現存在と現象学的人間学【隔月現象学論考(7月)】

現存在と現象学的人間学【隔月現象学論考(7月)】

はじめにーーハイデガーの難点

 ハイデガーの存在論的分析にはかなり奇妙なところがある。

 まず、これはよく言われることだが、身体性に関する分析がない。メルロ=ポンティをとりあげるまでもなく、すでにフッサールでさえ身体性に関する現象学的な分析を施していた。そもそもそういった背景があって、メルロ=ポンティが登場するのである。ハイデガーはフッサールの弟子であったにもかかわらず、『存在と時間』においてまったく身体性について触れることがなかった。

 次に仮象(空想)に関する問題系である。これについては『存在の時間』において言及があるが、存在論においては仮象をまったく無視しておいてよいことになっている[1]。というのも仮象が映し出すのは偽であるので、真理(存在)の探究である存在論の道程に仮象が置かれることを許されないのである。仮象は「それ自身において自らを示す」ことはしない。つまり仮象に関しては存在論的に問うに値しないものとしてハイデガーは排除したわけである。

 他には反省性の問題系である。これはドイツ観念論の人たちをすこぶる悩ませた問いである。この反省性の問題系をなかったことにすることによって、ハイデガーは主観性や思考における様々な問題などを最初から無かったかのようにした。しかし「危険なのは・・・意識や反省性がたしかに存在するという事実を忘れてしまうことだ」[2]。このことは、明らかに各自性(Jemeinigkeit)という概念の独我論的な象徴制度にまでつながっている。しかし少なくとも『存在と時間』においてはハイデガーはそのことを決して問うことがなかった。

 こういった問題系をわきに置くことで生じた存在が〈現存在〉である。それゆえきっぱりと認めなければならないのは、現存在は人間的ではないということである。もちろん人間を定義づけることはできないにしても、人間的な存在をどこかに位置づけることはできる。しかし現存在は身体をもたないし、仮象をもたないし、反省性(思考)を持たないのだ。そういった存在者が一般的な意味での人間だとどうしていうことができるのだろうか。現存在は存在の場となりうるのだろうが、しかし現存在はどこにいるのだろうか。どこかに・・・・・・それは、強いて言うなら、狂気に住まうのではないだろうか。

現存在、本来性、狂気 、情動性

分裂病に観察される接触喪失(Kontaktlosigkeit)は、たった今指摘した開かれていることの欠如態です。しかし、この欠如態は、開かれて立つ事が消えているという事を意味しているのではなくて、それが「接触の乏しさ(Kontaktarmut)」へと変容されているだけなのです。

『ツォリコーン・ゼミナール』p. 106

 なるほど、ハイデガー自身が現存在自身のいびつさを認めていたわけではない。現存在の本来性は狂気なのではなくて健常であり、狂気はまた別のところに存在する。しかし「英雄」のような状態の人間がどこに存在するのだろうか(リシールは『存在と時間』をヒロイズムの倫理として、神話の中以外に英雄は存在しうるのだろうかと皮肉っている)。

 非本来的な現存在、つまり日常的で頽落している現存在というのはたしかにそこら中に確認できる。日常性のあり様である「巷談」は我々のほとんど全てが日常的に行なっている行動である。しかしながら問題となるのはこの現存在の非本来的な様態から本来的な様態への移行である。このような構造を持ち込むことによって非本来性には現存在の本当の存在を覆い隠すというネガティブな方向性が規定された。かたや本来性は存在者の存在そのものへとポジティブに向かこととなり、本来性が非本来性の基礎・土台とされたのである。

 このような本来性/非本来性という考え方は後の哲学者からあまり評価されていない。「世界内存在」や「実存」というハイデガー概念を取り込んで『知覚の現象学』を著したメルロー=ポンティも、彼が評価を与えたのは日常性のほうだ。彼が好んで記述したのは「匿名性」のほうであって「各自性」ではない。というのもこの匿名的なあり方の中でこそ、身体は動き出し、各々の自由な主体が生きるからである。つまりメルロー=ポンティに言わせれば、「ひと Das Man」 のなかにも本来性は宿るのである。この意味で、非本来性と本来性を峻別する必要がなくなるだけでなく、非本来性こそ本来性の土台だともいえるのである。

 だからといって現存在分析が何も言ってないわけではない。ハイデガーが記述したのは実際は一つの狂気の瞬間だからである。

彼は現存在との対決によって狂気に陥ったのです。

Gesamtausgabe, Band 63. Ontologie(Hermeneutik der Faktizität), 1988, p. 32.(『オントロギー 事実性の解釈学』)

 本来性にいたるために行われる死を賭したレースがある。これは非常にあいまいで危機的な状況を現存在に示しているはずである。ある意味これは狂気の瞬間なのだ。そういうわけで、現存在分析は、ハイデガーが考えたこととは真逆に精神病の分析と類似するのである。というのもいわゆる病的な状態において、大抵の場合、自らの全体性が問いただされ、死とか良心とか覚悟とか不安とかそういった人間を人間たらしめているようなカテゴリーがその人に迫ってくるからである。ある統合失調症患者(初期)の症例をみてみよう。

症例108:(省略)。1940年10月になってようやく招集されたが、当時の自分がどういうふうであったかは全然ことばにならないと語った。死の予感があり、「この戦争は私にとってはよくありませんね。何かが起こっていて、これがずっと自分につきまとっています。という感触があった。(省略)。1941年5月、彼は「目だつ」ようになった。わけのわからないことを語り、にわかにすすり泣き、何がなんだか分からないと言った。診察で彼が述べたのは「わかっています、私は重罪人です。殺人とかそれに類したことをしたことはありません。しかし私は病人です(病人だとは彼の自責をみとがめた隊付軍医が彼に明言していた)。病人であることからおそらく何らかの犯罪行為が生じたのでしょう。何かの指導があって、それと何らかの形で結びついて、私は誘惑にはまったのですが、おそらく逆らえなかったのでしょう。白状しますが、時々ぼんやりとした感じがありました、何か正しくないことをしているのだが、それから手を切ることはできないと……」〈何を根拠にそんなことを思うのか〉「それは漠然とした不安感です。戦慄でしょうか興奮でしょうか。どこからくるものやらわかりません。無意識からくるものもあるのでしょう。私は何もできません。もう何もわかりません。無理にでも前向きに突進したいのですが。何かをやってのけたいのですが。しかし一方では抑制がかかります。今まで起こってしまったことはしかたないとして、これ以上何かをしでかすことは許されませんね。私は誰よりも不幸な運命を引き受けて耐え通さねばならないのです……(物思いに沈みながら)私は軍の機密を漏らしたのでしょうか。わかりません……(思いに沈みながら)胸騒ぎから生れた、家に帰りたいという、この憧れは、家のことを全部ちゃんとしておきたいためですが、ひょっとすると兵役忌避と人はとりたがらないでしょうか……ええ、ええ……私は……(消え入りそうな声で)私は脱走兵です……」

『分裂病のはじまり』pp. 74-5

 しかしながらこういった気分はハイデガーの本来的現存在と一致しない。というのも症例が示すように、大抵の場合、そのような状態において人はネガティブに振れるからである。かたや本来的現存在は「歓喜(Freude)S. 310」(第62節:先駆ける果断さはまた、実存やそのさまざまな可能性に関わることなくその遥か上を飛び交う「理想主義的」な要求や慢心の所産ではなく、現存在の事実的な根本的可能性についての冷徹な理解から湧き上がるものである。孤立した在りうべき在り方に向きあわせる冷徹な不安には、この可能性に臨んで心はやる歓喜が伴う。その中で現存在は、気ぜわしい好奇心が主として世間の事件や出来事から仕入れる余興のための各種の「偶然」から自由になる。)をもよおす。かれらはポジティブである。もちろんそのような状態が訪れないわけではない。それはコンラートの図式で言うと、トレマ期(初期)よりもアポフェニー期(中期)によく訪れる。その意味で狂気の始まりの情動は否定的だといえる(ハイデガーの分析はすでにアポフェニー期なのだ)。

 現存在は自らの可能性を無の中で見出す。これは不安に苛まれながらも行われる過激なことだ。すでにここに象徴的な移行が見られるのだ(不安が乗り越えなければいけない壁のように生じている)。無から否定性へのそして肯定性への。この移行を通して現存在は存在することになる。不安に背を向ければ非本来性に肯定性が移ることになる。要するに存在論的な構造を超えて、それを作り出す「無」について現象学は何かを語らなければならない。

現存在から現象学的人間学へ

 現存在分析を引き継ぐにしても、思うにマルディネのように現存在分析を乗り越えていく必要がある(詳しくは「超受容性について」を見よ)。ハイデガーは現存在の「現」に開示性という様態を見てとったが彼の場合は、何に開かれているのかというと自らの可能性であった。それをマルディネは超受容性(他なるもの)へと開けている場だととるわけである。そうすると例えば統合失調症患者はその超受容性が欠けているのだということになる。しかしながらその超受容性が欠けていながら、何かと出会っているということが重要である。超受容性の停止(否定性)と、それとは別の何かの作動(肯定性)を描き出す必要がある。

 マルディネの分析の問題は二つある。一つ目が、超受容性の欠如が示しているのはマルディネにとって「他なるもの出会いの欠如」だということである。他なるもの、これが何なのかがまず明確でない。例えば〈他者〉という意味ならば、他者と出会わないのは統合失調症というよりも自閉症である。おそらく自閉症の分析としては間事実性に関する問題系の分析が重要となるだろう(身体はこういった他者と世界の梯子となる)。その意味で統合失調症患者に欠けているのは世界である。おそらく現象学的風景や現象学的空想という概念が必要となるだろう。超受容性に欠けているのは世界の方である。

 それではその世界はどのように図式化されていくのか。これがもう一つの問題である。ここには情動性の関与が明らかにある。トレマ期においてすでに主体の否定的な生成があり、それはある意味では否定的な崇高である(トラウマにはならないにせよ)。この否定的な崇高こそ〈無〉への通り道なのだ。というわけで、このように〈無〉への通路を確保することによって現象学へと移行するのである。その〈無〉は現存在自身を露わにする不安なのではない。不安ではなくて、リシール風にいえば生ける魂の運動なのだ。存在論的な構造をエポケーして〈無〉を救い出すことによって現象学の可能性が生じる。そこから精神病理についても(これに関してハイデガーがうまく語れなかったのは既に見たとおりである)なにがしかを理解することができる(現象学的人間学の可能性)。隔たりの中で隔たりを保つこと、これが現象学の可能性を生じさせるのである。


[1]『存在と時間』第七節「 a 現象の概念」参照。

[2]『マルク・リシール現象学入門』50頁。

関連項目

無知の知
形而上学
間主観性
ニヒリズム
フェミニズム

参考文献

Martin Heidegger, Sein und Zeit, Tübingen, Max Niemeyer Verlag, 2006(1927)
(マルティン・ハイデガー、『存在と時間』、高田珠樹訳、作品社、2015年)

Gesamtausgabe, Band 63. Ontologie(Hermeneutik der Faktizität), 1988

メダルト・ボス編『ハイデッガー ツォリコーン・ゼミナール』木村敏 村本詔司訳、みすず書房、1991年

クラウス・コンラート『分裂病のはじまり』山口直彦・安克昌・中井久夫訳、岩崎学術出版社、2011年

アンリ・マルディネ、「超受容性について」『現代思想』、塩飽耕規訳、第37巻16号、青土社、2009年、pp. 332-351.

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