ。オリジナルはコピーの言葉を人間語に翻訳する。ニャースが言語を翻訳するとき、相手の意図も明確に読み取る。それがニャースがしていることだ。先のロケット団のセリフ「自分で自分をいじめてる。昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで、やな感じ~」は、オリジナルとコピーの問題を「自己における他者」というもう一つの問題に置き換えている。コピーは自分であり、自分の他者性なのだ。自分を虐ているのは、畢竟自らの意思がわからないからである。それに対する一つの回答がニャースということになる。『ポケモン』において言葉を翻訳するという特権的な地位にあるニャースは、相手の意思を読み取り、声に出すことで意思疎通をはかる。本当は誰も戦いとは思っていないのだ。だが、相手のあるいは自分の意思がみえないために、その他者性に怯え戦うのである。ニャースたちは見えることのない月を満月だと想像するという、風流で哲学的なことをやってのける。ここには戦いの喧騒は届かず、静けさだけ響く。

 もう一つの特異点であるピカチュウは、コピーとオリジナルが戦うことの無意味さを知っている。多くのポケモンが人間との共闘を謳いながらモンスターボールにおさまるのを尻目に、サトシの肩に乗り続け、ポケモンと人間の区別を撹乱してきたピカチュウだからこそ、コピーとオリジナルに優劣の差などないと主張する。ピカチュウはコピーと戦うという選択肢を選ばない。コピーに殴られても、自分から手を出すことはない。それはさながらイエスの教え「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」(『マタイによる福音書』第5章)そのものである。コピーはオリジナルを殴りながら哀しさが溢れ出す。たぶん殴るほうが痛いのだ。ピカチュウはイエスのような立ち振る舞いをすることで、相手に戦いの無意味さを悟らせる。だが、その闘いの終結の波動は、決して外に広まることはない。イエスのような振る舞いをもってしても、コピーとオリジナルの闘いを終わらせることはできないのだ。

涙の意味

 ミュウとミュウツーの闘いを諫めるために、サトシは両方からの攻撃の間にはいり、身を挺して戦いを終わらせようとする。ミュウツーは「バカな。人間が我々の戦いを止めた!?」と驚く。重要なことは、このサトシの行為は勇敢ではあっても、ミュウツーの心に響いたわけではないということである。もちろんミュウツーは驚いている。だが人間如きが!?という意味でもある。サトシが命がけで戦いを止めることは、ミュウツーの心を揺るがすほどの崇高さをもちあわせてはいない。

 注目すべきはそれをみて戦うことをやめたポケモンたちの「涙」のほうである。石化したサトシに十万ボルトをかけるピカチュウの姿は、最愛の相棒の死を前にしてその事実を信じることのできない健気で素朴な行為だ。死ぬことが悲しいのではない。死ぬことを悲しみ無意味と知りながら十万ボルトを放つことをやめないという、その行為から発せられる悲しみの崇高さ、ポケモンたちはそのことに悲しみを感じている。それは「憐み」の感情だろう。ピカチュウの悲しむ姿に、オリジナルやコピー関係なく、共感し悲しむのである。

 これをみたミュウツーは、闘いを中断させた「憐み」の感情に、オリジナルとコピー、さらには人間とポケモンを超えたものを感じる。「憐み」の感情には、オリジナルとコピーの区別など存在しないのだ。そのときになってミュウツーは、アイツーが「ありがとう、あなたの涙。でも泣かないで、あなたは生きてるの。生きているって、ね。きっと楽しいことなんだから。」といった意味を知る。屈折してこの禁止を理解したミュウツーは、泣かなくなることで人間でなくなった。しかし悲しみを感じるからこそ「泣かないで」と言われたのだ。ミュウツーは、ポケモンでも人間でもなかったのではない、ポケモンでも人間でもあったのだ。そしてようやくミュウツーは、「強くあれ」という命令と「泣くな」という禁止から解き放たれて、ミュウとともに飛び去っていくのである。

感想

 コピーはオリジナルと瓜二つなのに、ミュウツーはミュウと似ても似つかぬ姿をしている。それは多分ミュウツーが成長する身体を持っているからだ。だが、だとすればなぜ他のコピーは成長しないのか。それはコピーに成長のプログラムを組み込むと死んでしまうからである。もともとはアイのコピーを作る研究であったのだから、コピーが成長することは必須の条件のはずであった。作ってもすぐコピーが死んでしまうのは、コピーを成長させることが困難だったからだろう。ミュウツーが生き残れたのは、ミュウという最強の遺伝子のおかげだと思われる。

 ところで、不死のミュウに対して、成長する身体を持ち合わせたミュウツーは見事な逆転現象を起こす。本来ならばオリジナルのミュウが父であって、コピーのミュウツーが子であることが自然なはずなのに、それが逆転して、ミュウは「気まぐれなまま父」になり、ミュウツーは「強力な父」になる。この映画で成長するのが許されているのはミュウツーだけだった。その点から言えば、この映画はミュウツーの成長をみんなで見守る温かい物語なのである。

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