「夢における感じうるもの」読解––マルク・リシール【論考】

「夢における感じうるもの」読解––マルク・リシール【論考】

風変わりな読解

 マルク・リシールが好んで断片に注目する哲学者だとしても、「夢における感じうるもの」でメルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』[1]の「研究ノート」の中の「夢。想像的なもの」を取り上げたのは素朴に驚くべきことである。一般的にメルロ=ポンティは「知覚の現象学者」とみなされているし、「夢」のような状況が、もちろん短絡的に現実の「写し」とみなすくことはないにしても、とりたてて彼にとって注目すべきことであったとは考えにくいからである。しかしリシールの読解は、メルロ=ポンティにとって「夢のような状況」は根源的な現象であったことを我々に語っている。リシールの読解を追ってみることにしよう。まず「夢。想像的なもの」を全文引用しておきたい。

 夢 想像的なもの 1960年11月

 夢。夢の
 現実的なものに想像的なものを哲学においては理解しがたいことである。–––– というのも、こうした哲学にあっては、こうした全てがどのようにして同じ意識に属するのかということが、理解されねばならないことになろうからである ––––
身体の側から夢を理解すること:身体なき世界内存在、「観察」を欠いた世界内存在、あるいはむしろ重さのない想像的身体をともなった世界内存在として。想像的なものを身体の想像的なものによって理解すること ––– したがって、観察でとしてではなく、観察や分節化された身体がその特殊な異本であるような〈存在〉の真の制度として。
––– 夢のうちにキアスムの何が残っているのか。
外的に感じうるものの内的な複製があると言われるような意味で、夢はあるのだ。夢は世界が存在していないいたるところで、感じうるものの側にある ––– これこそフロイトの語っているあの「舞台」、あの「劇場」、あの私たちの夢幻的信念の場なのである。––– それは「意識」やその想像でもてあそぶ狂気ではないのだ。

 夢の(そして不安の、また全ての生の)「主体」、それは、つまりとしての身体である。–––
身体はものであるがゆえに、われわれがそこから出ていく囲い、「一種の反省」。

『知覚の現象学』386−387頁。訳語は適宜変更した。

 何を言わんとしているかだけでも読み取るのが恐ろしいほど難しい『知覚の現象学』の夢に関するノートをリシールはどのように読み解くのか(引用は『フッサール「幾何学の起源」講義 付・メルロ=ポンティ現象学の現在』から)。

 いくつかポイントがある。夢は「〈存在〉の真の制度」であり、「夢の(そして不安の、または全ての生の)「主体」」は「、つまり〔enceinte〕としての身体である」というメルロ=ポンティの言葉をどのように理解するべきなのか。夢の中にある身体〔Körper〕なき世界と身体なき主体、すなわち生き生きとした身体〔Leib〕とはどのようなものなのだろうか。「重さのない想像的身体」とは何を意味するのか。メルロ=ポンティは何に気付いていたのか。

 そんななかで、リシールは極めて風変わりな読解をする。つまりこの想像的身体を想像された身体ではなく、「身体と現実のエポケー」のようなものの中で残り続ける生き生きとした身体〔Leib〕として読み解くのである。物的身体が消失したところで生き生きとした身体が復活するのである。それゆえ夢には「感じうる〈存在〉」があることになるわけだ(しかしながら「「〈存在〉〔l’Être〕の真の創設〔Stiftung〕」ーー私はこれを〈存在〉〔il y a〕の真の制度化〔institution〕と訳す」(332頁)と言っていることに注意しなければならない。つまり夢が根源的だとしてもそこには制度化があるのであって、その制度化はすでに存在論的なのだ。『射影する現象学』はこの考えを引き継いている)。このような反転によって「これこそがフロイトの語っているあの「舞台」、あの「劇場」、あのわれわれの夢幻的信念の場なのである」というメルロ=ポンティの言葉の意味も含蓄に富んだものとなる。「舞台」や「劇場」は、たとえそう見えるにしても、現実の単なる「複製」を表しているわけではなく、それとは別に感じうるものと感じる者がいることを示唆しているのである。

 つまり「夢における感じうるものは・・・世界が外部の感じうるものによって凍えさせられて存在しない場所に、存在する」(334頁)。しかしどのようなものなのか。なるほど「夢はすべての客観性とすべての物体化をおのずからエポケーして」(351頁)おり、「生き生きとした身体と世界との根源的な共犯性を暴露している」(351−352頁)。だからこそ「夢はわれわれ(リシール)が世界−の-諸現象と名付けるものの根源的な多様性を露呈している。これが結論とな」(352頁)るわけだ。この多様性は単一性のエポケーのことであり、身体〔Körper〕の単一性、世界の単一性のエポケーである。「複数の生き生きとした身体と複数の世界」(同頁)がある。かといってそこでも一対一関係なのではなく、多数性を通した関係がある。身体と世界の単一性を介した同一性(非−差異)は、少なからずメルロ=ポンティの思想に含まれる難点だと思われるが、その点をリシールは持ち上げて批判しない。むしろ、その状況での「存在の破裂」(VI,318)や「複数の入り口がそこで互いに交錯する存在の縁」(VI,314)[2]というメルロ=ポンティの言葉を肯定的に受け取るのである。つまり後期メルロ=ポンティは、一般に考えられていることとは違って存在論者ではないのであり、彼はその縁(そして縁以上にはなりえない)の現象を考えていたのである。

 まずこれらを要約してみると根本的なリシールの主張は極めて単純である。すなわち、夢の世界や夢の中の主体を知覚的世界の派生態として考えるのではなく、夢の世界や夢の中の主体の生成から知覚的世界や主体を考えるべきだということ、それと相関して、身体における次元でも、我々が普段考えている身体、つまり身体における物的側面(LeibkörperにおけるKörper)から考えるのではなく、逆に生き生きとした身体(LeibkörperにおけるLeib)の方から身体性について考えるべきだということである。

 このような主張は、現象学的な観点からみれば突拍子もないことではないにしても、このことを思考することは想像以上の難しさがある。すでにメルロ=ポンティの表現だけでも難解なのだ。キアスムや襞という表現が言わんとしていることはどのようなことなのか。手袋の比喩のいわんとするところはなんなのだろうか。そこにかぶさるようにしてリシールの表現の難解さがある。「世界-の–諸現象〔phénomènes-de-monde〕」というヨーロッパ言語の中でこそ意義のある概念をどう理解するべきなのか。つまり、ここで「現象」が複数形なのは単数形の「現象」に対する反逆なのだ!そこから現象学的多様性〔pluralité〕も理解しなければならない(一般にこれは複数性と訳されるが、もちろん数学的な意味での一に対する複数を意味しているわけではない。それゆえ多様性と訳したのだが、数学的な数がないところで一体何を意味するのだろうか)。さらに多様性が世界の多様性につながり、生き生きとした身体の多様性につながるならば、それらの現象をひっくるめて諸現象の性質を理解しなければならないのだ。

空想と身体〔Leib〕、空想統覚

 「夢における感じうるもの」は『射影する現象学』(2000年)に大幅に改稿されて掲載されている。特に変更された点と言えば「空想」の観点を導入したことだ。そうすることでメルロ=ポンティに対する批判的な視座もはっきりと浮かび上がってくる。いくつか興味深い点を抜き出していきたい。

夢の中で、現象でしかないもののように生き生きとした身体は、現象学的にいわば純粋な状態で点滅する〔clignoter〕。それはゼロ点〔Nullpunkt〕のように、つねにそれ自体空間化しつつあるなかでの空間化〔spatialisation〕の母体として。そして志向的な「きずな」は最も原初的なものであり、空想の統覚の中で、空想の現出と空想の「対象」をつなぐ。ーーというのもこの意味においてのみ生き生きとした身体が空想の中に「存在する」といえるからである。

PE, 304

 つまり生き生きとした身体そのものは志向性の外部である。その外部を母体として空想の統覚が空想の現出とその対象を繋ぐ。つまり生き生きとした身体はその紐帯なのである。

 著作では論文の最後から、2ページにわたり文章が付け足されている(pp. 304−306)。そこでは空想の観点を導入して、夢に関してさらなる検討が施されている。

 これまでの分析を振り返ってみると、夢の空想の諸統覚は身体物体〔Leibkörper〕への囚われから解放された生き生きとした身体の身体性〔Leiblichkeit〕を伴って持続的に現れるということになったが、そうなるとメルロ=ポンティに最後まで付き従うのはおそらく無理があるだろう。彼の説に従うと、「自己」の「反省性」のようなものを生き生きとした身体に割り当てることになる(たとえそれが匿名であろうとも)。

PE, 304-305

 つまりメルロ=ポンティの分析に中には生き生きとした身体に自己性(自体性)を認める態度がある。それゆえに彼の主張では身体と世界とのキアスムが生じることになるわけだ。しかしながら〈それ自体〉という考えは身体物体を前提としてしかありえない。つまり、彼の主張の中には以前として身体物体の制度が存在しているのである。

 生き生きとした身体には自己=自体性は含まれない。それこそ匿名性で言いたいことなのである。しかしながら理解するのが困難なのは、この匿名的な生き生きとした身体は〈それ自体〉を持たないということである。匿名的である生き生きとした身体は自らを反省することはない。なぜなら自ら〈それ自体〉を持たないからである(この「それ自体」は諸現象の限界づけられない多様性を覆い隠してしまう抽象化でしかない(PE, 305))。それではそのような体験はどのようなものとなるのか。

そういうわけでその体験は物的身体に位置づけられないし、メルロ=ポンティと同じく、その体験は私に対しても他者にたいしても、見えず、触れられず、感じられないものであるということになる。ーー内的知覚は現在で時間化する連続的な流れの時間の知覚でしかなく、原的印象で時間点を停止させている。

PE, 306

 この物的身体のどこにも位置づけられないという生き生きとした身体の性質(匿名性)が困難を生じさせるわけだが、しかしながら、そのにおいて、何かが生じている。その生じているものによって空想の統覚の位置づけもはっきりすることになる。

少なくとも最初の概略では、匿名的なものはまさしく空想の現出によって構成されており、単一的な自己にかかわるものは空想の統覚によって構成されるのである。つまり後者は「志向的な作業」によるものであり、それは夢の中で止むことなく続けられており、それゆえ眠っている時でも、フロイトの言った夢の「思考」に沿って続けられているのである。ーー実際統覚は常に統覚する自己〔ipse〕を前提としている。そうはいっても、それ自体は対象の志向的意味のフッサール的な付与〔donation〕という意味で直接的なのだから統覚は解釈なのだということを言っているわけではない。というよりも自己自体は制度に属しており、身体物体の制度に伴うのだ。

PE, 306

 要するに空想の統覚は、志向的な作業を介して生じるのである。しかもその志向的な作業自体は知覚的でもある。「知覚的統覚の制度はただ現在の制度というだけでなく、その内容の制度でもある。その内容というのは、まず最初に現在の時間化によって即座に覆い隠される空想の統覚のある特別なタイプなのだ。現在の時間化は、いわば、開かれた感覚〔Empfindung〕の力を借りて、自らを持続的にさせるのに成功する」(PE, 306-307)。さらにそこにはまずもって空想の内容、つまり空想の現出の知覚的な制度化がある。つまり現出がフッサール的なファンタスマになるということである。空想の現出から空想の統覚へ、そういった移行の現象が夢の制度の中に確認できるのである。

夢と現象学

 夢を探求して見えてくるのは、現象学的に重要な生き生きとした身体の存在である。身体性は身体物体が作動している時(つまり起きている時)でなくても作動している。しかしながらそれを考えることは極度に困難である。というのもそれは空間化の母体のようなものであり、見えず、触れられず、感じることのできない身体だからである。ということは、メルロ=ポンティが指摘したのは、こういった生き生きとした身体が世界との紐帯(架け橋)となるということだろう。それが夢の中で垣間見えるわけだ。夢の中にも世界と身体があるとして、いったいどこからそれはやってきて、どのようにして「夢の舞台」を作り出すのか。世界と身体とのキアスムが存在するなら、生き生きとした身体の身体性がその母体となるというのがその答えだろう。そこからあらゆる制度が網目のように折り重なることになる。まずフロイトが夢の「思考」と名付けたもの。これによってまさに「夢の舞台」が築かれることになる(しかもここには時間化した過去も含まれているのがフロイトの分析だ)。そこで空想の統覚は生じると同時にある論理のなかに埋め込まれることになる。さらにそれらに重なるように志向的な制度、つまり知覚的な制度も生じてくる。それゆえに、夢の中で「私は何かを見たり感じる」ことになり、夢の中をあたかも知覚的な世界の写しであるかのように生きることになるのである。

 してみると、現象学的領野に対して夢はまだ序の口だということである。夢において感じられる部分よりもより深い層がある。明らかに身体物体のエポケーがあるにしても、そしていつでもある謎を残しているにしても、夢の世界はなんらかの形で志向的である。しかしながらその世界を作り出すのは、知覚的な秩序であるというよりもフロイト的な「思考」であることに注意しておこう。その意味で言語の方が実のところアルカイックだと言える。とはいってもここでも言語は文法言語ではなく生成しつつある意味の言語を示している。つまり概念が問題となっているのではなく「思考」が問題なのだ。言語におけるアルカイックな層を探求してみる必要がある(リシールが間主観性の問題に突っ込むときに神話論理を持ち出すのはおそらくこのためである)。そこから世界の諸現象であったり言語生成の外部の世界といったものも現象学的に位置付けられることができるだろう。

 しかし、最初の章でいった多様性の具体性をどのように考えるべきかという難点に対しては依然として問題が残っている。というのも、どう考えても、そこに一般的な意味での具体性はないからである。ここでは見えるもの(統覚)が問題となっているのではなくて、見えないもの(リシールの言葉を使えば裂開統覚〔entre-aperception〕)が問題となっているからである。現象学的多様性ということでどのようなことが問題となっているのか。暫定的にここでは「不一致」と答えておきたい。つまり生き生きとした身体と別の生き生きとした身体は、それを覆う膜のようなものがないばかりでなく一致もしない。それゆえ世界が一致することもないのだが、〈それ自体〉という現象はエポケーされているのだから、この不一致は一致を目指して彷徨う運動して理解しなければならない(夢においては、厳密にいえば「自己」の作動があり、それゆえこのような生き生きとした身体の運動は覆い隠されている)。不一致の一致を目指して彷徨う運動、それはアンドロギュノスのようなものである。もちろん一致するということが制度なのだから、一致することによって現象学的な身分から脱落するという風に理解する必要がある。また言語活動おける違和感のようなものも不一致の確証だろう。このようにして、全く具体的ではないにしても、夢よりさらに深く現象学的な基盤を掘り下げていく必要があるのである。

脚注

[1]Le visible et l’invisible [VI], texte établi par Cl. Lefort, Paris, Gallimard, 1964.

[2]ただしみすず書房の翻訳では「存在者の縁」となっている。原語は Être なので「存在」という翻訳が正しく思われる。

参考文献

モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』滝浦/木田訳、みすず書房、1989年(Le visible et l’invisible [VI], texte établi par Cl. Lefort, Paris, Gallimard, 1964)。

Le sensible dans le rêve, Merleau-Ponty – Notes de cours sur l’Origine de la Géométrie de Husserl – suivi de Recherches sur la phénoménologie de Merleau-Ponty, R. Barbaras – P.U.F., Coll. Epiméthée, 1998 – pp. 239-254「夢における感じうるもの」伊藤泰雄訳(『フッサール「幾何学の起源」講義 付・メルロ=ポンティ現象学の現在』)法政大学出版局、2005年、331−352頁。

Marc Richir, Phénoménologie en esquisses. Nouvelles fondation[PE], J. Millon, 2000.(『射影する現象学ーー新たな基礎づけ』)

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