『ボビー・フィッシャーを探して』感想|あらすじ解説|内容考察|我が子に期待して

『ボビー・フィッシャーを探して』感想|あらすじ解説|内容考察|我が子に期待して

概要

 『ボビー・フィッシャーを探して』は、1993年のアメリカ映画。監督はスティーヴン・ザイリアンでデビュー作。スティーヴンは『シンドラーのリスト』の脚本で有名。

 本作は実在するジョシュ・ウェイツキンの少年時代を描く伝記映画。原作はジョシュの父のノンフィクション小説。

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登場人物

ジョシュ・ウェイツキン(マックス・ポメランク):7歳の少年。チェスの天才。純粋にチェスが好きで、ストリート・チェスのヴィニーを慕っている。フェレッドやブルースから、ボビー・フィッシャーの再来と目され期待される。

フレッド・ウェイツキン(ジョー・マンテーニャ):ジョシュの父。ジョシュに期待を寄せる。スポーツ記者。

ブルース・パンドルフィーニ(ベン・キングズレー):ジョシュのチェスの師匠。頑固でスパルタ。ジョシュに期待するあまり、価値観を押し付けてしまう。

ヴィニー(ローレンス・フィッシュバーン):ストリート・チェスで稼ぐ。ジョシュの才能に最初に気づく。助手に慕われている。

ジョナサン・ポー(マイケル・ニーレンバーグ):チェスの天才少年。ジョシュの宿敵。

あらすじ

 1970年代にチェスの大天才ボビー・フィッシャーは、アメリカ人初の世界チャンピオンになるも、1980年代行方不明になっていた。そして誰もがボビー・フィッシャーを忘れることなく、第二のボビー・フィッシャーを探していた。

 1990年代、7歳のジョシュ・ウェイツキンは、公園でおこなわれていたチャスの試合を目にすると、チェスにのめりこむようになる。公園にはストリート・チェスをしているヴィニーがいた。ジョシュはヴィニーを慕い、彼にチェスのやり方を習う。

 父のフレッドはジョシュの才能に気づき、ブルースに指導を依頼する。チェスの危険さと芸術性を熟知しているブルースは、楽しむよりも勝つことを優先してジョシュに教える。特に、チェスの試合が過酷でることから、相手を憎むことを教える。さらに、早指しをするストリートチェスを禁止する。

 ブルースの反対を押し切り、フレッドはジョシュを全国の大会に参加させる。連戦連勝を重ねジョシュの強さを見せつけるも、負けたら父に見放されると考えてしまい思うように力が出せず、格下の相手にも負けてしまう。

 負けてしまったジョシュに、ブルースは高圧的な教育を始める。この教育法に反対する母ボニーは、ブルースを家から追い出す。フレッドはジョシュが勝てないのは、負けることを恐れているからだと考えるが、ボニーはフレッドの愛を失うことを恐れているのだと指摘する。このことに気づいたフレッド、ジョシュの心を優先し、勝利だけを優先することをやめて、チャスを楽しむことを大切にする。

 これによって、ジョシュは再びチェスを楽しめるようになる。そして、ライバルが待つ全国大会に出場し、見事に優勝したのだった。

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解説

1980年代とチェス

 映画『ボビー・フィッシャーを探して』は実在するチェスプレイヤー、ジョシュ・ウェイツキンの少年時代を描く。ジョシュの少年時代というのは1980年代のことで、映画からは当時のアメリカの雰囲気がはっきりと伝わってきて、それだけでも観ていて楽しかったりする。

 この作品の題名にあるボビー・フィッシャーは、伝説的なチェスプレイヤーで米国人として初めて世界チャンピオンになった人物だ。しかし彼はかなりの変わり者で世界チャンピオンになるや否やすぐに姿を消してしまう。1970年代のことだ。

 ところでこの作品をより面白く鑑賞するためには、チェスについての前提知識が必要かもしれない。チェスはボードゲームの一種で、日本で馴染み深いゲームでいえば将棋に近い。ゲーム、しかもボードゲームか、と侮ってはいけない。チェスは頭脳のスポーツと呼称されいわば賢さの象徴であり、世界中の人々が熱中する最も国際的な知的ゲームなのだ。チェスのチャンピオンになることは、つまり世界一賢い人物であることの証明に等しかったのだ。そしてチャンピオンの座にはアメリカ人ではなく長らくロシア人が座っていたのである。

 1980年代は冷戦の真っ只中でロシアとアメリカの関係はあまりよくなかった。そのような国際状況の中でアメリカに彗星のように現れたのがボビー・フィッシャーというわけだ。だからボビー・フィッシャーはただのチェスのチャンピオンというわけにはいかなかった。彼はアメリカ国民の期待と威信を背負った孤高のチャンピオンだった。だがボビーはすぐ姿を晦ます。その時アメリカ人の期待は裏切られたのだ。

考察

第二のボビーは代替可能

 これらの背景を踏まえると『ボビー・フィッシャーを探して』という題の秀逸さがわかる。そこには主人公の名前がないのである。当時は誰もが第二のボビー・フィッシャーを探していた。チェスが強い子供が現れると周囲の大人は「第二のボビー・フィッシャーだ」と口々に噂する。失われてしまった強さの象徴を埋め合わせるように、そして本物のボビー・フィッシャーを探すように、第二のボビー・フィッシャーを探しているのだ。そこにボビー・フィッシャー以外の固有名はない。畢竟「第二のボビー・フィッシャー」になるのは誰でもいいということになる。

 そしてその熱狂の理不尽を子供は敏感に感じ取っている。大人たちはジョシュに頭抜けたチェスの才能を感じ取ると、ジョシュを「第二のボビー・フィッシャー」だと期待する。だが他に強い子が現れれば、その子も「第二のボビー・フィッシャー」なわけだ。代替可能な存在としての「第二のボビー・フィッシャー」。大人たちは才能豊かな子供を、勝手に発見し、理想を投影し、期待し、失望する。チェスの試合に負けることは「第二のボビー・フィッシャー」の座からひきずれ下されることを、大袈裟にいえば愛されないことを意味する。楽しいから始めたはずのチェスが次第に重荷になっていく。ジョシュは負けることを「怖い」という。勝負で負けることが「怖い」のではない。負けることで父親や師匠に見向きもされなくなることが怖いのだ。しかし周囲の人はそれが分からず一笑に付す。「相手を軽蔑しろ」そしたら勝てると励ましさえしだすのである。

感想

自己の理想を子供に投影するダメな大人たちの成長物語

 「第二のボビー・フィッシャー」を探す人たちは、発見された子供たちを強くしたいのではない。そうではなくて、彼ら(父親、師匠)は子供に自己の理想を投影するのだ。父親は学校の先生に「私はジョシュに勝るものをもっていない」と告白するし、師匠は過去に打ち負かされたボビー・フィッシャーを理想化し彼になるようジョシュを教育する。「ボビーならこうする」だの、「ボビーはチェスのことしか」考えていなかっただのと永遠いっているのだ。それに対するジョシュの一言は痛快であり正しい。「僕は彼じゃない」。

 この物語は一見するとジョシュが主人公のようにみえるが、父親や師匠の感情の変化も丁寧に描かれていて、どちらかというと子供の周りの大人たちの成長物語のようだ。ジョシュは純粋で正しい。歪んでいるのは大人たちである。その大人たちに合わせようとするジョシュの対応は寧ろ大人だ。そして成長しなくてはならないのは周囲の大人達である。

 わざと負けたジョシュに父は雨のなか説教を加える。「なぜ負けたんだ」「クイーンを動かすな」。父親の目線の先にはジョシュがいるようで実はいない。そこにいるのは落ちぶれて惨めな自分の人生だ。父親も師匠も「〇〇するな」「ダメになる」というが、それは自分のことだ。自分を認められない彼らはジョシュを叱責することしかできない。ここでもジョシュは敏感で鋭い。「なんで責めるの」とか「次は勝つから」などとは決して言わず、一言「なぜ僕から離れているの?」と問いかける。それは自らを否定し理想を子供に投影する大人達に、「なぜ自分を愛せないの?」と問うかのようだ。

 この問いかけのおかげで彼らはやっと成長を始められる。先ほども書いたがこれは大人たちの成長の物語だ。このことは原作者がジョシュ・ウェイツキンの父親であるからからも分かる。主人公は父からみた子供ではない、子供が見たであろう大人(自分)の姿なのだ。そして彼らが自分たちの傲慢さに気がついた時、父親は成長し、ジョシュと釣り遊びに出かけられる。本当はチェスなんかどうでも良くて大事なのはジョシュなのだ。だから『ボビー・フィッシャーを探して』の題に続くのは「第二のボビー・フィッシャーを見つけた」ではなくて、まさにそこに「を見つけた」となるはずだ。

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