根本中頌に原本はあるのか – 龍樹

根本中頌に原本はあるのか – 龍樹

はじめに

 古典と呼ばれる作品には、原本が存在しなかったり確定しなかったりするものがほとんどだ。古典中の古典と呼ばれる聖書もそうである。歴史が古すぎるのもあって、聖書の場合は混沌としている。一番古いのが旧約聖書だ。そもそもなぜ混沌としているかというと、まずもって著者というものが存在していないことが挙げられる。神話や伝承をその頃のラビたちが編纂したものなので著者はいない。そして大量に多くの人が編纂したので写本がたくさんある。すると大量の写本があるなかで正統な写本を決めなければならなくなる。旧約聖書の場合は1008年に校訂されたいわゆるレニングラード写本というものであって、これが聖典とみなされている。

 しかしこの聖典の決め方も混沌とした状況に巻き込まれている。レニングラード写本の原本であるヘブライ語聖典はに正統とされた聖典である。しかしこれよりも古い時代の聖書はいまだ存在している。70人訳旧約聖書である。これはヘブライ語テキストのギリシア語翻訳なのだが、なんとに成立している。しかもこの翻訳は、レニングラード写本の元となったヘブライ語聖典とは系列が異なるテキストを翻訳していることは明らかだという。ということは紀元前2−3世紀頃に広く正統と認められていた旧約聖書はその70人訳の元となったテキストであり、そっちの方が古くからの姿を残しているのではないかと推測することもできるわけである。とにかくややこしいのだ。

『根本中頌』の原本

 原本問題ではないが、俗物的大乗仏教読解で分析されていた『歎異抄』には作者問題がある。そこで書かれている内容は親鸞のものであるが、それを書いたのは弟子の唯円だとされいる。しかしながらこの唯円であるという事実も実のところ定かではないらしい。というのも、本文中に親鸞が唯円に言及する箇所が二箇所あり、それをもって著者ではないかといわれているだけであるからである。これはおそらく歴史の謎として残されるだろう。

 さて『根本中頌』はどうであろうか。もちろん作者は龍樹と分かっているが、ここで知りたいのは原本問題である。

 『根本中頌』は『中論』と呼ばれたりする。あるいはこっちの方が一般的かもしれない。面白いことに、この『中論』というのは青目釈しょうもくしゃくのテクストを鳩摩羅什くまらじゅうが漢訳した際につけた題名なのである。それでは原本はというと残存していない。現存しているのはサンスクリット語の注釈本だけである。そのなかでも鳩摩羅什漢訳テキストがよく普及したのだろう。だから『中論』とよぶことが多い。

 それではサンスクリット語の注釈本ではなんという題名になっているのか、サンスクリット語がよくわからないのだが、意味は「中にもとづく偈頌げじゅ」となるらしい。そして後世には「中観ちゅうがん派の偈頌」となった。中観派というのは中の思想家として有名になった龍樹のことを指し、偈頌は詩頌(宗教や哲学及び文法書などの要綱を簡略化して記憶しやすくした詩句)のことである。

 それでは「根本」は?という問いが湧くであろう。どうやら「根本」はとりわけチベット語訳に多く散見される接頭語らしい。どの注釈本を見るかで題名が変わってくるわけだ。

原本問題その2

 原本がないということは、聖書もそうであるが、内容も注釈本ごとに多少の異同があるということである。

 鳩摩羅什訳『中論』は計27章から成り、445偈であるが、『プラサンナパダー』と呼ばれるサンスクリット注釈本は447偈である。つまり、鳩摩羅什訳は『プラサンナパダー』のテキストとは別の系統の注釈本を使っている可能性があるわけだが、どうやらそうらしい。今日まで伝えられる注釈本は全部で七つあるが、そのうち『プラサンナパダー』だけがサンスクリット語である。しかもこれとは別系統が存在したとすると、ご多分に漏れずこちらもやはり非常にややこしい状態になっているといえるだろう。

参考文献

・三枝充悳『中論ーー縁起・空・中の思想(上)』レグルス文庫、1989年。

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