志向性とは何か|意味をわかりやすく解説|フッサール

志向性とは何か|意味をわかりやすく解説|フッサール

志向性の意味

 現象学ではフッサールの概念。フッサールは、意識の本質は「意識とは何かについての意識である」であることと定義し、それを志向性〈Intentionalität〉という言葉で表した。

 例えば、リンゴを見ているときは、リンゴについての意識があり、机に触っているときは、机についての意識がある。このとき「机」や「リンゴ」が「何か」に該当するわけである。自分自身について反省しているときはどうだろう。そのとき「何か」の部分に「自分自身」が入ることになる。いつでも「何か」があるので、私たちの意識は常に志向的なのである。常にそうなので意識の本質にもなるわけである。

 現象学的還元を施したあとは実在がエポケーされるので、すべてのものが志向的意識の内部にあることになる。「何か」の部分は意識の外部に見えて、実は意識の内部だったのである。それによって、ようやく意識内部の構造(ヒュレー・ノエシス・ノエマといった諸構造)を分析することが可能となる。

歴史

フッサール志向性概念の起源:ブレンターノ

 志向性という概念の歴史は古い。すでに中世では、哲学的概念として使われている。スコラ哲学でのintentio(ラテン語)という概念がそうである。11世紀頃までは、ほとんどもっぱら〈行為の意図や目的〉を、すなわち実践的な〈意志の働き〉を意味していた。英語で intention と聞いたら、まずは〈意図〉とか〈意志〉という意味を思い浮かべるはずだ。

 12世紀になるとアラビア哲学がラテン語に翻訳される。そのときアラビア語の mana という概念がラテン語のintentio に翻訳された。mana そのものには語義や観念という意味があり、それがラテン語に翻訳されて以来、intentio に、認識作用とその形成物という意味合いが加えられることになった。その流れで後期のスコラ哲学では、志向的存在が「知性の作用に由来する主観的な存在」とみなされる解釈が優勢となった。

 フッサールの師匠であるブレンターノは哲学者であったが、神学を学んだ神父でもあり、中世スコラ哲学(そしてアリストテレス哲学)に通じていた。そういうわけでスコラ哲学における志向性概念を知っていたのである。ブレンターノはその志向性概念、中世スコラ哲学では志向的内在と呼ばれていたものを心的現象と呼んで、心理学の基礎概念へと作り替える。

どの心的現象も、すべて同じ仕方というわけではないが、何かを客観としてそれ自身のうちに含んでいる。表象においては何かが表象され、判断においては何かが承認または否認され、愛においては愛され、憎しみにおいては憎まれ、欲求においては欲求されているのである。このような志向的内在は心的現象に固有の特性であって、物的現象はこのような特性を示さない。それゆえわれわれは、心的現象とは志向的に対象をそれ自身のうちに含む現象である、と定義することができる。

ブレンターノ『経験的立場からの心理学』第二部第一章第五節

 フッサールの志向性とブレンターノの心的現象という概念はほとんど意味が同じである。しかし、フッサールは心的現象というブレンターノ由来の言葉を徐々に使わなくなる。というのも、ブレンターノの心理学ではまだ十分な哲学的基礎づけができないと考えたからだ。そこでフッサールは心理学用語を排し、ブレンターノの心理学を洗練させながら新たな哲学を打ち立てることになる。

フッサールのブレンターノ批判

 ブレンターノの心的現象(志向的内在)とフッサールの志向性はかなりの程度重なり合う。しかしそのような言い方は踏襲しない。ブレンターノの物的現象と心的現象という区別は、あたかも物と心を切り離すことができるかのような誤解を生む可能性がある。そういうわけで、フッサールは心的という言葉を踏襲せず「志向的」という言葉を使う。

 ブレンターノの心理学とは異なり、フッサールの心理学は超越論的心理学、すなわち超越論的現象学である。つまり、すべては志向的体験の内部に属するということである。なるほど、心的現象はフッサールの志向性と重なり合うが、しかし物的現象という概念も存在し、ブレンターノは志向的内在化の徹底を図らなかった。そもそも全てが志向性の内部に存在するので、それの外部(物的現象)があるかのような概念は必要ないのである。全てがその内部に収まるような概念は超越論的である。それゆえ、フッサールは自らの哲学を心理学ではないですよという意味で、現象学と、すなわち超越論的現象学と呼ぶことになったのである。

著作読解

『イデーンI』から読み解く志向性概念

 今度はフッサールの主著『イデーンI』から詳しく志向性の意味を調べてみよう。『イデーンI』には第84節「現象学の主要論題としての志向性」という格好の題材があるので、そこをみてみることにしよう。ここでフッサールはかなり重要なことを指摘している。

 フッサールは志向性というのは「あるものについての意識」のことだ、ということを明確にしたあと次のように述べている。

しかし、かつて現象学的反省の教えたところによれば、このように表象したり思考したり評価したり……する自我の配意、すなわち、このように相関対象にかかわるという働き、相関対象の方に立ち向かっているというあり方(・・・省略・・・)は、必ずしもすべての体験のうちに見出されるものではないということ、しかし一方でそれでいて、どんな体験もみなやはり、志向性をそのうちに内蔵しうるものであるということ、これらのことが分かった。

『イデーンI-II』渡辺訳、86−87頁。

 もっと短く簡単にまとめると、ある体験では顕在的な対象が浮かんでこない場合があるが、それでもその体験は志向的である、ということである。顕在的な対象、というのが重要で、ここでははっきりと目の前に浮かんでいる対象のことを指す。例えば、目の前にコップがあってそのコップを見ているとしたら、そのコップは顕在的な対象である。しかし顕在的な対象ではない体験というものがある。例えば、コップのすぐ横に置いてあるポットに目を向けるとコップは顕在的な対象ではなくなる。ほかにもボーとしているときには、その体験の中に顕在的な対象は存在しない。このように顕在的でない体験というものがいくつもあるが、それでもそれを志向性のうちに数え入れるのである。

対象的な背景というものがあるとすると、その中から、コギト的に知覚される対象というものが浮かび上がってくるのは、その対象に自我の配意が向けられて際立たせられるからにほかならないが、実を言えば、そうした対象的背景も、体験的には、すでに一つの背景・すなわち暗々裡に対象として意識されている背景なのである。

同書、87頁

 つまり、全然意識してないように見えても、背景にしたって実は意識しているし体験しているということなのである。自分は体験しているな、と実感できるものだけが志向的なのではない。もしそうだとしたら、自分の背後の世界は体験されていないことになり、バークリー流の観念論と何ら変わらないことになってしまうだろう。その意味で、背景も対象的ともいうことができる、つまり顕在的とは別の次元で意識されているのである。

 このように見てみると様々な層の志向性が存在することになるだろう。というのも全ての対象がなにがしかの志向性を帯びているからである。区分はその志向性のあり方に沿って分類されることになる。それではどのような志向性が存在するのだろうか。

様々な志向性

地平志向性

 前章でも説明した背景的な志向的意識のこと。例えばリンゴを注視していれば、りんごについての意識が顕在的に浮かび上がっている状態だろう。しかし白地の背景にリンゴがポツンと浮かび上がっているわけではない。顕在的なものの背後には必ず背景がある。スーパーでリンゴを眺めているとき、その後ろには他の果物であったり、チラシであったり、壁があったりするだろう。外で木を眺めていたら、背景には他の木々があり、雲があり、空がある。志向性は、実はそこで注視されていないものにも潜在的に向かっている。だからこそ、そちらに目を向けることによって、今まで注視されていたものが背景に退き、背景にあったものが顕在的に浮かび上がってくる。その背景も志向的なのだ。このように顕在的なものの背後に広がっている志向性を地平志向性という。

受動的志向性

 感覚予件(すなわちヒュレー)の層に対する志向性である。受動的と反対の能動的というのは、ノエシス/ノエマの対象を構成する層のことである。この層を支えるものとして受動的な層が存在する。フッサールが強調したのは、それも志向的であるということ、つまり能動的な層の支えとして必然的に能動性に活かされるということだ。

能動的な形成の際にあらかじめ与えられているすべての対象の構成にとって、受動的発生の原理は普遍的であり、その原理は、連合〔Assoziation〕と呼ばれている。ここで強調しておきたいのは、それが志向性を表す表題だということである。

フッサール『デカルト的省察』浜渦訳、岩波文庫、146頁。

 連合とは、その受動的な層において、類似したものが類似したものによって触発されたり、類似していないもの同士が対比されたりする原理である。これは能動的な意識の中で生じているのではなく、いつもそれ以前に暗黙のうちに勝手に行われている。これがいつでも意識を構造化させることによって、意識の超基礎的な大枠が(志向的に)成立するのである。

 他にも、身体志向性、時間志向性などが挙げられる。細かいのもあげればキリがない。志向性は網のようなものであって全てが複雑に絡み合っている。一度フッサールの著作で探究してみるのも良いかもしれない。

関連項目

間主観性
生活世界
方法的懐疑
アンチノミー
無意識

参考文献

エトムント・フッサール『イデーンI-II』渡辺二郎訳、みすず書房、1986年。

木田・野家・村田・鷲田編『現象学事典』弘文堂、1994年。

谷徹『意識の自然』勁草書房、1998年。

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