ラカンの概念と概要
想像界、象徴界、現実界はフランスの精神分析家ラカンの概念である。ラカンはこの概念で、人間の生きる世界の在り方を論じようとした。
精神分析理論の基礎重要概念であるこの概念は、しかしながら、なかなかに理解しにくい。想像界はイメージの世界で、象徴界は言語が支配する場で、現実界は無秩序な世界である、と言われても煙に巻かれた気分になる。その瞬間は理解したつもりでもすぐに忘れてしまうのがお決まりのパターンである。
ここでは誤解を恐れず思い切って、想像界、象徴界、現実界に価値判断を導入してみよう。想像界、象徴界、現実界は順によい世界である、と。ラカンが「現代は人類の<想像的>絶頂をしめている」(p.46、トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク (シリーズ現代思想ガイドブック) 』)というとき、そこにはネガティブな印象が与えられている。逆に現実界については「ほとんどつねに、畏敬と崇拝の調子で語る」(p.45)のである。
想像界とは何か
想像界とは、狭い意味では「自我が胚胎し、生まれる過程を指していて」(p.44)、広い意味では「休むことなき自己の追及、自己は統一されているという物語を支えるために、次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動きのこと」(p.46)である。
まずは自我の胚胎の観点からみておこう。人間は生まれて間もないころは、身体のイメージがばらばらにあり、自分の動きを統合することができない。そこで幼児は自分自身のイメージを鏡のなかにみいだし、そのイメージに同一化することで自分を統合していくことになる。この過程は「鏡像段階」と呼ばれる。
この同一化のプロセスは、安定をもたらすとともに、それらの崩壊を同時に起こす。なぜなら感覚と同一化したイメージのあいだには、どうしようもない亀裂が走っているからだ。人間は初めから、自分自身とイメージの間で絶対的に引き裂かれている。
引き裂かれているとすると、他なるものとの同一化をはかり安定を得ようとするが、この過程はつねに同一化の失敗に帰結するため、永遠に続けるほかない。そこで先の広い意味での想像界の定義が意味をもってくる。幼児期だけでなく大人になっても、終わることのない他なるものとの同一化をつづけるのだ。このようにみるとラカンが想像界に冷淡であることもうなづける。現代とは「ひとびとが自分自身に、そして自分自身を見ることにとり憑かれた時代であり、人間の創造したものが世界中を覆っている」(46)のである。
象徴界とは何か
この三つの概念の中で、象徴界の範囲は最も広い。言語や法、社会構造などのすべてが象徴界に属している。こうしてみると象徴界は、「ふつういわれる「現実」の大部分を形成している」(46)。個人が他人とともに共同体の一員になるとき、その場とは象徴界のことなのである。
象徴界は、社会規範を含むものであり言語の世界である、と説明される。しかし「言語の世界」とは何を意味するのか。ラカンは言語学者ソシュールから「シニフィアン」「シニフィエ」という概念を借りてくる。シニフィアンは意味するもの、シニフィエは意味されるものであり、例えば、「イヌ」という表記や音がシニフィアンで、四足歩行でワンワンと吠える生き物がシニフィエである。
ソシュール曰く、言語は関係的で差異的なシステムである。男は女でないから男であり、いちごはりんごでないからいちごである。このような「Aではない」という言語の差異的な側面を、ラカンは重要視する。言語が差異的なシステムだとすると、それ自体で独立して閉じた世界を作り上げている。つまり、「シニフィアンのネットワーク全体を、さまざまな連鎖をたどって跡づけることができる以上、ひとつのことばを使うときには、暗に、他のあらゆる言葉を使っていることになる」(49)。言い換えると、「<象徴秩序>をまとめあげているのは、意味作用の連鎖、あるいは彼のことばでシニフィアンの法」(47)ということになるのだ。
ここで象徴秩序について、二つのことが暗示されている。一つは、象徴秩序が意味作用の連鎖で閉じているために、「あるがままの世界」は決して知ることができないということである。したがってラカンは、「われわれはある意味で、<象徴界>という監獄にとらわれていると述べている」(47)。もう一つは、象徴秩序は不変でもなければ必然でもない、ということである。「女」というシニフィアンひとつとっても、それが指し示すシニフィエは変化している。「男」に従属する存在というシニフィエから、「女である人間」を指すようになっているのだ。
現実界とは何か
象徴界は言語の世界であり、人間の世界とは言語を媒介する世界であった。だが、言語であらわすことのできない、言語以前の生の領域が確かにある。それが、現実界だ。
木を見たとしよう。この木について人は、幹は茶色で緑の葉っぱを付けていて10m以上の高さがある、と説明したとする。しかし言葉にする以前に、木それ自体に遭遇していたはずである。そして木と地面と空といった区別が存在しない状態、これこそが現実界である。ほかにも、圧倒されるような美しい景色や、突然遭遇した事件の、言語化される以前のものが現実界であり、そのとき人は現実界に遭遇しているといえる。
人は現実界を説明できないのに、なぜ現実界は重要なのだろうか。それは、現実界と象徴界が密接に関わっているからに他ならない。そしてポイントは双方向的に関係をもっているのである。
ラカン曰く、「<象徴界>は<現実界>に穴を穿ち、さまざまに違ったかたちに彫り上げる」(51)。「実際、<現実界>を認識する方法のひとつは、なにかが<象徴化>の作用を受けない時に、それと気づくことである」(52)。例えばコロナを考えてみよう。コロナは中国で発生したとか、人口を減らすための策略だとか、収束することはないとか、さまざまな説が飛び交うが、その象徴化とは関係なしに、コロナは広がり続けている。つまりコロナには象徴化しきれない部分があるということであり、コロナは現実界の乱入と見ることができる。
逆からみると、象徴界以前に現実界がある。現実界を象徴化することで意味を持つという観点に立つと、現実界は象徴界に先立つ。だが、象徴界が完成したあとの残りのものが現実界だとみるならば、現実界は象徴界のあとにくる。これは矛盾である。しかしだからこそ、ラカンの解説者として有名な思想家ジジェクは現実界を評価する(ジジェクの否定性の概念をおおまかに掴みたい方はこちら:「クリームなしコーヒー」と「ミルクなしコーヒー」からみるジジェクの思想)。現実界は矛盾がそのままにある場所なのだ。このようにみると、想像界は矛盾が和解した場、象徴界は差異によって、「AではないB」によって定義づけられる場であるともいえるのである。
小文字の他者、大文字の他者とは何か
最後に超簡単にラカンの小文字の他者、大文字の他者について触れておこう。小文字の他者は小さな他者、大文字の他者は大<他者>ともいう。
「小文字」と「大文字」の違いは、「他者」がどこに属しているかを表している。小文字の他者とは「想像的な」他者であり、「われわれ自身のなかの、もっと正確にいえば、われわれの自我の中の他性である」(47)。一方、大文字の他者は象徴界に属する。簡単な例でいうと、法や警察官は象徴秩序であるので大文字の他者といえる。
>本記事はこちらで紹介されている:哲学の最重要概念を一挙紹介!
関連項目
参考文献
トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク(シリーズ現代思想ガイドブック)』村山敏勝訳、青土社、2005年
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