『エターナル・サンシャイン』考察|すべての肯定|あらすじネタバレ感想・伝えたいこと解説|ミシェル・ゴンドリー

『エターナル・サンシャイン』考察|すべての肯定|あらすじネタバレ感想・伝えたいこと解説|ミシェル・ゴンドリー

幸せとは無垢な心に宿る。忘却に沈みゆく世界。曇りなき心に輝く永遠の太陽。祈りは届き、願いは受け入れられる(アレキサンダー・ポープ、『エターナル・サンシャイン』で引用される)

代わり映えのない日常が無意味に反復することに嫌気が差しながら、それでもなお平板な日々に戻ろうとするならば、そこには一つの決断が存在したと言わなければならないが、そう断言できるのはその決断が終わった後のことであって、いわば事後的に存在する決断というものであり、どうにも取り返しが付かなくなったと悲嘆に暮れる人生のある地点において、なぜこうなってしまったのだろうか、それはあの時にこの道を選んだからだと後悔するときに発見される類のものであるから、その発見された決断をした地点に戻って自らの意思で決断したのかと問えば、それは全くの嘘であると言わねばならず、ある種の「軽さ」を持って生活していたのだが、その都度怠惰と惰性の積み重ねから構成される日常には、後の人生を方向づける決断の意思も自己に対する責任も介入する場所を与えられてはいないとはいうものの、後になってこのつまらない日々を誰のせいにもすることができないのだから、事後的には決断とある種の責任が存在していたと言えるのであって、その意味で日々の決断には個人では耐えることの難しい「重さ」が宿っている。

ドイツの哲学者ニーチェは、人生や出来事は壊れたカセットテープが同じ音を反復するように永遠に繰り返されていると主張し、この世界観を永劫回帰と呼んだ。ニーチェのこの主張とパルメニデスの思想を組み合わせて、チェコ出身の作家ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の冒頭で、日常ではなく人生を「軽さ」と「重さ」の観点から思考し、人生において重要なのは「軽さか、あるいは、重さか?」(9)という問いを提起した。どちらが正しいかは不明だが、「永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」(8)のならば、すぐさま筋肉は萎縮してしまい指一つ動かすことすら想像するのも憚られるが、「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうる」(8、9)ならば、行為自体が持つ意味は限りなく失われるだろう。どちらにしろ決断は恐ろしいものになる。あまりの重さは行為の決断を踏みとどまらせ、あまりの軽さは行為の決断の無意味さを突きつける。

であるならば、決断など存在しないと口にして楽になるのも悪くはないし、事実、決断などその瞬間には存在しておらず事後的にあるかのように感じられる幽霊のような存在なのだから、人生を悔やみその責任を自らに突きつけ現れた幽霊の所在を明らかにすることこそが、ある種の嘘であり欺瞞であって、ありのままの姿を見ようと努めたならば、真っ新な目に映るのは決断ではなく日常、それも良い悪い軽い重いなどの価値判断が伴わない、ただここにあるとしか言い表すことのできない日常なのであるが、しかしそうであるなら、つまり決断などはなかったと認めることのできる真っ新な目を持っていたなら、どのようにこの日常を肯定することができようか。目の間に広がる、決断も意味も価値判断も伴わない、ただあるとでしか表現できないこの日常を。

忘却はより良き前進を生む

 2004年に公開されたミシェル・ゴンドリー監督の『エターナル・サンシャイン』は、ニーチェの永劫回帰の世界観に貫かれている。

 冒頭でジョエルはクレメンタインと出会い恋に落ちるが、実はこれが初めてではない。すぐに明らかになることなのだが、2人は数日前まで恋人同士であって、付き合っていた二年の間に次第に関係が悪化したことから、数日前に互いに記憶を消したのだった。記憶を消した2人は出会い再び恋に落ちる。まるで、運命とでもいうかのように。

 ところが、この運命が指し示すことは、奇跡的な再会にも拘らず極めて残酷である。2人は記憶を失ってなお、再び恋に落ちた。一度目の恋愛と同じように、二度目の恋愛が幕を開けたのだ。しかし一度目と二度目の恋愛が、壊れたカセットテープが鳴らす音の反復のように繰り返されているだけであるならば、その終わりもまた決められている。ジョエルとクレメンタインは何度でも出会い恋に落ちるだろう。そして何度でも関係を破綻させるだろう。

 出会いが運命であるならば、破局もまた運命である。二度目の出会いが必然的であったように、二度目の破局もまた免れることはできない。

忘却はよりよき前進を生む(ニーチェの言葉。作中で引用される。)

寸分違わず繰り返されるこの人生をそれでも享受できるのは、それまでの人生を忘却したからだ。永遠の反復は行為に耐え難き重さを加えるが、忘却はその耐え難さから逃れる術である。悲劇的な破局の後であるにも拘らず、好意を覚えることができるのはこの忘却のおかげと言える。おそらく忘却は前進だけではなく、発見や幸福、驚きや閃きの源泉でもある。忘却は、動きを抑える重さに、飛び立つための軽さを与えてくれる。忘却なき人生は、行為を不可能にさせるだろう。

 クレメンタインの髪の色は、その時の感情をそのまま示している。緑から赤へ、オレンジから青へといった変化は、ジョエルとの出会いから破局までの過程そのものを表している。

 ジョエルは記憶を消すにあたって、恋愛の成就から破局までの過程を逆に進む。破局間近の最悪の日々は非常にリアルだ。戯けて見せた死んだフリや相手の小言の先読みなど、涙ぐましい努力に心が痛い。子供の話題を避けようとするジョエルの反射的な仕草も、店での食事を楽しめず2人の関係に思いを巡らすメタな思考も、その態度自体が癇に障るクレメンタインが訴える言葉も、観客の記憶にあるあの光景を鮮やかに蘇らせる。恋愛が決まり切ったコードの反復であるように、その終焉もコードに則って進行してから、ジョエルとクレメンタインのやりとりに我々は悶絶してしまうのだ。

人生最大の肯定へ

 そのようなブルーの時代の後だからこそ、恋愛の最上の時がより一層輝くしく見える。森の中でふざけ合っているシーンや、氷の上のロマンチックなシーンは大変素晴らしい。

クレメンタイン:分かってるでしょ。私は衝動的なの
ジョエル:だから君を愛してるんだ

記憶を巡ることで、ジョエルはクレメンタインへの愛を再確認する。記憶を消して欲しいと願いも、クレメンタインのように衝動的なものであった。「この記憶だけは消さないでくれ」と叫ぶとき、記憶の消去の拒絶だけでなくクレメンタインへの愛が芽生えている。

 だが問題は、遡れば蘇る輝やかしい記憶の内に希望が宿るのかという点にある。関係が破綻寸前であるとき、相手の行動の一切に不快感を覚えるとき、それが一時的なものであると相対化するために記憶を巡るという方法は有効なようにも思われるが、それが根本的な解決でないこともまた確かである。人生楽ありゃ苦もあるさ〜というのは、人との関係においても当てはまる。ようはこの苦しみにどう向き合うかが問題なのだ。

 2人は記憶の消去を迫る魔の手から逃げるために、過去へ深く潜っていく。そして最後に行き着くのが2人が出会った最初の日である。その日2人は、映画の冒頭で訪れていた海辺で出会い意気投合する。友人たちがいなくなって2人だけになると、近くの空き家に侵入しようとする。怖気付くジョエルと、酒を漁ろうとするクレメンタイン。恐怖に駆られて黙って家を出たことでこの記憶の旅は終わりを迎えるが、去りゆくジョエルにクレメンタインが投げかけた「じゃあ、帰れば」に、彼女は残って欲しいという思いを載せている。彼は気弱である自分への軽蔑だと受け取り傷つくため、ここで想いが交差することはない。これはジョエルに訪れた一回きりの失敗ではない。「残ればよかった」と後悔してみせるジョエルは、その後の人生で同じ状況に迫られた時でも決断することを拒んできた。子供を作ろうと提案されたときに怖気付いて話を逸らしたジョエルは、空き家での最初の決断を反復しつづけているのだ。

クレメンタイン:今回は残ってみたら?
ジョエル:僕は立ち去ったんだ。記憶が残ってない
クレメンタイン:少なくとも、戻ってきてさよならのあいさつをして。そうしたことにしましょうよ。さようなら、ジョエル
ジョエル:愛してるよ
クレメンタイン:会いましょう。モントークで

終わりなき反復を抜け出す契機がここにある。この2人の会話は記憶にある風景の中で行われているため、その範疇を超えた場面に移行することはない。だが、もしこうしていたらという後悔と、さよならの挨拶をしたという事実の改変は、次の繰り返しから逃れる可能性を与えてくれる。

 現実世界で記憶を失った2人は再会して恋に落ちるが、会社から送られてきたテープを聞いて喧嘩別れをする。輝かしい記憶が愛を再認させたように、罵詈雑言の悲しい記憶は愛の破局を予感させる。

 だからと言って、素晴らしい日々だけを選択し寂れた日々だけを忘却することは、可能ではないしするべきでもない。我々の人生が、永劫回帰の思想が示すように永遠に繰り返すとするならば、そこにある破局は免れ得ない。でもそれをひっくるめて全てを肯定することは可能ではないか。前述のように、クレメンタインの嫌味と魅力的な性格が表裏一体であるならば、嫌なこともひっくるめてその全てを肯定するべきなのだ。

ジョエル:君のことを嫌う理由がない
クレメンタイン:でも嫌いになる。そう考えるようになる。そして私はあなたに飽きて息がつまるようになる。だって実際にそれが起こったことだもの
ジョエル:いいさ
クレメンタイン:いいわよね

嫌いになる理由がなくても嫌いになる。それは過去の自分たちが証明していて、その未来は壊れたカセットテープが繰り返す音のように確実に訪れる。でも、それでいいのだ。繰り返すつまらない日々を、いつか訪れる悲しい破局を、終わりなきこの人生を、それでも肯定(YES!)すること。そのときすでに2人の新たな関係が始まっている。

P.S. カップルの方は別れそうになったら2人でこれを観ましょう。関係が回復します。

登場人物・キャスト

ジョエル・バリッシュ(ジム・キャリー):クレメンタインの恋人。クレメンタインが記憶を消したことにショックを受けて、自らも記憶を消す。
(他の出演作:『トゥルーマン・ショー』『イエスマン “YES”は人生のパスワード』)

クレメンタイン・クルシェンスキー(ケイト・ウィンスレット):ジョエルの恋人。ジョエルと喧嘩をして記憶消去の手術を受けた。

メアリー(キルスティン・ダンスト):受付。スタンの恋人。ミュージワック博士を好いている。

スタン(マーク・ラファロ):技術者。ミュージワック博の部下。
(他の出演作:『ゾディアック』)

パトリック(イライジャ・ウッド):助手。手術中にクレメンタインを好きになり、ジョエルの記憶を盗んで彼女に接近する。

ハワード・ミュージワック(トム・ウィルキンソン):記憶消去が専門の博士。

ロブ(デヴィッド・クロス):ジョエルの友人。

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