夢と現実の両方を愛する – 『寝ても覚めても』濱口竜介

夢と現実の両方を愛する – 『寝ても覚めても』濱口竜介

主人公は朝子(唐田)

 映画『寝ても覚めても』の主人公は一体誰なのだろうか。

 主人公を亮平(東出)だと勘違いしている人もいるようだが、主人公は間違いなく朝子(唐田)だろう。それは映画のキャッチコピーが「違う名前、違うぬくもり、でも同じ顔。 運命の人は二人いた。」であることからも明らかである。原作小説のあらすじに至っては「あの人にそっくりだから恋に落ちたのか? 恋に落ちたからそっくりに見えるのか? 消えた恋人。生き写しの男との恋。そして再会。朝子のめくるめく十年の恋を描いた、話題の野間文芸新人賞受賞作!」(河出書房新社)と、明確に書かれている。

 主人公は朝子なのだ、ということから始めなくてはならない。亮平があたかも主人公であると考えてしまうから自体がややこしくなるのだ。

 伊藤元晴(ecrio-o)の『寝ても覚めても』評では「亮平とともに観客には、挑戦が突きつけられる。あなたは、それでもなお変化し、信用ならず、ときに災厄となって私たちを滅ぼそうとする他人とともに暮らすことができるかと。その約束が結べるかと。」と書かれている。しかし亮平は何かを突きつけられていただろうか。朝子から逃走し朝子を拒絶した亮平は、しかし元から本心ではなく身振りだけだったのではなかったか。亮平の視点ではなくて朝子の視点に立つべきなのではないか。

 その点、濱口の当初の演出も同じ罠にハマっていた。「それまで脚本上ではラストに朝子が亮平に許しを乞うようなニュアンスがあった」(インタビュー, ecrio-o)という当初の演出は、口出しをほとんどしなかった原作者によって本作の状態に変更される。要は朝子は主体的なのだ。

 はっきりさせておこう。ラストのシーンは、亮平がいかに「災厄=震災=他者」を受けいれるか、というロマンチックな話では決してない。そもそも亮平は一度も本当の意味で喪失を味わっていない。朝子を完全に喪失していたならば、猫を探す朝子に声をかけることも、隠れて猫を飼うこともなかっただろう。朝子に対して未練があり、朝子が戻ってきた、そしてそれを受けいれた、亮平の物語はただそれだけのことなのだ。

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夢か現実か

 全体を通してリアリティが薄い印象を受ける。麦との出逢いは幻想的だし、急に消えてしまう麦は夢だったのではないかと疑ってしまうほどだ。

 それは麦だけではない。亮平も朝子にとってはフィクショナルな存在である。麦の喪失を受けいれられない唐田は、麦の亡霊として亮平と接する。しかし、ポイントは麦も亮平も実在するということだ。麦も亮平も、夢であり現実なのである。

 このありえない現実(=夢)を朝子はどのように理解していくのだろうか。まず朝子は麦に恋をし、麦を喪失し、麦の亡霊を追い求め、亮平に恋をする。簡単にいうと麦=現実、亮平=夢という構図である。

 しかしこの構図は、朝子が思っていたほどには自明なものではない。亮平との付き合いが長くなるにつれて、麦の存在=夢となり、亮平=現実となってしまうのだ。しかしこれすら、一時的なものでしかない。麦の再登場は夢と現実の関係を再び逆転させる。そのことを朝子は麦に告白する。

私はまるでいま夢をみているようなきがする。違う。今までのほうが全部長い夢だったような気がする。すごく幸せな夢だった。

『寝ても覚めても』

 麦=夢と言ったそばからそれは否定される。「これまでのほう」とはつまり亮平のことだ。いま目の前にいる麦こそが現実で、亮平こそが夢なのである。

 このあと朝子は麦と別れ亮平のもとに帰る。この決心は些か唐突で根拠に欠けるように思われる。それはあたかもこれまでの全てが夢の中とでもいうかのようだ。そして夢が終わりを迎えた、と言いたげのようでもある。

 だがそうではないのだ。朝子が麦と別れたのは彼女が「現実」に目覚めたからでも、麦が震災後の現実を知らなかったからでも、あるいは、朝子が成長したと勘違いしていた亮平との「夢」の中に戻りたかったわけでもない。そうではなくて、麦≠亮平だと気付いたからなのだ。麦が朝子の前に突然現れたとき朝子は「麦 ⊃ 亮平」 だと確信して、偽物の亮平を捨てて本物の麦と共に歩むことを決めた。だが最後には「麦は亮平やない」ことを朝子は知ったのだ。

 朝子には、夢と現実、本物と偽物、実体と亡霊を取り換えることも壊すことも、もはや必要ない。朝子はその両方を愛しているからだ。だからこそ朝子は亮平に許しを乞わないし、一緒にいたいという要望だけ亮平に伝えるのである。麦と亮平を愛すること、それは困難なことだ。だがとても尊いことでもある。それは汚い川を「汚い」と認めながら「けど綺麗」と同時に思うことに他ならない。

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雑談1 – 脇役

 岡崎親子の演技とエピソードはどちらも素晴らしいと思った。息子の無言で見つめているシーンは口元だけしか動いていないが、それだけに表情が豊かだ。母親の夫ではない人とのデート話も微笑ましい。聞いてみると大抵誰でもこういう話を持っているものである。

雑談2 ーー帰れ。どこへ?尼寺へ。

 最も好きなシーンは、亮平が猫を探している朝子に声をかけてしまうところだ。

亮平 何しとんねん

朝子 亮平!

亮平 無駄なことすんなや、帰れ、帰れ

朝子 亮平!!!

朝子が亮平と叫びながら坂を駆け上がると、亮平は全力疾走で逃げるのである。傘を持っていたのだが、早く走れないと思うや否や傘を投げ捨てる。何度見ても笑える。逃げるなら声かけるなよ(笑)

 ところで、朝子と麦は「帰る。どこへ?亮平のところ」という会話をしているのだが、亮平が朝子に放った「帰れ」の叫びは、一体どこに帰れと要求しているのか。朝子は麦ではない紛れもなく自分のところに帰ってきたのに。

 亮平は多分、仙台のおじさんが言った「他人のチンチン〜」ということを気にしてるのだろう。だから朝子に「どこへ?」と問われれば「尼寺へ」と答えたかもしれない。

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