『人間本性論』の紹介

『人間本性論』の紹介

はじめに

 1739-1740年に出版されたヒュームの『人間本性論(全三巻)』(A Treatise of Human Nature)は、人間に関して興味があれば、どんな人でも理解したいと望むであろうこと、すなわち、人間本性そのものを題材とした哲学書である。『人間本性論』の序論は、彼が「実験的推論法(experimental method of reasoning)」と呼んだものを、なぜ哲学(今でいう自然科学や人文社会学を含む学問一般のこと)へと導入すべきなのかということから始まる。それから、精神ないしは思考の基礎的な諸原理を規定した後に、時間空間、因果関係、必然性、外的存在、人格の同一性の観念の本性と起源への探究へと乗り出す。これが、第一巻「知性について」の大まかな題目だ。そして、第二巻「情念について」では、第一巻の探究の成果を踏まえつつ、誇り(pride)、卑下(humility)、愛情(love)、憎しみ(hatred)など様々な情念が、様々な人や事物との関係の下で、どのように作用し、行為の動機となり得るかを論じている。そして、その後に、現代でも色あせることのない自由意思の本性についての議論が収録されている。最後の第三巻「道徳について」では、徳(virtue)と悪徳(vice)の道徳的区別の本性と起源についての探究が試みられている。ヒュームの道徳に関する探究は、事実と価値の判断様式を分離する「ヒュームのフォーク」の議論で有名だが、私たちがそれに基づいて判断し、行為するところの善悪の区別が、どのような観念に基づいており、何からどのようにしてそれが生じるのかという問いが根底にある。第一巻から三巻まで共通して、「本性と起源」と繰り返してきたことから分かるように、『人間本性論』は、それまで哲学の諸原理となってきた諸観念がどのような観念であり、そしてその観念が人間本性の何に由来するのかという探究を介した、哲学における数々の難問への挑戦であり、人間本性の究明の試みだと言えよう。

魅力

 では、そんな『人間本性論』の何が面白いのか。個々の議論が知的に面白いのは勿論のことだが、何よりもやはりヒュームの知性、情念、道徳の議論と懐疑論とのせめぎ合いがもたらす知的格闘を見るのが面白い。現代のヒューム研究者の間ではあまり見かけない見解だが、『人間本性論』が出版されてから20世紀に入っても、ヒュームは「破壊的な」懐疑論者と見なされていた。時代ごとに、どういった理由でヒュームが破壊的な懐疑論者と見なされたのかは異なるが、要するに、因果関係、客観的対象、人格、自由意思、価値等の実在性を否定し、それらが虚構に過ぎず、いかなる確実な知識も存在しないと主張したと考えられていた。しかし、もし、ロック、バークリーと続く経験主義の帰結としての懐疑論を展開しただけであるならば、ヒュームは当時の他の思想に比べて特に目新しいことを言ったわけではない。例えば、既に類似した懐疑論は17世紀のデカルト主義者やバークリー、ピエール・ベール等によって展開されていた。そして、ヒュームはただ既になされた議論を繰り返しているわけではないからこそ、私たちを魅了するのだ。『人間本性論』の編纂者であるノートンは、そうした状況を踏まえ、ヒュームをポスト懐疑主義の哲学者(post-sceptical philosopher)[1]と呼んでいる。

 では、ヒュームの懐疑論とはどのような議論なのか。ヒュームは自らの懐疑論を『人間知性探究』の中で「緩和された懐疑主義(moderate scepticism)」[2]と呼んでいる。この緩和された懐疑主義の解釈からこそが論文のような記事であれば本題になるであろうが、これ以上は今回の目的を超えてしまうため、深入りするのを差し控えよう。とにかく私が『人間本性論』で面白いと感じたのは、ヒュームが懐疑的な議論との知的格闘を経た後に、懐疑を理性によって解消したり消し去ったりするのではなく、緩和して残すという態度を採ったところにある。この緩和された懐疑論が何を意味するのかは、実際に読んでみて読者自信で解釈してみてほしい。私が思うに、ヒューム以上に人間知性の弱さを包み隠すことなくさらけ出し、真っ向から向き合った哲学者は、後期のヴィトゲンシュタインが現れるまでいなかったのではないだろうか。[3]ヒュームは常に懐疑と共に歩む哲学者である。そしてまた、この緩和された懐疑主義の解釈が、最初に述べた「実験的推論法」と直結し、『人間本性論』全三巻を一貫して読むための紐帯ともなり得よう。もし、これから『人間本性論』を読もうとする読者がいれば、ぜひ懐疑論との格闘の末、あなたなら懐疑論に対してどういう態度を採るか考えながら読んでみてほしい。

 今回私は、懐疑論という側面から『人間本性論』を紹介したが、それは私の関心が人間の知性やヒュームの方法論に関心があったからだ。これは一つの見方に過ぎないだろう。『人間本性論』をまったく別の観点から読むことは十分にできる。そうした度量のある懐の深い書物であることは間違いない。しかし、私は、現代に生きる読者にとって、『人間本性論』から、懐疑し、そこから何かを引き出す力を学び取ることが重要な意味を持ち得るのではないかと感じている。膨大な情報が溢れることに比例して、誰もが共有して持ち得る共通の知識や価値の力が削がれ、拡散力のある情報が力を持ってしまう知の戦国時代のような現代にこそ、必読の書ではないだろうか。

参考資料

Hume David, [1739-40], A Treatise of Human Nature, edited by D. F. Norton and M. J. Norton, Oxford: Oxford University Press, 2000.

Hume David, [1748], An Enquiry concerning Human Understanding, edited by T. L. Beauchamp, Oxford: Oxford University Press, 1999.

D. F. Norton, [2000], Editors Introduction: A Treatise of Human Nature, edited by D. F. Norton and M. J. Norton, Oxford: Oxford University Press, 2000.


[1] D. F. Norton, [2000], Editors Introduction: A Treatise of Human Nature, edited by D. F. Norton and M. J. Norton, Oxford: Oxford University Press, 2000. pp.I13.

[2] Hume David, [1748], An Enquiry concerning Human Understanding, edited by T. L. Beauchamp, Oxford: Oxford University Press, 1999. pp.84. この言葉自体は、ヒュームが『人間本性論』を理解しやすいように書き直したと言われている『人間知性探究』の中で登場する言葉だ。ヒュームの『人間本性論』と『人間知性探究』が思想的に地続きのものか、という点には議論が必要かもしれないが、ここでは『人間本性論』と『人間知性探究』を思想的には変わっていないものとして扱う。 

[3] この見解は、私の見識が狭いゆえのものであるが、もし懐疑論に対して何か面白い見解を持つ思想家、哲学者がいれば教えて頂きたい。

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