『サンドラの小さな家』感想|あらすじ解説|内容考察|ユートピアを探して

『サンドラの小さな家』感想|あらすじ解説|内容考察|ユートピアを探して

概要

 『サンドラの小さな家』は2020年のアイルランド・イギリスの映画。監督はフィリダ・ロイド。DVを受けた女性が、街の住人と力を合わせて家を建てる心温まる物語。

 フィリダ・ロイドは以前に『マンマ・ミーア!』と『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』2つしか映画を撮っていない。本作は9年ぶりの監督映画。

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登場人物

サンドラ(クレア・ダン):DV夫から逃げ出した女性。二人の娘をもつ。役所からも支援が受けられず途方に暮れるが、ペギーやエイドなどの暖かい支援をうけて、自分の家を建てることを決意する。

ペギー(ハリエット・ウォーカー):サンドラの雇い主。元軍医。足が動きづらく、介助が必要。気難しそうな人物であったが、サンドラと徐々に打ち解けて話すようになる。のちに庭にサンドラの家を建てることを許可する。

エイド(コンリース・ヒル):サンドラが街で出会った技工士。サンドラに協力し、建築のさいには現場で指揮をとる。

ゲイリー(イアン・ロイド・アンダーソン):サンドラの夫。サンドラに暴力を働く。関係修復を望むが無理とわかると裁判に持ち込む。

あらすじ

 舞台はアイルランドのダブリン。サンドラは娘二人と夫ゲイリーの4人で暮らしていた。サンドラはゲイリーから日常的に暴力を振るわれていて、ある時、娘と協力して外の人に助けを求める。

 ゲイリーと離れて生活が送れるようになるも、公営住宅には入ることができずホテル暮らしを余儀なくされる。娘二人を育てながら金銭面もやりくりしなくてはならないサンドラは、次第に疲労の度合いを増していくことになる。

 公共機関からの援助がないサンドラは、元軍医であるペギーのもとで介助の仕事を始める。気難しい性格であったが、サンドラにたいして徐々に打ち解けて話すようになる。週末は子どもたちをゲイリーに預けなくてはならず、サンドラは強いストレスを感じる。娘はゲイリーを嫌がり、サンドラはDVの記憶が蘇り薬を服用するようになる。

 公営住宅も空きがでず家の値段も上がり続けているため、家を自作することを決意する。しかし、お金を工面し役所に行くと、土地は渡せないと断られてしまう。そんなとき、ペギーは自分の家の庭にサンドラの家を建てることを提案する。

 さらに、ホームセンターで知り合ったエイドとその息子が、家を建てるのに協力してくれることになる。また、同僚やママ友や住民たちも積極的に助けてくれて、建築は順調に進む。

 ところが突然、ゲイリーは娘の親権をサンドラから奪うために裁判を起こす。役所に届けず家を建ててること、その作業中に娘が怪我をしてしまったことなどの状況から、サンドラは不利な立場に陥る。しかし、サンドラは子供の意思を第一にすることを主張し、見事に親権を勝ち取る。

 新居も完成し仲間たちと喜びあっていたのも束の間、ゲイリーによって新居が燃やされてしまう。失意のどん底に落とされ寝込んでしまうサンドラ。そこにゲイリーの母親が訪れ、彼がDV気質になってしまったのは自分の責任であるの詫びる。

 サンドラは絶望のなか、娘たちが灰になった家の残骸で遊ぶ姿を目にする。そして、家を建て直すことを決意し、娘たちのもとに駆け寄り作業を始めるのだった。

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解説

政策ではなく助け合いの暖かさ

 暴力を振るう夫から逃げたサンドラが、地域の人と協力しながら家を建てる話だ。DV、貧困、人種、行政と取り扱われる問題は多岐に渡る。

 この映画の見どころの一つは、助けられるサンドラも助ける友人たちも聖人などではないところである。サンドラは子供の親権を奪われる可能性が生じると友人たちに八つ当たりをするし、友人の一人はサンドラに聞こえるように「所詮ボランティアじゃねえか」と意地悪く言ったりする。大抵の映画が、主人公は善人で時に怒ってしまうがそこに人間らしさやリアリティーがある、といった風のものなのだが、『サンドラの小さな家』はそこが真逆である。むしろこの映画の前提にあるのは、すべての人が善人などではない、ということだ。そして、善人でなくても相互に助け合うべきだ、ということでもある。

 助けてもらってるんだから文句を言うなとか、精神が荒れたら八つ当たりされても困ると感じた人もいるだろう。そういった言説を日々浴びていると、考えていなくてもふいにそう思ってしまうことがある。サンドラのことが気に食わない人は「所詮ボランティアじゃねえか」といった友人に近い位置にいるのかもしれない。しかし、この映画が伝えていることはそれを含めて人間だということでもある。そして、先ほども書いたように、そういった感情を排除しないで、共に助けあることが重要なのである。

考察・感想

ユートピアはどこへ?

 この助け合いの場は当然のように生じるものではない。建築の技術をもつエイドはサンドラのお願いを何度も断るし、家主の娘は家を作ることに反対する。何故周囲の人々はサンドラを助けることになったのか。それはもう偶然としか言いようがない。エイドの息子がサンドラに靴を渡したからもあるし、サンドラと娘がかわいそうだからということもあるだろう。

 しかしここで重要なことは、助けるという行為は、助ける人が助けられる人より力関係において上位にいるということを意味しないことだ。技術を持っていようが力があろうが、そこにあるのは憐みの感情と対等な立場なのである。

 助ける者と助けられる者が、何故対等になれるのだろうか。それは一重に友人たちが、サンドラを助けるためではなく、サンドラの家を作るという目的のために行動したからだろう。助けられる者に向かうのではなく、助けられる者が向いている方向と同じ方向を見ること。同じ目的のために行動する時、そこに力関係は不必要なのである。

サンドラの小さな家

 だからこそ助けたはずの友人たちは口々にサンドラに感謝の意を伝えることになる。それは助ける人が本当は助けられているのだ、ということではない。そうではなくて同じ目的のために家を作ったという達成感が人を救っているのである。それは最近満足な仕事ができていなかったエイドも、助けてくれた家無しの人も同様だろう。喧嘩をしながらも作ることのできた「サンドラの小さな家」の前でみんなが満足げであるのは、そういう理由なのだ。

 サンドラが作ろうとする小さい家は、裏庭に建てられるユートピアのようなものだった。そこではDV夫からも何もしてくれない行政からも隔絶され、娘二人と幸せに暮らすことができる。

 しかしそれは本当だろうか?本当にサンドラはDV夫から逃げることでしか、ユートピアに閉じこもることでしか幸せになれないのだろうか?

 サンドラの家が放火された時、サンドラは絶望の淵に落とされ何日も寝込むことになる。家の焼失はユートピアの消失を、そして幸福な将来の消滅を意味していた。将来真っ暗で立ち上がることすら難しい。

 しかしサンドラは焼失した家の残骸を子供達が整理している時、もう一度家を立てることを決心する。それは逃げ込む先としてのユートピア以外の充実した幸せな空間の所在に気がついたからだ。友人との建築作業は喧嘩こそあれ、暴力も権力関係もなかった。戯言だと言われようが、家を作る過程にこそ幸福があったのだ。今度は作るのは一人でだ。だがすぐに一緒に作ってくれる人が現れるだろう。

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