現象学的還元とは何か|意味をわかりやすく徹底解説|フッサール『イデーンI』

現象学的還元とは何か|意味をわかりやすく徹底解説|フッサール『イデーンI』

意味

 フッサールの哲学の方法的概念。フッサールの『イデーン I』という著作では「自然的態度の一般定立の徹底的変更」と定義づけられる。これを簡単に言い換えると、「素朴な信念の一旦停止」であり、これは現象学的なエポケーの定義と全く同じである。さしあたり、エポケーと意味合いはほとんど同じだと考えてよい。つまり、現象学的還元とは、「素朴な信念の一旦停止」のことだ。

 私たちは普段、木とか人間とかがそこに実在しており、空間というのは幾何学的に計算可能な空間であり、時間は1日24時間で言い表されるような時計時間だと普通は考えている。そういった素朴な信念を一旦ストップさせてみようと、というのがエポケーであった。還元もこれとほぼ同じ意味である。

エポケーと現象学的還元のちょっとした違い

 少しの違いはそこに方向的な含意が含まれているかいないかである。理科で使われる「還元」は、酸化物を酸化前の状態に戻すという意味だったのを覚えているだろうか。あるいはお客様還元セールのときの「還元」は、お客様に感謝の気持ちをお返しするという意味である。

 このように還元という言葉には一方から他方への移動という方向的な意味合いがある。だから現象学的還元とは「現象学的領野への還元」という意味だ。エポケーはもともとギリシア語だが、そのときから停止や中止という意味であり、方向的な意味合いはない。非現象学的なものをストップするのがエポケー、ストップしたあと現象学的領野へ移行しようよというのが還元、と字義的にはそのような意味の違いがある。

定義と用語解説

 フッサールの定義によれば、現象学的還元とは「自然的態度の一般定立の徹底的変更」のことである。そして還元には還元が向かう先があり、それが現象学的領野なのだが、それをフッサールは「超越論的意識」の領野と呼んだりする。この現象学用語はややもすると混乱を招きかねない。それぞれどういう意味なのか、ここで知っておこう。

自然的態度

 これは普段素朴に嵌まり込んでいる態度のことである。「あいつは態度が悪い」とかいうときの「態度」の意味ではないことに注意しなければならい。態度というより「見方」や「傾向性」の方が意味的には近いかもしれない。「エポケーとは何か」でも説明したが、私たちは根本的な次元で何かを信じている。例えば物の実在である。普段はそういうことを疑ったりはしないだろう。このように疑ったりもせず、素朴に何かを信じている普段の状態のことを自然的態度という。

一般定立

 簡単にいうと「信じる力」のことである。物の実在を信じていると先ほど述べたが、ということは物は私から何らかの影響を受けて実在しているということになる。その最も基礎的なものが一般定立である。この定立のことを現象学では「構成」とか「意味付与」、「作用」と呼んだりする。

徹底的変更

 「徹底的変更」は、著作の中では「カッコ入れ」などと言われる。そのときカッコ入れは、消滅してしまうわけではないですよ、という意味合いで使用されている。カッコに入れることで、カッコに入れられた一般定立はむしろ保持される。保持されることで、一般定立そのものを分析することが可能になる。同じような意味で「遮断」「判断中止」「エポケー」などの言葉も使用される。

超越論的意識

 「超越論的意識」とか「純粋意識」とか言われる。素朴なものをカッコに入れたことで、真に分析すべき領野が露わとなる。それが「超越論的意識」だ。なぜ超越論的意識なのかというと、そこで露わとなった意識はあらゆる対象の構成にかかわっており、この意識の中であらゆる意味が生じてくるからである。

読解

複数形の現象学的還元について(『イデーン I』第三三節)

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 「現象学的還元」を現象学の方法の中心に据えて大きく展開させたのが『イデーン I』(1913)という著作である。『イデーン I』の第二篇第四章の題が「現象学的還元」であり、これがいかにフッサール現象学にとって重要な概念だったかが分かる。その前の第二章三三節ですでに「現象学的還元」ついて語られているのだが、そこでなんと言われているのかを見てみようと思う。

なお、我々の用語について以下のことを付け加えておきたい。これから頻繁に語られることになる「純粋」意識を超越論的意識として規定し、同様にそのような意識が獲得される操作を超越論的エポケーとして規定するとしても、認識論的な問題設定における重要な動機はそれを正当であると認めることになる。そして、このような操作が、方法的に「遮断」「カッコ入れ」などの諸々のステップに分解され、我々の方法が一歩一歩進んでいく還元の性質を帯びることになるだろう。そのことゆえにわれわれはむしろ好んで、もろもろの現象学的な還元という複数形の言い方を(もしくは還元が全体的に統一しているという点を考慮に入れて、単数形の現象学的還元という言い方を)使うであろう。また認識論的な視座においては、もろもろの超越論的還元という複数形の言い方を使うであろう。

Hua. III/1, 69.

 のっけから難しい「これから頻繁に・・・」の文章であるが、要するに認識論という枠組み(歴史)の観点から照らしても、自分が純粋意識を超越論的なものとし、それを獲得する操作も超越論的なものとするのは間違いではないということだと思われる。認識論はそのような超越論的なものに向かう傾向があったということだろう(1)超越論的ということが大事だ。

 そして「このような操作が・・・」以下の文であるが、要するに超越論的なものに到達するにはさまざまな段階(ステップ)を踏まなければならない。そんでそのステップ全体を還元と呼びたいのだが、いくつかのステップを踏んでますよという意味で複数形で使いたいと言いたいようなのだ(2)。そうするとエポケーと還元って一応意味の区別をしているのかね、という考えが湧いてくる。この文章だけ読むと、現象学的還元とは超越論的意識へと向かうその操作の総体であり、そのうちの「遮断」とか「カッコ入れ」とかの操作がエポケーということを意味している、というふうに読みたくなる。ということは・・・現象学的還元を理解するためには諸々の操作(エポケーとか)を理解しなければならないということになるだろう。

 確かにフッサールは、還元の種類として主に二つの還元を指摘している。超越論的還元と形相的還元である。超越論的還元は超越論的主観性へと遡及するような還元であり、形相的還元は本質だけを残すような還元である。通俗的にはこの二つを合わせて現象学的還元であるとも言われており、複数形の現象学的還元はそのことが念頭に置かれていたのかもしれない。

定式:超越論的還元+形相的還元=現象学的還元

何が還元され、何が残るのか(『イデーン I』第四章「現象学的還元」)

 今度は『イデーン I』の第4章をみてみよう。この章の章題は「現象学的還元」であり、現象学は一体何を還元すべきで、何を還元すべきでないのかついて語られている。なんといっても還元によって全てが消えるわけではなく超越論的意識が残るので、何が還元されないで残るのかについても詳しく分析してみようという魂胆なわけである。

 この章は第56節から第61節までありそれぞれの節でテーマを決めてそれが還元されるべきなのかについて語っている。順に見ていくと第56節が「自然科学と精神科学」、続いて「純粋自我」「神」「形相的なもの。純粋論理学」「質料形相的学科」について語られている。このうち「純粋論理学」「質料形相的学科」の説明が最も面白いことを言っているのだが、他のも見ながら簡単に説明していこう。

 まず「自然科学と精神科学」についてであるが、これらの学問は自然的態度を前提としているのでもちろん還元される。「すべての自然科学および精神科学は、・・・我々の判断領圏からは遮断される」(第56節)。続いて「純粋自我」であるが、さすがに還元しても何か自我的なものは残り続けるように思われるかもしれない。というのもあらゆる思考に、カントがいったように、「私は思考する」ということが伴い続けるからだ。しかしだからといって現象学的記述の対象になるかというと微妙である。というのも「純粋自我の方は、・・・いかなる意味においても諸体験そのものの実的部分ないし契機とは見なされえないからである」(第57節)。それゆえ純粋自我に関して還元されないものが何がしか残るにしても記述の対象にはならないのである。実際『イデーン I』では純粋自我に関する記述はなされていない(後年になってこの意見は変更される)。次に「神」だ。もちろんこういった「「絶対者」「超越者」に対しては、現象学的還元を及ぼす」(第58節)。純粋意識(超越論的主観性)が問題であって、神はそこでは問題とならない。

 さて、次が「形相的なもの。純粋論理学」の節である。今まであらゆるものを還元してきたが、ここでは「形相的なものの無制限な遮断は可能かどうか」と問うている。現象学が学問である以上、形式論理学などは遮断することができないように思えるが、「ある種の前提のもとでは」それらをカッコに入れるという可能性が生じてくる。どのような前提かというと、研究の方法が純粋な直観に依拠する記述的分析だという前提である。そうならば形式論理学などの前提はいらなくなる。

 そこでフッサールはこう言うことになるのだ。

 現象学が時に援用する機会を見出すでもあろうような論理的命題は、したがって、矛盾律のような、全く論理的なにかぎられるだろう。しかもそうした公理の普遍的かつ絶対的な妥当を、現象学は、おのれ自身のもろもろの所与に即して例示しながら、明白に洞察しうるようにさせるはずであろう。

『イデーン I』第59節

 ここにはフッサール現象学の特色が端的に現れている。つまりフッサールがここで何を言っているのかというと、なるほど現象学は論理的命題に従うのではなくまずもって純粋な直観に即して考えらるべき学問なのであるが、そのようにして純粋な直観に照らし合わせた結果、矛盾律のような論理的な公理はその正当性を導き出せるといっているのである。つまりもっと簡単に言うと、現象学的な直観はそれ自体論理的なのである。しかしそれは形式論理学が正しいことによって直観が導き出せるということではなく、直観の明証性によって、形式論理学的公理が妥当だと導き出せると言うことなのである。一言で言うと、現象学的なものは論理学的なものである、ということがいえる。いいかえれば、これは現象学的なものと論理学的なものはトートロジーを起こしていると言うことである。つまり、この文章に即して言うと、現象学的直観は矛盾律に従っているし、矛盾律は現象学的直観に従っている。ここにフッサールの論理主義が見出されるのである。現象学は結果的に形式論理学を還元できないのである。

 最後の「質料形相的学科」については「あるひとつの質料形相的な領域は特別扱いしなければならない」(第60節)という。なぜならその領域が現象学的な意識の領域だからである。そうすることで「現象学そのものを、として」基礎付けることになる。これが何を意味するかといえば、現象学的なものは形相的であるということである。

 結論としてこういえるわけだ。フッサールの現象学は論理形相的な制度ものを前提に置いていると。しかし果たして現象学的なもの(意識)は論理的であり、形相的なのだろうか。こういったことが後の現象学者に問われることになるのである。

発展史

メルロ=ポンティにおける現象学的還元

 メルロ=ポンティはフッサールの現象学的還元をもっと掘り下げる。そしてフッサールが間主観性だとか身体の問題について語っていたことを精査するのである。するとよくわかってくるのは、我々は世界と根源的に結びついているということである。世界を前にして驚きを感じるのはなぜなのか、世界内で生きているとはどういうことなのか。突き詰めると、これこそ現象学によって突き止めなければならない課題なのである。

 そういうわけで現象学的還元はメルロ=ポンティにとって逆説的な意味合いを帯びている。フッサールは現象学的還元によって超越論的主観性の領野に降り立つと語った。つまり、世界との関係をいったん断ち切るということである。しかしながら断ち切ったと思うまさにその瞬間に世界が浮かび上がっている。つまりは完全に手を切ることはできないのである。そういうわけで、メルロ=ポンティは有名な格言を残すことになる。

還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということである。

『知覚の現象学』13頁

 それまで考えられてきたこととは反対に、現象学的還元は観念論哲学の定式なのではなく、実存的な世界内存在の定式なのである(解説はこちら:『知覚の現象学』入門ー初学者のために)。


(1)「動機」がなかなか難しい訳語である。他に良い訳語がないものか。

(2)実際は複数形だけでなく単数形の還元も使いまくっている。ただし第4章の題名である「現象学的還元」は複数形だ!

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関連項目

参考文献

E. Husserl, Husserliana III/1. Ideen I : Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, Martinus NIjhoff, Haag, 1976.

エトムント・フッサール『イデーン I-I』渡辺二郎訳、みすず書房、1979年。

モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』竹内・小木訳、みすず書房、1967年。

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