序文
この論文では主に大乗仏教において重要とされる資料、『根本中頌』(通称『中論』)、『歎異抄』を用いて考察を深める。
とはいえ、私は仏教徒ではない。各宗派にて共有された通説などを知っているはずはないし、かといって発心を起こしたての初心ある坊主でもない。私はただ、哲学として、快楽として、この資料を扱う。
この断りの意味は、語や文の厳密な解釈はできそうにない、という予防線であるだけでなく、ひとえに両資料を「宗教」というくびきから一旦外すためでもある。
「宗教」と私が言うとき、その意味は「悟り」や「涅槃」、または「神的合一」などと呼ばれる「境地」が目的とされた言行の総称である。つまり、私はこの論文でそのような法悦をあえて目指すことはしない、と言いたいのである。
私が目指すのは、問う快楽である。問題を解決するのではなく、問題をもたらし、そこに困難を呼び込むテロ行為である。
私が信ずるに、両資料は読めば読むほどに、法悦ではなく困難が目立ってくる類のものなのであるからうってつけという次第である。安心のために読むのでなく不安のために読むことを、私は此度の論文で提案しようと思う。
『根本中頌』を用いる章は、有名な「歩行行為」の件を通過して存在論へと向かう。その際存在論が偉大である条件を確認し明らかになるのは、存在の問いは最も先だった問ではないということである。「存在」がそもそも「存在」と呼ばれる以前のところを私は問う。その後再度「歩行行為」の件に戻り、あらたな「視力」を得た我々にこの議論がどう映るのかを見る。
『歎異抄』を用いる章は、「悪人正機」の「悪人」とは誰なのかを問う。「悪人」が単に「善人」に比べて力の無い愚かな人間のことなのだとしても、どのような能力の無さなのかを問う。その結果、「悪人」や「阿弥陀仏」による救済、そして「浄土」、「南無阿弥陀仏」とは、「可能性」と「現実」の絶対的な隔絶を表した謂いなのだと私は述べる。
以上が大まかな構成である。また、この論文に決定的な影響を与えた著書が件の二冊であるのはもちろんのこと、松井吉康の『存在の呪縛』もここに加えねばならない。界隈では知る限り取り沙汰された様子はないが、彼の主張こそこの二冊の補助線になっているのだ。存在以前の問いを明確に主張した資料である。三冊ともに、ぜひ参照されたい。
『根本中頌』論考
龍樹から存在論へ
[・・・「誰かが歩いて行く」という文を分析するとき、歩かれている場所は、その人が既に通過した地点か、まあ通過していない地点か、現に通過しつつある地点かのいずれかであるが、](1) まず、「既に通過した地点が今歩かれている」ことはない。(2)「まだ通過していない地点地点が今歩かれている」ことは決してない。(3)既に通過した地点とまだ通過していない地点とは違う「現に通過しつつある地点が今歩かれている」こともないi
龍樹は歩かれている地点を三つに分類し、その三つの内のどこであっても歩行は起き得ないと言う。
【反論】歩行行為は、運動があるところにある。そして運動は既に通過した地点やまだ通過していない地点ではなく、現に通過しつつある地点にあるから、歩行行為は現に通過しつつある地点にあるのである。ii
このような反論がくるのは当然ではないだろうか。たしかに既に通過した地点やまだ通過していない地点が歩かれていないのはその通りだが、現に通過しつつあるところにさえ歩行がない、など正気と思えないだろう。ここ以外のどこで歩くというのか。
龍樹はしかし上記の「常識」に次のように応じる。現に通過しつつある地点に、どうして歩行行為が所属し得ようか。・・・現に通過しつつある地点に歩行行為が所属すると主張する人には、[歩行行為が所属する以前には]歩行行為なしに現に通過しつつある地点があることになってしまう。「現に通過しつつある地点が今歩かれている」と主張するのだから。iii
一体何がここで告げられているのだろうか。何が問題とされているのか。私は龍樹の上記の応答を、以降の議論のために、ひとまず次のように解釈したい。この解釈は、歩行行為が所属する以前の地点(つまり「まだ通過していない地点)を通過していることになる、という誤謬を回避した先にあるもう一つの「誤謬」である。それは、「現に通過しつつある地点が今歩かれている」というときの「現に通過しつつある地点」とは実は、「既に通過した地点」にならざるを得ない、という「誤謬」である。iv
このズレていく事態、つまり、「現に」が「既に」へと絶えず読み替えられる事態を龍樹自身はこのように表現している。現に通過しつつある地点に歩行行為が所属すると仮定するなら、二つの歩行行為があることになってしまう。(1)そこが「現に通過しつつある地点」と呼ばれる根拠となる歩行行為と、一方(2)その地点に現にある歩行行為とである。v(強調筆者)
我々は、「現にある歩行行為」という言葉を熟思することで、元々常識的な反論者が不器用にも何を考えたがっていたかを知ることになる。それは、「いまだ通過していない地点」を「現に通過しつつある地点」に変化させる「現にある歩行行為」なのである。前者の「現にある」は、ない⇔あるという置き換え可能な「現にある」だが、後者の『現にある』は、それ自体唯一的であり、掛け替えのない「存在」なのである。だからこそ、この『現にある』は、三つの区分(既に‐現に‐まだの三時間性)のどこにも位置し得ないのである。
つまり、反論者は、後者のような『現にある』を時間の「中」の出来事の一つとして位置づけようとしながら、なおもそれのもつ「唯一性」の保持を試みていたのである。
「現」あるいは「今」という語は考えてみるに奇妙である。
過去・今・未来のそれぞれの「関係」を考えてみると、過去と今の関係とは事実上過去と未来の「関係」であり、今と未来の関係もまた過去と未来の「関係」にならざるを得ない。この「奇妙さ」が、絶えず読み替えられる「ズレ」と類比的であるのは明らかではないだろうか。「今」つまり「現」が、「ない」を「ある」へと変化させる特権的な『ある』だとされるのは、「今」あるいは「現」が、過去と未来とのような「関係」を持てない独立的な審級として機能していることとセットなのである。
「現にある」の決定的な二重性と差異を看過し『現にある』のもつ特権性を時間の中に密輸入することによって、一部で有名な「自己原因」という堕胎児が誕生する。自分で自分を生み、それ以外の全ての存在者はこのものに起因し、常にこのものへ参照されるというこの「自己原因」は「関係外」的在り方をとる『現にある』が、「関係それ自体」として昇華されたものであるということはわかるだろう。vi
だから「自己原因」によっては困難は除けず、ただ延長するほかない。なぜこの「自己原因」という関係性それ自体であるがゆえに無関係である存在者から、自己原因ではない存在者が生まれる(という「関係」が結ばれ得る)のかという問いに移行する以外にないのである。そして常識的な反論者が守っていたその常識とはこの「堕胎児」であり、龍樹はこれを「認知」しなかったということもまた、明らかである。
原因というものを我々が持ち出すのは、さしあたってはその原因ののちに生ずるものを「必然化」し、一つの系譜を紡ぐためである。「現にある」ことを必然化し、一つの系譜の中のこととして予定されたことなのだと納得しようとする欲望が常識的な態度には鎮座しているのである。この欲望を相対化し、解体することを、私は「存在論」と呼ぶことにする。なぜなら、存在論とは存在するものではなく、存在することを問うからである。この場合、「存在すること」とは、『現にある』という意味である。
だが、我々は今一度、立ち止まらなければならないと思われる。というのは、「存在すること」、否、「存在そのもの」と我々が言いたいものを、「存在」と呼び続けるかぎり、あの堕胎児を認知する危険性がついて回るからである。この事情は、存在論がなぜ偉大なのか、なぜ人を惹きつけてやまないのかを考える際にはっきりするのである。
存在論から無論へ
存在論はなぜこうも哲学者を魅了するのかを考えてみるに、おそらく二つの要諦があるとわかる。
一つに、存在の一義性というのが挙げられよう。存在しているもの(存在者)はその姿、性質が多種多様である。つまり、存在者に対して我々がより多くのことを知ったり、あるいは多くのことを忘却したりすることがあること、その人の立場によっても様々に存在者は現れ方を異にすることがある。だが、このことと比較して「存在していること」それ自体は改めて知るということもなく、よって忘れてしまったりするということもない。気づいた時にはこの「存在している」というフレーズを使用しているので、いざ「存在しているとはどういうことか」と尋ねられても要領を得ない解答が返ってくるのみなのである。仮に解答として提出されたとしてもそれはどこまでいっても「存在者」であるため、「存在していること」そのものの意味はこのフレーズ以上でも以下でもないというニュアンスのもと「自明」とされている。これを私は「存在の一義性」と呼ぶ。
二つに、そもそも「存在なるもの」があるわけではないことである。「つくえが存在する」という文を見聞きしたとして、一方に「つくえ」が、他方にその「存在」が、とは考えられない。現実には、「つくえが存在する」のみなのである。私はこの事態を「存在の所属性」(存在とは、存在者の存在である)と呼ぶ。
私はこの二つの要諦を満たす限りにおいて、「存在とは何か」という問いが深淵に通ずるのだろうと推測する。「存在していること」は「存在者」とは明白に異なっているのにも関わらず、「存在していること」それ自体を別個に摘出することができない、というこの焦りにも似た感覚が、「深淵」と言い慣わされている。
そのうえで私は次のように思う。「存在の所属性」に人の認識が留まったままであるなら、「存在の一義性」つまり、『現にある』こと、「存在そのもの」を探求するという考えが出てくることはない。これはさらに正確に言い換えなければならない。つまり、「存在の所属性」から「存在の一義性」という方向に道は通じているはずがないのである。「存在者が存在している」という「現実」から、「存在そのものを問う」という「可能性」は生まれてこないのである。
我々がどこに導かれようとしているのかを見極めなければならない。「存在する」とだけ我々が口にしたら、ほぼ必ずといってよいだろうが、「何が?」と問われるだろう。これがまさに「存在者の存在」つまりは「存在の所属性」にほかならない。さて、我々が「存在の一義性」に通ずるためには、この「何が?」が全く要求されないものを引き合いにだして道を開くことが肝心である。私はここでその条件に合致するものをたった一つ提出しよう。それは「無」である。
この場合の「無」というのはもちろん、何か「の」不在や、欠如、あるいは喪失という意味ではあり得ない。というのは、その種の理解は存在者の存在の言葉遣いに則ったものだからである。したがって存在の問いの条件を探る我々が検討せねばならないのは、端的な「無」あるいは「全くの無」viiでなければならないのである。
次いで、この「全くの無」を論じることになるが、「全くの無」が論ずるに値しないという批判と、「全くの無」を不定形の存在原理とする誤解について論じることによって、かえって「全くの無」の輪郭が定まってくる。批判によってこの概念がはっきりするだろう。
まずは前者についてであるが、いくつか手短に応ずることにしよう。一つに、「全くの無」を論じるに値しないとする批判の主要な理由は察するに「全くの無」など文字通り「無い」からだ、というものである。この批判について私が指摘できるのは、存在論的問いというものが「可能性」に向けられた問いであるという前提を、この批判者は見逃しているということだ。というのも、現実には「存在者が存在する」だけなのであって、「存在」だとか「無」だとかはもちろんそれ自体あるはずがないのである。つまり、「全くの無」が「無い」から問うに値しないというのなら、「存在」だってもちろん「無い」のだから、存在を問うことが許されるのと同様に「全くの無」を問うことも許されてしかるべきではないだろうか。
また、無意味な問いだという批判にはこのようにも応じられよう。ある問いが問いとして意味を為しているかどうかは、その対象が矛盾しているかどうかにかかっているという場合、「黄金の鉄はどこにあるのか」という問いが無意味ではあるのはもちろんであるが、それは「全くの無」には該当しないだろう。「全くの無」には矛盾しているところなどどこにもないからである。「でもそれを問う我々は存在していなければならない」と鬼の首を獲ったような桃太郎もいようが、それは最初の解答、つまり、この種の問いが「可能性」の問いであるという大前提を失念しているだけである。
次いで後者への応答であるが、「全くの無」は不定形の存在原理、すなわち「混沌」とは全く異なっているviii。というのも、混沌に目鼻をつける(形を与える)とこの混沌は死んでしまうという話を念頭に置くとすると、この場合の混沌は目鼻をつけると死ぬ構造をあらかじめ備えていないのであれば死ぬことはなかったことになるだろう。だから、この旧い話が明らかにしている事実とは、「混沌」が「全くの無」だということではなく、ある秩序とはちがう秩序、つまりもう一つの秩序であるということなのだ。それと比較すると「全くの無」は「存在そのもの」と一切関係を持たない。全くの無はいつまでも全くの無であって、存在そのものはいつまでも存在そのものなのである(等根源的)。
最後に、これは両者双方に言えることであるが、「全くの無」を論じないことによって、ある存在者が全事象の始発点に必然的に添えられねばならなくなり(たとえば「我々」や「混沌」などの存在者を必要としたのである)、「自己原因」という事態が登場することを避けられなくなる。我々はこの事態を回避しようとしているのである。
さて、「存在そのもの」はその条件として存在所属性を脱していること、そしてなおかつ同様に存在所属性を脱している「全くの無」とは一切相容れない(両立しない)ことが要求されている。であれば次のように説明することは不思議でないだろう。「存在そのもの」、『現にある』ことは、もともと、「全くの無でないこと」なのである。つまり、「全くの無でないこと」が「存在そのもの」の条件であって、逆ではない。
よって我々は、「存在の問い」つまり、「存在とは何か」に先立つ問いを手にしたことになる。「全くの無なのか、あるいは、全くの無でないのか」こそが、およそ我々が思考し得る限りにおいて最も先立つ問いだということになる。しかも答えさえはっきりしている。「全くの無でない」が、その答えなのである。
無論から龍樹へ
前節の「存在論から無論へ」において明らかになった成果を元手に、再度龍樹と反論者の件のやりとりを見てみよう。我々の向上した視力によると、龍樹が「自己原因」という没概念を拒否したことの意味が一層明らかになるのである。
「現に通過しつつある地点が今歩かれている」というのを、先ほど私はこの議論を存在論への道にするため「現に通過しつつある地点とは、既に通過した地点である」という反論者の意識の底にある誤読として採用した。だがおそらく気づかれたように、この龍樹の背理法的応答は、「現に通過しつつある地点とは、もはや歩かれていない地点である」とも言い換えられる。龍樹が「自己原因」を否定したというのは、ただ単に法外な「唯一的存在」を三つの時間内の出来事の中に組み込むことができない、という意味にとどまらないのである。なぜなら、この「唯一的存在」たる『現にある』は、「全くの無」の否定であるところの「全くの無でないこと」であるゆえに、時間内に組み込めないのである。それはどういうことか。それは、「ある」ことと「ない」ことが両立する=混同するような世界に「否」を告げる視座が『現にある』だということである。
龍樹が位置する立場が、「三つの地点のどこにも歩行は起き得ない」ということはつまり、この立場からすれば「存在者が存在する/しない」という命題は端的な逸脱ということになるだろう。存在者が現に存在するということは存在者が既に存在するへと必然的にズレていき、その結果久遠の昔からその存在者が存在するということにならざるを得なくなり、そしてそのような必然的でしかない存在者が存在しないということ(偶然的であること)は両立しないからである。ここから我々が読み取れるのは、「全くの無でないこと」と「存在者の存在」、つまり「可能性」と「現実」の間にもまた乗り越えられない隔たりがある、ということである。
「自己原因」が認知されない理由として「全くの無なのか、それとも自己原因か」という根源的問い(になぞらえた問い)を構成する「全くの無」と「自己原因」の双方に跨るもの、あるいはこのうちのどちらかに肩入れをするものは、存在していようがいまいが成立しないということが、我々にはすでに理解できる。これは両者の間に「関係」を認めないということである。しかし、「全くの無でないこと」と「存在者の存在」の間にも関係を認めないでいることはそれに比して難しい。だが、ここに「関係」を認めるや否や我々は、怪しい神的な存在者を常に仮定するはめになるのである。系譜を紡がないこと。存在の物語をやめることがここでも必要なのであるix。
結論‐「二つが一つ」でなく
龍樹を通して我々が発見したことは、以下の通りである。
「現にあること」あるいは「今」が絶えず「過去」へとズレていき、このズレの連鎖と『現にある』の時間外的性格の密輸入によって、我々が「自己原因」と呼ぶ概念が登場する。この、存在の必然化を担う「自己原因」を相対化すべく我々が取り組んだものこそ存在論である。存在論を偉大にしている要諦を調べていくうちに判明したのは、「存在の問い」に先立つ問い、「全くの無なのか、それとも、全くの無でないのか」であった。この成果を手にし件の書へ立ち返ったところ、龍樹が「自己原因」を認知しなかったことの意味が、「ない」と「ある」が混同され同一の次元に成立している世界そのものへの「否」であることに思い至ったのである。
「二つが一つ」というのが、常識的な、必然を願う者の行きつく根本命題であると言ってよいのなら、私はあくまでもこれに「二つで一つ」と応じよう。「ない」と「ある」、「必然」と「偶然」、「可能性」と「現実」。これらは鋭く対立し、一つになろうとするがなれない。私は対立を、ただ対立するがままにし、この間に水を差さないようにするのである。この対立こそが、そのまま共存なのであるから。
『歎異抄』論考
前書き
日本で最も信仰者の多いとされる浄土真宗について、ましてや『歎異抄』について、授業で習ったこと以上に知っている者はどれほどいるだろうか。
「善人でさえ浄土に生まれることができる、まして悪人が浄土に生まれないわけはない」xというフレーズが悪人正機の説と呼ばれていること。そして「他力本願」、「南無阿弥陀仏」がこれに付随しているということ。おそらくこれでもよく知っているほうではないだろうか。
私もそうなのである。授業で習った以上のことを知らないのだ。この章を書くまで上のことさえ満足に知らなかった。
しかしそんな我々だが、『歎異抄』を読むことができる。否、そのような信仰に篤くない我々だからこそできる読みがあるのだ。
そもそも「悪人」とは誰なのか。どうしてあくまでも阿弥陀仏からの救済が重要なのか。南無阿弥陀仏がある意味でたった一回しか唱えられないとはどういうことか。‐このような問い以外にも実に多くの問いが生じるのが『歎異抄』なのであり、願わくばこの章なのである。序論でも述べたように、答えではなく、「問い」を生む快楽を目指し、重ねて願わくば、読者にも共有できればと思う。
悪人とは誰か
『歎異抄』において「善人」・「悪人」という二項の変奏として、「自力」・「他力」があるのだが、「悪人とは誰か」という問いのためには、別のバリエーションである「難行」・「易行」から論を進めるのがいいと思う。
「難行」というのは、「勝れた能力の人にして修めることのできる」xiもので、たとえば、「手に印を結び、口に真言を誦え、心に仏を観念する」xiiというような修行である。難行が善人と自力に結びついていることを踏まえると、善人というのはまさに、自身の勝れた能力でもって苦しい修行を行い(難行)、自力で悟りに至る(自力)人のことだと言える。
他方で「易行」はこれと対照的である。「南無阿弥陀仏」と称えることである。ただこれだけである。優れた能力は必要ではなく、苦しい修行でもない。自身の能力がないゆえに、「阿弥陀仏」によって救済されることを旨とする。悪人というのはそれゆえ、自身が愚かで無能であるので名を称えるほかなく(易行)、阿弥陀仏によって救済される(他力)人のことだと言えよう。
両者は綺麗な対称を為しており、のちに述べるように実際はさらなる大きな違いがあるものの、共通している点もあるだろう。両者ともに、「修行」をしているということである。これと「徒労」あるいは「奇行」とを分けているものは何なのだろうか。それは、「涅槃」「悟り」「浄土」などの「善い」目的に向かっているという違いであろう。この目的において「修行」という意味が確かなものとなるのである。
だが、一度冷静に考えてみなければならない。両者のいそしんでいる行動が他ならぬ「修行」であるのは、上記のような目的がともかくも設定されているからであるとすれば、どうして我々はこの設定の存在を鵜呑みにしなければならないのであろうか。一般に上記のような「目的」の崇高さは、俗世に生きる人間にとって計り知れないものであり、計り知れないものであるがゆえに「善い」ものだとされる。だがそれならば、なぜいまだに「崇高である」と言うのか。崇高であることが我々「俗人」に理解できるのであれば、それはやはり俗世的なのであるから「目的」に定めるということもあり得るだろう。しかし、このような思考を完全に超越したものが目的なのだとすれば、一体だれがこの「目的」をたしかに捉えているとか、そこに到達した、と言えるのだろうか。
このように考える人はゼロではあるまい。少なくとも私はそう考えているし、そして思うに、親鸞と唯円もそのように考えているのだから。
念仏を称えておりますが、踊りあがるほど、歓喜の心は豊かにわきあがってまいりません。またはやく浄土におもむきたいと思う心になっておりませんが、これはどういうわけのものでありましょうか。‐親鸞もこれと同じ疑問をいだいていたけれども、唯円房、あなたも同じ気持ちであったとみえる。xiii
両者とも私と同様の懐疑を抱き、浄土と穢土(煩悩にまみれたこの世)の決定的な差異に気付いている。歓喜すべき浄土への救済に、実感を持てないのだから。
親鸞はこれに次いで、二つの重要な説明を行う。一つに、我々が浄土におもむくことに喜びを持てないのは、「無始永遠の昔から今日まで、生まれかわり死にかわり流転してきた苦悩の世」が、「なつかしい古里」としてあるから。つまり、「煩悩がはげしいから」であるxiv。
二つに、このような「煩悩がはげしい」愚かな我々をこそ、阿弥陀は救う、としたのであるxv。
これは何を意味しているのだろうか。何が起きたのだろうか。まず我々は「難行」と「易行」が、「自力」と「他力」、「善人」と「悪人」へと紐づいていることを思い出さねばならない。そのうえで、修行の目的とされる「浄土」という救済に実感を持てない、このような愚かな我々が救われる、とはどういうことなのかを問わねばならないだろう。ここにきて、ようやく我々は次のように考えることができるのである。「難行」・「易行」、「自力」・「他力」、「善人」・「悪人」‐これらの意味に、明らかな含み、変容があると。ここで、「悪人」とは誰なのか、にたどり着くのである。
「善人でさえ浄土に生まれることができる、まして悪人が浄土に生まれないわけはない」xvi
「悪人正機」と我々が言い慣わすこの命題の意味を、我々は先ほど見出した含みの「深度」に応じて記述することができる。
(1)「善人」というのは自らの力を頼りにするあまりうぬぼれが生じるので救われがたい。「悪人」はしかし自らの力を頼みにしないので、阿弥陀仏に一層救われるのである。‐これは、「浄土真宗」を立てる主張である。たとえば、浄土真宗の信徒としてのアイデンティティを持つための主張である。おそらくこの場合の「善人」や「悪人」の解釈こそ一般的なのである。というのも、悪人正機が持ち出される上記の命題の直下に同様の趣旨が言われているからである。
(2)上記の「悪人」とはしかし、仮面をかぶった「善人」に過ぎないのではないか。上記の「善人」も「悪人」も、崇高な目的のために修行しているという点は変わらない。「悪人」が、この修行が報われると信じて名を称えて「浄土」への切符を購入しようとしているのであれば、それはやはり、「自力」なのではないか。もちろん、親鸞から「「善人」では救われがたい」と教えられた結果「自分は「悪人」である」と考えなおすこともあり得る。ところで、悔い改めた「悪人」がこれに続いて「だから優先して救われるのだ」と打算していないと断言できるだろうか。
では、「善人」とは本来誰か。それは、自らの為すことがはるか遠い「可能性」に関与していると信じて疑わない者すべてである。
では、「悪人」とは本来誰か。それは、はるか遠い「可能性」を「可能性」としてのみ把握する者すべてである。
「可能性」を「可能性」としてのみ把握すること、つまりこの場合、「浄土」を「可能性」としてのみ把握するとはどういうことだろうか。「難行」というのは、煩悩にまみれた現世で救われようとするが、「易行」は「浄土」に生まれ変わった後に悟って救われるのだと親鸞は言うxvii。「難行」と「易行」は、いまや我々にとって全く違った読みを促される語である。先述の唯円と親鸞の対話を引き合いにだすなら、つまり「難行」を行う「善人」は、「浄土」におもむくことに「歓喜」するのである。彼らにとっては「浄土」や「悟り」は、煩悩という「無始永遠」の繰り返しの延長上にあるのだ。よって、「浄土」を「可能性」としてのみ把握するというのは、「過去と今の繰り返し」という「難行」・「善人」・「自力」から「浄土」への道が通じている、という考えを断念することなのである。
だが、同時に次のことも明らかになったのではないだろうか。この「悪人」もまた「可能性」に過ぎないのだ。というのも、「浄土」という可能性において救われる存在は、やはり「可能性」だからである。つまり人間は、現に「善人」でしかなく、「煩悩」において生きる以外にないのである。ここで問題になるのは、「阿弥陀仏」から救われる、というのはどういうことなのか、である。正確には、「阿弥陀仏」が我々に先立っていることと、我々が現に善人でしかないこととの関係から何を読み取るべきなのか、である。
我々は次のように読み取るのである。人間は、「現実」と隔絶された実現し得ない「可能性」を、遠い「過去」として誤読するのだと。
誤読‐「宿業」
「正しい行いをしようと思う心が起こるのも、宿業が誘いかけるためであり、悪事をはたらこうと思ったり、したりするのも、前世で行った悪が手を加えて左右するからである」xviii
普通に読めば全く素朴な文章だと思われる。過去に犯した悪事が現在の悪事に関係している、というのは常識的に聞こえる上に、説教くさくもある。一見すると「自力」の感さえある。だが、この「宿業」の「実証」の場面と併せてみれば、全く異なった調子になるのだ。
「唯円房は、わたしの言うことを信ずるか」
‐さようでございます。
「それでは、わたしの言うことにそむかないか」
‐さようでございます。
「たとえば、人を千人殺してもらえないか。もしそうすれば、かならず浄土に生まれることになろう」
‐仰せではありますが、ただの一人も、わたしの能力では殺せるとも思えません。
「それでは、どうして親鸞の言うことにさからわないと言うのだ。これでわかるだろう。すなわち、どんなことでも、心のままになるものならば、浄土に生まれるために千人殺せというときには、ただちに殺すだろう。しかしそうではあっても、一人でも殺せるような宿業のはたらきかけがないために、殺さないのである。自分の心が善くて、殺さないのではない」xix
唯円が親鸞の言うことを信じている、というのが、「今」であるとすれば、この「今」において信じられているものが実現不可能なことであるという事実は、この「今」の中には全くないのである。この実現不可能性はただ、「今」の外部である親鸞の側からしかやってこないのだ。そして唯円は、この「今」の外部からやってきた衝撃を、己自身が実現する力をもっていなかったというように、つまり「みずから」という仕方で受け取っているのである。上記の対話を、「唯円は自分がもともとそのような力をもっていないにも関わらず、うぬぼれて親鸞を信じていたのだ」と描写するとすれば、これこそまさに「宿業」的解釈なのである。私が、唯円が親鸞の言うことを信じている時点を「今」とし、そこから議論を進めるのも「宿業」である。本来は、「唯円房は、わたしの言うことを信じるか」というこの親鸞からの「問いかけ」に「応じる」時が「今」の開けだったのである。
言うまでもないかもしれないが、この「今」の先立たれ構造は、前章にて龍樹との共同作業の末見出した「今」のズレと同じ問題である。前者にとっては、今と過去の関係と、今と未来の関係が全く非対称的であるという「横の隔絶」が問題になっていると言えるが、後者にとっては、「今」(『現にある』)の無関係性(唯一性)という「縦の隔絶」が問題になっていると言える。人間の意識における時間を論ずるにあたって、未来と今のどちらに優位を置くか、という問いがあり得る。私としてはもちろん、何を強調するかによってその表現を変えるのだと答える。「可能性」と「現実」の混同を我々が冒しているという事態を記述するにあたっては「縦の隔絶」が有効であり、逆に差異を強調したいのであれば「横の隔絶」が有効なのである。そしてこれは今まで我々が立ち会ってきたことの良い要約になっている。
誤読‐阿弥陀仏の不思議
文字一つ知らない愚かな人が念仏を称えているのを見て、「おまえは仏の誓いxxの不思議なお力を信じて念仏を称えるのか、それともみ名を称える功徳の不思議な力を信ずるのか」xxi
唯円はこの揺るがせに対し、「誓いの不思議とみ名の不思議は一つであって、けっして異なってはいないxxii」と言う。詳細は次の通りである。
「阿弥陀仏は、誓いの不思議によって、覚えやすく称えやすいみ名を考えだされて、み名を称えるこのような人を浄土に迎え取ろう、とお約束なさったことであるから、まず阿弥陀仏の大慈悲の誓いの不思議なお力に助けられて、この生死を重ねる迷いからのがれでることができる、と信じ、さらに念仏を称えられるのも仏のおはからいによるものである、と考えるときには、・・・真実の浄土に生まれるのである」xxiii
もちろん、阿弥陀仏が約束したのは「いつ」なのか、と問うことはできない。それはまさに誤読である。この「約束」が果たされるその時をいくら待とうが「現実」にはやってこないのと同じである。我々は隔たりのある可能性を、このようにして現実の中に回収しようとするのである。
だが、誓いの不思議とみ名の不思議が一つである、というのはどのように理解すべきなのだろうか。唯円は上記の物語の中に、注目すべき記述を忍び込ませている。それは、「と信じ」、「と考えるときには」である。「阿弥陀仏」が人格化され、約束まで取り結び、念仏を称えることさえも彼の中で予定されたことであったという記述は、阿弥陀仏の誓いに必然性を与える。しかし、この「必然性」はそのように信じ、考えるときとセットなのである。「と信じ、考えるときには」という表現を、我々は「可能性」として読む。そのように読めば、阿弥陀仏に応答する(念仏を称える)ことは「必然」ではなく、「可能性」なのだとわかる。「南無阿弥陀仏」が可能性であるとはしかし、どういうことなのか。
「南無阿弥陀仏」という称名そのものが、実現し得ない「可能性」である、という事態は、親鸞にとって、「念仏だけを称える人には、回心ということは、生涯にただ一度でなければならないxxix」こと、そして念仏とは称えられるたびに効果を増すのでないことと関係がある(「念仏を称えようとするたびに、その念仏の力が罪を消す、と信じようとするのは、すでに自分で自分の罪を消して浄土に生まれようとはげむものである」xxv)。加えて、回心ののちは、すべての念仏が「感謝」であるとも親鸞は述べる。回心がただ一度である、という時の「一度」には「単位」がないのであり、それゆえ、「のち」も特定の時点のことを意味していないのである。回心としての念仏は、いつも既に称えられたものなのである。現実には感謝としての念仏しかないゆえに、罪を消すのでも、徳を増やすのでもないのである。回心としての念仏、極限の可能性としての念仏、「無声」の念仏ただそれのみが、あらゆる罪を消し、あらゆる徳を与えるのである。もちろんその意味は、実現しない可能性に過ぎないのであるが。
阿弥陀仏の誓いの不思議なお力にたすけられて、浄土に生まれることができると信じて、そうして念仏を称えようと思い立つ心が起きるとき、そのときすでに、阿弥陀仏は、救いにいだかれる恵みをお与えになっておられるのである。xxvi
結論
まず、「善人」と「悪人」の正体を見破るために「難行」と「易行」という対になる修行の比較から考察を始めた。そこから、修行が修行であることを保証する意味の源泉が「目的」であること、そしてその「目的」が不確かであることに唯円と親鸞が気づいていたことを確認した。修行をして何かしら報われようとする人々はそもそも善人であり、「悪人」が可能性の彼方にあるのなら、端的に「善人」でないものはいないことになる。「善人」でしかない我々は、先立っている「阿弥陀」の衝撃をみずからの過去として経験せざるを得ない「宿業」を生きており、先立つ阿弥陀へ宛てた「南無阿弥陀仏」はいつまでも感謝に留まるのみだと知るに至った。
総結論
久しぶりの論文ということもあり、片手落ちといえよう箇所もあるのかもしれないが、私の全力がここに集められたのは確かであり、今現在、これ以上のものは見せられない。良い書き手とは到底言えない私なので、自らがかかずらっている諸問題の醸し出す、あふれんばかりの面白さに手を加えないようにしつつ記述したつもりである。
さて、この論文のテーマは「可能性」と「現実」なのではないだろうか。
どこまでも「可能性」が先立ち、「現実」との間にいかなる近接も許さない、という大分ラディカルな方針で攻めたようだ。
何か探し物をするとき、その時探し出したいもの以外のものがたくさん見つかるという経験をしたことがあるだろう。あなたはこの論文を読む際にもその経験をしただろうか。私としては、すばらしい文章というのはこの経験ができるかどうかにかかっていると思う。極端な話だが、私が今回述べたこととは方向性そのものが異なったアイデアの湧出の手助けになっていればと願うばかりだ。
序論にも同じことを書いたが、この論文に決定的な影響を与えているのは、『根本中頌』、『歎異抄』、『存在の呪縛』である。ぜひ一読していただきたい。
i 桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』2016 十四~十五頁参照
ii 同上 十五頁
iii 同上 十五頁
iv 察しが良いと、龍樹が何を拒んでいるのかこの時点で明らかである。くわしくは二つ後の節「無論から龍樹へ」を待たねばならない。
v 同上 十五頁
vi これは思うに、「書き手」の特権性の問題とも関連がある。たとえば、「書き手」が誰に対して手紙を宛てようとしているのか、という「意図」は、「書き手」自身からすれば「推論」によって明らかになるのではなく、ただ忽然と明らかであるにすぎない。だが、「読み手」の側は「書き手」のそのような「意図」をまさに手紙の内容から「推論」することになる。しかし、どれだけ細を尽くそうとも「書き手」の忽然としたゆえの「推論」のなさ、「明白さ」には届かない。この届かなさを「読み手」の側は誤って、「書き手」自身の「頭」の中には手紙の内容全部が入っていて、それゆえに「推論」というのは「ない」のだ、というように、内容の中に書き手の意図すべてを飲み込んで(還元して)しまうのである。全知全能の存在者はこのようなプロセスで編み出されるのである。
vii この概念ならびに後述する「全くの無でないこと」を、私は『存在の呪縛』(松井吉康 2018)より「学んだ」。しかし、よく知られた名言のように、本来は「学ぶ」のでなく「盗む」のでなければならない。はたしてこの論文における「全くの無」と「全くの無でないこと」が「模倣」に終わるのか「盗み」に昇華されるのか、これは私が言えることではない。
viii 「存在原理」としての「混沌」ではあるが、本来「存在そのもの」と我々が述べたいものも、この「混沌」ではないのだ。詳しくは別の機会に論じようと考えているのであらましだけ述べるなら、「存在そのもの」、つまり「存在の一義性」を存在者の存在様態と比較された「無限性」や「未規定性」として解釈する道は、自己原因への道とほとんど相違ないのである。といのも、後述するように、「存在そのもの」が「存在者の存在」や「存在者」へと通じる経路には断絶があるからである。
ix 以上で龍樹ならびに『根本中頌』の読解は完了したが、理解を深めるための補足を行う。某サイネクラジオにて龍樹は「存在」論の諍いのさなかへ「無」を投じた斬新な思想家である(要旨)と説明されていたが、これはミスリードだ。通例であれば、龍樹あるいは東洋哲学の主流は西洋哲学と比較されるなかで「無を論じている」と説明されることから、このフレーズを当てはめることにほとんど違和感を与えないのだがしかし、我々が確認した龍樹はむしろ、「全くの無」と「全くの無でないこと(存在そのもの)」の徹底的な差異を認識し、「全くの無でない」という「偶然」の真理に自らを位置付けているからだ。
x 『歎異抄』親鸞 石田瑞磨訳 2003年 六頁参照
xi 同上 二十三頁参照
xii 同上
xiii 同上 十一頁
xiv 同上 十一〜十ニ頁参照
xv 同上
xvi 同上 六頁参照
xvii 同上 二十三頁参照
xviii 同上 十八頁参照
xix 同上 十八頁参照 文章を対話的に読むほうが理解を促進させるので私が組みなおした。
xx 同上 三十五頁参照「阿弥陀仏が、法蔵菩薩であったとき、一切のものを救おうとかんがえて、四十八の誓いを立てた」
xxi 同上 十三頁参照
xxii 同上 十四頁参照
xxiii 同上 十三頁参照
xxiv 同上 二十五頁参照
xxv 同上 二十二頁参照
xxvi 同上 四頁参照
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