『声と現象』における時間論について

『声と現象』における時間論について

デリダ時間論の概要

 山形(1984)は『声と現象』第五章をうけてデリダの時間論を批判している。今回は山形によるデリダ批判の正当性を検証し、それを通じてデリダの時間論の明確化を図りたい。まず始めにデリダの時間論の概要を示す。

 デリダは、フッサールの『講義』(=『内的時間意識の現象学』(要解))を取り上げ、フッサールの時間論の問題点を指摘する。ではデリダの記述の流れに沿って順に確認していこう。 

 デリダはまず、『講義』において現在は同一性を保つ点性であり、「源-点」として機能しているということを指摘する。「『〈今-の-統握〉は、過去把持という彗星の尾にたいする核のようなものであり』〔第一一節〕、『今現前しているのは、そのたびに一つの点的な位相だけであって、他の位相は、過去把持の尾としてそこにへばりついているのである』〔第一六節〕」(『声と現象』138頁。デリダが『講義』より引用)。しかし同書でフッサールが、現在を「非-今と連続的に交流している」(143頁。デリダが『講義』より引用)ものとしても記述している。デリダはこの連続性に注目し、「今と非-今の、知覚と非-知覚のそうした連続性を認める以上、Augenblick〔瞬間〕の自己同一性の中に他者を、つまり瞬間の瞬きの中に非-現前性と非-明証性を迎い入れることになる」(144頁)と洞察する。

 そこで問題となるのが、『講義』において主張される一次想起(=過去把持)と二次想起のあいだの差異である。フッサールはこの差異を、「知覚と非-知覚のあいだの差異」とするのに対して、デリダはこれを「非-知覚の二つの変様のあいだの差異なのである」とし、そこに根底的な差異を認めない(鉤括弧内は共に144頁より引用)。デリダの目から見ると過去把持は非-現前性との関わり方の一つに過ぎないのである。このように過去把持を捉えなおしたことによって、フッサールが説く現在の点性、同一性は崩壊する。

 以上の議論に続けて、第六章では発生の最も根源的な位相、「時間化の出発点」について論じられている。ここで主題となっているのは、根源的発生によって生み出された「生き生きとした今」が「新たな根源的顕在性」において「非-今」として把持されるというプロセスである。デリダはこのプロセスについて以下のように述べる。「そのようなプロセスは、まさしく純粋な自己-触発であって、その自己-触発において、同じものは、他のものによって自己を触発し、同じものの他のものになることによってしか、同じものではないのである。その自己-触発は、純粋なものであるに違いない。原印象は、そこでは自分自身以外の何ものによっても、つまり別の今である別の原印象の絶対的な『新しさ』以外の何ものによっても触発されないのだから」(185頁)。デリダは時間化の出発点をこのような「純粋な自己-触発」の「運動」として捉える。デリダにおいて時間化の根元は純粋な差異とそれによる自己-触発の「運動」、つまり差延デイフエランスなのである。

 以上が『声と現象』における時間論の概説である。ここまで見てきたように、デリダは時間を差延に基づいて考えていた。そのようなデリダの特徴的な点は、時間の根底に 「他」を認め、その事実に依拠しながら時間を論じているという点である。しかし、これは一見するとフッサールの時間論と大きな違いがないように思える。フッサールは現前から、デリダは根源的な他から時間を考えた。デリダは、現前性を特権化しそれに基づいて展開された哲学を「現前の形而上学」と呼ぶ。もし、デリダが「他」に特別な地位を与え、そこから時間を解き明かそうとしたとするならば、それは結局「形而上学」の枠内に留まるのではないだろうか。山形のデリダ批判にはまさにこれと同じような観点を見出すことができる。デリダの議論はフッサールのそれと同じく形而上学に過ぎないのか。山形のデリダ批判を検討する中で、その問題の答えに近づくことができるだろう。

山形のデリダ批判

 山形のデリダ批判を検討するにあたってまず彼の主張の概要を示す必要がある。まず山形によるデリダ批判の全体像を簡単に示し、次にその正当性を検証する。

 山形の主な主張は以下の二つである。一つは、フッサールの「根源的意識」は「瞬間である現在における自己への現前」ではなく(「ディフェランスもしくはしたいなき殺人―フッサールのために―」231頁)、それは「志向性とは関係がない」(234頁)という主張である。山形によると、「最初の位相」が現在を構成するものである以上それを現在として捉えることはできない。そのためフッサールの根源的意識はもはや意識の自発性や時間の構成とは関係を持たず、それは構成された時間を越えているのである。そしてもう一つの主張は、デリダの差延の思想が、「意識の自発性による『産出』Erzeugungの秩序に属する」というものである(234頁)。山形の見解ではデリダの思想は「意識によって構成された時間」という枠組みにとらわれ、時間を根源的に捉えることに失敗しているのである。本報告では二つ目の要点、つまりデリダが「構成された時間」の枠組みにとらわれているという山形の主張を中心に検討していく。

 山形によるデリダ批判の核となっているのはフッサールの時間論における「流れの最初の位相」をどのように理解するかということである。フッサールは以下のように述べる。「過去把持的位相が先行する位相を、対象化することなしに意識化しているように、根源的与件もすでに、対象化されることなく―しかも『今』の固有の形式において―意識されている」(231-232頁で山形がイデーンより引用)。ここでフッサールは、根源的所与の与えられ方を過去把持的時間系列が与えられる仕方と類比的に記述している。この記述について山形は、フッサールが晩年にこの思想を乗り越えていたと主張する。つまり、晩年のフッサールにおいて、「流れの最初の位相」は非主題的に意識されるような「現在」ではないのである(231頁)。しかし、山形はデリダが「最初の位相」をまさにこの点で誤解したと主張する。つまり、デリダがそれを「過去把持の系列として諸位相が過去であるのと同じ仕方において、現在である」と理解しているというのである(231頁)。これはどういうことであろうか。以下、山形の記述を引用し、彼によるデリダ批判を検討する。

過去把持の縦の志向性によってすでに「流れ去った」位相が形成させる時、少なくとも二つの過去把持があって、そのうちの先行するものが後続するものを現れさせる、あるいは、こう表現してよければ、非定立的に意識するという仕組みになっている。したがって、もし根源的印象が縦の志向性と同じ性質のものが備わっていて、それが「最初の位相」を構成しているとしたら、少なくとも二つの「最初の位相」がなければならない。

根源的印象ないしは「最初の位相」が二つあると考えるから奇妙なことになるのであって、ひとつのものが二つに分かれていて、一方が他方を、いいかえると、後続する部分が先行する部分を「今」において形成しているのである。結局この考え方がデリダのいう持続する瞬間としての現在であり、現前は非-現前を自己の成立要件とするというディフェランスとしての存在規程であろう。

232頁

 以上から分かるように、山形はデリダのディフェランスの思想を「『流れの最初の位相』を二つに分けて、一方が他方を構成するという考え方」としている(223頁)。山形はこのことをデリダの自己-触発の議論から見出す。(上で既に引用したが)それは、原印象が「別の今である別の原印象の絶対的な『新しさ』以外の何ものによっても触発されない」という議論である。たしかにこの二つの記述は類似している。しかし、この山形のデリダ解釈にはおおきな問題があるのである。

山形のデリダ解釈の問題点

 山形の解釈における問題点はデリダの自己-触発を時間の構成の問題として誤解したことにある。その結果、過去把持と類比的に「最初の位相」の構成を論じたフッサールの記述と、デリダの自己-触発に関する記述を誤った対応関係で結んでしまっているのである。では、絡まった二つの記述を解きほぐしていこう。

 第一に山形は、「自己-触発」における「他なるもの」と、フッサールにおいて「非定立的」に意識されている「根源的所与」を不当にも同一視している。しかしそれらは根本的に別のものなのである。デリダの自己-触発における「他なるもの」とは、今を非-今とするような「新しさ」をもった「別の原印象」のことである。そしてその「別の原印象」もまた、発生の瞬間からすでに時間化、対象化され、「他なるもの」となるのである。「他なるもの」は自己-触発の「運動」のなかにあって立ち止まることはない「絶対的な『新しさ』」をもつものであった。そのため、自己-触発における「他なるもの」を意識によって構成されたものとすることはできないし、構成の源-点という特権的な定点として扱うこともできない。他方で、山形は上記のフッサールによる記述を「最初の位相」の構成についての議論として引用している。その議論においてフッサールは「根源的所与」が「対象化されることなく意識されている」ことを、「流れ去った位相」が過去把持的意識において構成されることと類比的に考察している。つまりフッサールにおける「根源的所与」とはあくまでも構成されたものなのである。「根源的所与」はここでは、それ自身によって構成されるような構成の源-点である。このように、デリダの「他なるもの」とフッサールの「根源的所与」はそれぞれ全く別のものと理解すべきであろう。

 さらにまた、上記のように山形はデリダの自己-触発の思想を「『流れの最初の位相』を二つに分けて、一方が他方を構成するという考え方」(強調筆者)とするが、ここでは「今」とそれを触発する「別の今」はまるで意図的に分割されたものかのように記述されている。山形はデリダが時間化の根源に見出す「純粋な差異」を構成されたものとしているのである。しかし、このような理解はデリダにはそぐわない。デリダは「構成する主観性などというものはない」と明言している (『声と現象』196頁)。このような齟齬からも、デリダの「自己-触発」をフッサールの「構成」に結びつけることの強引さが理解できるであろう。

 以上のように山形はデリダの思想を構成の秩序に基づいて考えていた。ではなぜ山形はデリダの思想をこのように誤解しなければならなかったのだろうか。その理由は、山形がある問題意識のなかでデリダの思想を解釈していたことにある。山形は次のように述べる。

 もし絶対的始まりというものあるとすれば、それは自分で自分を在らしめるのでなければならない。自己現出するのでなければならない。自分で自分に直接現前するものでなければならない。だから(フッサールの現象学が)現前の形而上学であるという論理が、ディフェランスの側から展開される。だから、絶対的始まりの存在が自分で自分を現出させる能力すなわち産出でなければならないという前提は、果たして正しいのだろうか。根源的印象の根源的意識は、まさにそのことを否定している。(括弧内は筆者による補足)

「ディフェランスもしくはしたいなき殺人―フッサールのために―」234頁

 これまで見てきたように、山形の理解において、デリダは「絶対的始まり」を過去把持の秩序、つまり「産出」の秩序のなかで捉えていた。上記の引用の中で山形が提示している疑念は、「絶対的始まり」に対するデリダの理解が正しいのかというものである。そして、山形の議論を動機づけていたのはまさにこの疑念なのではないだろうか。つまり、彼によるデリダ批判は、デリダが「絶対的はじまり」を解明しようとしているという「前提」を持っているのである。しかし、このような読解はデリダに相応しくないのではないだろうか。

 たしかに、デリダの時間論が「絶対的はじまり」の解明のためになされたものとするならば、それは否定されるべきものなのかもしれない。そのように想定するならば、構成以前のものを構成されたとして解明するという誤りをデリダが犯していることになるからである。しかし、このような観点から行われた山形の批判は焦点のずれたものである言わざるを得ない。なぜなら、デリダの問題意識が「絶対的はじまり」の解明にあるとは言い難いからである。デリダの問題意識は別のところにあるのである。

 デリダはたしかに、現前性に対して差異のほうがより根源的であると繰り返し主張する。しかし、これはなにがより根源的かという問いに対する答えではないのである。デリダは『声と現象』の終局にあたって以下のように述べている。

だから、単純な現前化が逸脱=派生して、「代補」「記号」「エクリチュール」「痕跡」としてつねに現前してきたものが、必然的に非-歴史的な意味で、現前性よりも、また真理の体系よりも「古い」もので「ある」のかどうか、「歴史」よりも「古い」もので「ある」のかどうか、われわれはもはや知らない。(中略)そして、われわれが力とか差延とかいった古い名で呼ぶものが、「根源的なもの」よりも「古くからのもの」であるのかないのか、われわれはもはや知らない。

『声と現象』231-232頁

 デリダこの引用箇所で、(中略した部分も含めると)じつに4回も「知らない」という言葉を用いている。このような記述を踏まえて考えるならば、デリダの念頭に置かれているのは、根源への問いの不可能性だと解釈するべきではないだろうか。デリダはこうした「年齢」を思考するためには「逸脱=漂流」の経験を「前-根源的なもの」として思考しなければならないという(231-232頁)。デリダはその問いに答えているのではなく、問いそのものを脱構築しようとしているのである。

デリダの哲学 –– 根源を問い求めないこと

 以上でみてきたように、山形のデリダ批判は大きな問題を抱えている。その問題とはデリダの思想を「絶対的なはじまり」の解明というきわめて形而上学的な問題設定のなかで批判しようとしたことであった。

 これまでの議論を踏まえて、冒頭に想定した批判に対する一定の答えを提示することができる。その批判とは、デリダの思想も結局は形而上学にすぎないというものであった。ここで我々はこのような批判は基本的には当たらないというべきであろう。たしかに、デリダはフッサールの記述に同行するかたちで時間の根源という形而上学的な問題に取り組んでいる。そのため、山形の批判に理由がないわけではない。しかし、山形のように、「根源を問い求める」という思考の枠組みの中でデリダを理解しようとするならば、デリダの思想の真意をつかむことはできないのである。デリダの時間論は、時間の根底にあるのは差延であるというものであった。デリダのこのような主張を、山形は新たな根源の提唱として理解していたが、それは適切でない。根源的な差延をとくことで、デリダは「知の考古学」を支配している「根源への遡行」という問題意識を脱構築するのである。根源を問い求めるという態度を緩めること。これがデリダを理解するために求められる「思考」なのではないだろうか。

参考文献

ジャック・デリダ著、林好雄訳『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年。

林好雄、廣瀬造司共著『知の教科書 デリダ』講談社、2003年。

山形頼洋「ディフェランスもしくはしたいなき殺人―フッサールのために―」『理想』第615号、1984年。

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