政治的なものという概念と友敵理論
国家という概念は、政治的なものという概念を前提としている。だが、この政治的なものとは、一体何を意味しているのだろうか。
まずは、人間の思考や行動を規定する他の概念、例えば道徳的、美的、経済的なものの領域について考えてみよう。道徳的なものの領域では善と悪、美的なものは美と醜、経済的なものは利と害をわける。これらは他の概念の領域とかぶることもなければ依存し合うこともない、それぞれに独立した概念である。
政治的なものという概念も、これらの概念と同様に独立して定義することができる。政治的なものとは「友と敵という区別である」(『政治的なものの概念』p.15、傍点は筆者による)とシュミットはいう。
これらの概念が独立しているということは、美的に醜く、道徳的に悪であっても敵である必然性はなく、経済的に害をなす相手であっても敵とみなす必要はないことで確認できる。ともあれ大抵の場合は、心理的に敵を悪や害とみなす場合が多いのだが。
政治的なものは友と敵を区別するのだが、経済的なもの、道徳的なものはそれを別の形に変形しようとする。経済的なものの領域では敵を競争相手とみなすし、道徳的なものの領域では論争相手がいるだけである。だが、重要なことは、友と敵の区別はこれらに独立して現実に存在しているのである。
したがって、政治的なものの敵は私的でも精神的なものでもなくて、「抗争している人間の総体」(18-19)である。これはあくまで公的領域におけるものであって私的なものではない。この前提をふまえると「なんじの敵を愛せよ」をようやく理解することができる。これが意味することは、あなたの(公的な)敵を(私的に)愛せよ、となるのである。
政治的なものと主権
政治的な対立は最も強固で最も極端なものである。経済的な対立も道徳的な対立も、対立が激しくなり友敵の結束に近づくと、それは政治的な対立へと変わる。
国家は政治単位であり国外に敵と友を認定する役割をもつが、その一義的な区別のほかに国内にも「「政治的」という数多くの二次的な概念が生じてくる」(21)。例えば、宗教政策や社会政策などもこれに含まれるのだが、これらも敵との対立が前提とされているのである。
友敵の区別は最終的に戦争という手段に頼ることになる。戦争とは相手を撲滅することであって、友敵の区別には戦争の現実可能性が含まれている。逆にいえば、戦争の現実可能性があってはじめて友敵の区別が生じるのである。「究極的な政治的手段としての戦争は、すべての政治的概念の基礎に、この友・敵区別の可能性が存在することを露呈するものである」(31)。したがって、「純」経済的なものや「純」道徳的なものから遂行される戦争は存在しえない。そして「純」経済的なものであれ「純」道徳的なものであれ、対立が深まり敵と認定すればそれは政治的なものなのである。
さらに政治的なものという概念は、主権という概念と深く結びついている。主権とは、戦争を含む例外的な状態においてなんらかの事項にかんして決定をする権利であり、政治的単位はそのような意味で「「主権を持つ」単位なのである」(36)。
主権国家とはすなわち交戦権を行使できる政治的単位なのだが、この点において自由主義者と対立する。自由主義者は個人の自由を尊重し国家の価値を低くみるが、友と敵の区別はなくならない以上、国家という政治的単位はなくなることはない。
したがって国家の消失の先にある世界平和の可能性も存在しない。同様に人類という単位の政治的単位もあり得ない。そこには敵が存在しないからである。
>>本記事はこちらで紹介されています:哲学の最重要概念を一挙紹介!
関連項目
・他者(レヴィナス)
・間主観性
・動物論入門
・思弁的実在論
・第三者の審級
参考文献
カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩、原田武雄訳、未来社、1970年
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