感想
【※この文章はネタバレを含みます】
どぎついパープル、オレンジ、ピンク、イエロー、どれも夢の国のご近所にふさわしく、日常生活には縁のない色の建物ばかりで画面は満たされる。
フロリダにある実際のディズニーランド周辺で撮影された映画『フロリダ・プロジェクト』はとにかくカラフル。舞台は安モーテル「マジック・キャッスル」(画像2)で、主人公の少女ムーニーは毎日友達や、保護者のヘイリー(画像1)と共に楽しく暮らしている。
馬鹿に元気な色たちの中ではしゃぐ子供達はかわいい、こんな時代があった(ような気がする)な~とちょっと感傷にふけったりもする。
ただ徐々にわかってくるのは、ムーニーからみると明るい毎日にはいつでも見えないところに薄暗い色が潜んでいることだ。
ヘイリーには金も定職もなく、ムーニーを連れて観光客に安い香水を高値で売りつけることで、その日のモーテル代を稼いでいる。それも厳しくなると、ついにヘイリーは売春をはじめる。
これらのシーンがムーニーの目を通してみる映画の中では、はじめは全て「あそび」のように映る。たとえば、突然ヘイリーがカメラを取り出し、のりのりでムーニーと写真を撮り合うシーン。変な表情やポーズをするヘイリーにムーニーは喜び、自分も決め顔でレンズにむかう。ただそれは、ヘイズの売春の広告写真を撮るためのものだった。
徐々に見えてくる魔法の国の横に潜む貧困の存在に、どぎつい建物の色はそれとはあまりに似合っていなくて、だんだんと見ているこっちがモゾモゾしてくる。
そしてこの文章の題名にもある「シンデレラ城」の登場で、作品の切なさは頂点に達する。
映画の最後、児童保護施設の職員がムーニーを定職のないヘイリーから「保護」しようとやってくる。必死に抵抗する二人だが、どうにもならず、ムーニーは顔を文字通りぐしゃぐしゃに歪めて泣きわめく。
だが、二人の抱える社会問題が、ムーニーの現実を覆いそうになるその瞬間、その場には不自然な軽快な音楽が鳴り始める。そしてムーニーの友達の一人が、彼女の手を引きその場から逃げるために走り出す。
二人の会話はもちろん、音楽以外のすべての音が消え去った世界はまるで夢の中のようだ(手を引いている方と引かれている方がカットごとに突如入れ替わり立ち代わりしているのもその場面が夢である印象を強める)。二人はそのまま、ディズニーランドの入場ゲートをお金など当然払わないままくぐる。そして、シンデレラ城に向かう途中、二人の小さな背中は人ごみに紛れて画面から消えていく。
どうしようもない現実の中で、少女は幻想のなか、シンデレラ城へと駆けていく。ただ間違えてはいけないのは、作品は決して貧困の問題をうやむやにしたのではない。むしろ、このラストでそれは極まる。
その理由は、ムーニーが現実からの逃亡先として「シンデレラ城」を選んだことにある。つまり、他の子供にはお金を払えば入ることのできる「夢の国」は、ムーニーにとっては本当の「夢」として機能してしまうし、それでしかありえない。貧困の問題は、子供の「夢」のなかまで蝕んでいることをありありと示すのだ。
その行き場のない切なさは、夢の中に流れる軽快な音楽というその状況にはあまりに似合わないものにより高められ、その構図はムーニーたちを囲むカラフルすぎる世界ととてもよく似ている。
そのポップな色と音は彼女たちを囲みながらも、彼女たちのためのものでは決してありえない。ムーニーが現実からの逃避先として選んだお城は、誰かにとっておとぎ話の模造品でしかない、でも彼女にとってそれは紛れもなくおとぎ話そのものなのだ。
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