現象学運動史におけるサルトル

現象学運動史におけるサルトル

現象学運動史

 連綿と(一応現代まで)続いてきた現象学だが、その歴史は一般に現象学運動史と呼ばれている。しかも世代ごとに区分分けもされていて、2000年代まで生きていた世代は第三世代の現象学者だ。仮に今活躍している世代の現象学者が歴史に名を連ねることになるならば、彼らは第四世代の現象学者と呼ばれることになるだろう。

 こういった現象学の歴史を描き出すうえで、現象学運動の特徴を見出すことができるだろうか。現代によく知られている思想家でフッサールハイデガーに言及している哲学者は意外にも結構存在する。デリダは現象学(というよりフッサール)批判から出発しているし、思弁的実在論という形で一般に知られているカンタン・メイヤスーも、『有限性の後で』で現象学批判(主にフッサール、ハイデガー)を行っている(詳しくは【思弁的実在論とは何かー『有限性の後で』を中心に*なるほう堂】を参照)。しかし現象学を批判したということで現象学の歴史に属さないと言うことができるだろうか。

 実のところ、現象学者と呼ばれる人でフッサールを批判しなかった人はいない。皆フッサールに対する信仰は持っていないのである。フッサールの弟子であるフィンクでさえ、ハイデガーの影響を受けて、フッサールを乗り越えようとしていたのである。つまり、現象学を批判したからといって現象学運動史に名を連ねられないというわけではない。

 そもそもハイデガー が登場して以来、ある種の主観主義や現前主義、理性主義みたいなのに対する拒絶は哲学の中で一貫した主流であった。その流れの中に、現象学者と呼ばれる人もそうでない人たち(フランス現代思想として一般に知られている人たち)も身を投じていたのである。その意味で、そういった人たち全員がフッサールに備わる主観主義的な側面を批判していたのである。

 もちろんフッサールの思想全てを批判したわけではない。メルロ=ポンティなどは肯定するところは肯定した。例えばLeib(生き生きとした身体)というKörper(物体的身体)とは異なったフッサールの概念を自分の哲学にも取り込んだりした(フランス語にはこの区別はない)。だからメルロ=ポンティに関して言えば、フッサールの哲学を批判的に継承したと言うのが状況を最もうまく捉えていることになる。

 現象学者と呼ばれるの人たちはこの方向性をとった人たちが多い。フッサールにある程度はシンパシーを感じ、フッサールの良いところを自分の哲学に取り込んだのだ(例えば志向性)。メルロ=ポンティとかレヴィナス(他者と責任論はこちら)がそうであるし、彼らは現象学という言葉を最後まで捨てなかった。

 しかしフッサールの哲学に対する姿勢には感銘を受けるけれども、哲学に関してはまったく受け入れらない態度を示したのがマルク・リシールである。彼はフッサールの志向性概念を全く受け入れない。しかも、あろうことか彼がやるのは「現象学の鋳直し」である。それでは鋳直された現象学とはなんなのか。リシールの答えは「現象学」である。ここにはデリダと対比すると明確な態度の違いが見られる。デリダは『声と現象』の最後で「現象学は知覚の哲学である」と述べ批判し、自ら別の哲学を主張するわけだが、リシールにとって現象学は知覚の哲学なのではなく、空想の哲学である。そして空想の哲学こそが現象学である。デリダは現象学を批判して別の哲学を主張した(そこで自分の哲学とは・・・だと主張しなかったので、「ポスト構造主義」だとかなんとか区分されたわけである)。リシールは現象学を批判して現象学を主張した。

 つまり現象学史に名を連ねるにあたって、フッサールの現象学を継承する必要さえない。最も大事なのは現象学の歴史を背負って「現象学」をしていると主張することなのである。デリダが自らは現象学者だといったら、それはそれで現象学者と認められたはずなのだ(少なくともフッサール批判から始めたわけだから)。現象学であると主張することがまず持って必要なことなのである。

フランスの第二世代の現象学者の場合

 そうはいってみたもののある程度の特色を認めることはできるわけで、そのぼんやりとまとまりのある特色・定義に従って、現象学史に関する本が出版されている。

 有名なのが H・スピーゲルバーク『現象学運動』である。ここではフッサール以前から取り上げることにより、ドイツとフランスの現象学運動を概観している。まず登場するのがブレンターノで次がシュトンプだ。シュトンプは一般に現象学者とみなされていないが、自らの哲学を「現象学」と名乗っており、よく知られていないのは、フッサール以上に影響力がなかっただけである。

 次にフッサール、ニコライ・ハルトマン、ハイデガーがきて、第三部でフランスの現象学が取り上げられ、ガブリエル・マルセル、サルトル、メルロ=ポンティ、リクール、レヴィナスが主に登場する。ニコライ・ハルトマンなどはピンとこないが、だいたい現象学者として取り上げられるのはこのメンツだろう。

 周知のように、現象学はドイツからフランスへ輸入された。フランスでこそ現象学が花開いたといっても過言ではない。第二世代の現象学者にはオイゲン・フィンクやヤン・パトチカなどが名を連ねることになるけれども、それよりもメルロ=ポンティやレヴィナスの方が圧倒的に知名度が高い。

 ヴァルデンフェルス『フランスの現象学』は主に第二世代の現象学者を扱った著作だ。そこではサルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、リクールがそれぞれ一章を割いて取り上げられている。小さな枠組みとしてはミシェル・アンリやマリオン、デリダやリシールなども名前も見られる。第三世代の現象学者やその周辺を挙げて、現象学運動とフランス現代思想との対立まで論じている。最後の節題が(確か)「人間の終焉」で、フランス現代思想でいわれる「人間の終焉」は現象学に反対するモチーフのようなものであるが、通俗的な意味では「終焉」などありえないし、深い意味ではメルロ=ポンティなども「人間の終焉」のようなものを語っており、現象学は決して人間中心主義ではなく、内部から乗り越える運動も見出されるというように擁護してこの節を終えている。

 そんななかで、あらたに第三世代の現象学者を中心に取り扱った作品として出版されたのがラズロ・テンゲイ『フランスの新しい現象学』だ。第三世代として主にミシェル・アンリ、ジャン=リュック・マリオン、マルク・リシールが取り上げられ、第1章では彼らの思想の概要がまとめられている。今回注目したいのはその著作の「序章」である。

 序章ではフランス現象学の特色が完結に示されている。簡単に説明しておくと、まずドイツでフッサールが登場しそれをハイデガーが批判することで、ハイデガー主義のような哲学がフランスにどっと流れ込んできた。しかしながらフッサールの死後、彼の草稿などが閲覧可能となると、どうやらハイデガーが批判した点を乗り越えようとした跡が、その草稿の中に数多く見出された。というわけでフッサールはそこまで短絡的だったというわけでもなく、フランスの哲学者はそういった箇所に目をつけて、フッサール思想を取り上げ直そうとした。そのうちの一つが受動性に関する部分である。志向性の意味付与に完全に取り込まれない現象にフランスの現象学者は注目したということなのである。これがテンゲイの見解だ。

 さて、ここで面白いことを目にするのだが、そこで現象学者に数えあげられているのだが、メルロ=ポンティ、レヴィナス、リクール、ミシェル・アンリ(アンリは第二と第三にまたがる)である。つまり、なにがいいたいかというと、サルトルがいないのである。

 この著作ではさまざまな現象学を含む哲学史を著述した著作を取り上げている。ヴァンサン・デコンブの『同と他』ではサルトルは登場する。ジャニコーの有名な『現代フランス現象学ーその神学的転回』でも確か触れられていた。しかし彼らとは違う仕方でテイゲイのやり方で現象学史を描き出そうとするとき(デコンブ『同と他』では、いかに現象学が構造主義に押しやられたのかを描き出すのが目的であったし、『現代フランス現象学』はレヴィナス、アンリ、マリオンを中心に据えた現象学史であった)、サルトルは消滅するのである。

(a)メルロ=ポンティは『知覚の現象学』において明らかにの現象を認識しており、彼の後期思想では、あらゆる意味付与から隔たった多様な意味形成の進行を指摘している(b)リクールはシンボルの中にある根本的には志向的意識活動にもどっていかない意味の過剰を指摘した(『悪のシンボリズム)(c)アンリが『現出の本質』の中で明らかにしたのは、どのようにして生き生きと条件づけられた生の遂行が志向的意識を介する全ての「脱自的」な世界の開示に先行しそれどころかその世界の開示の条件ともなる情動性の中で告知されるのか、ということであった(d)レヴィナスはもっぱら『全体性と無限』において、全ての固有の意味付与に統一を命ずる他者の呼びかけの源泉としての顔を記述した。

Neue Phänomenologie in Frankreich, SS. 23-24

 サルトルの記述がない。どこにいっちまったんだサルトル!

サルトルの場合

 テンゲイはこのような第二世代の現象学者の方向性が「フランスの新しい現象学にみられる根本的な傾向」のうちに含まれているという。つまり、第三世代とよばれるマリオンやリシールのような現象学者は、少なくとも彼らの方向性を継承したのだ。(どちらかというと志向性の内部での受動的な側面を第二世代は好んで主張したように思える。(メルロ=ポンティもレヴィナスも一応サルトルも、志向性という概念に対してはかなり肯定的な評価を与えていた。))しかしその中にサルトルはいない。

 それではサルトルの著作を追ってみることにしよう。するとなぜテンゲイがサルトルを追放したのかが分かってくる。

 ヒュレーという問題圏について注目してみよう。彼は『想像力』(1936年)の最後でヒュレーについてつぎのように語っている。「像(image)が能動的心的綜合であるという事実は、ヒュレー(素材)の変様をともなうのか、それとも単に結合の型が変わるだけなのか」(邦訳、162頁)。ヒュレーがもし想像と知覚で同じものなら、根本的な差を見つけるに至らず、哲学に蔓延っている区別(想像は知覚の劣化)に舞い戻ってしまう。最終的には「おそらくイメージの素材そのものが自発性であること、だが低次な型の自発性であること、までも必要であるはずだ」(163頁)と結論づける。この書物では断定するまでには至っておらず、今後も研究が必要とされる。

 何が言いたいのかというと、想像におけるヒュレーは自発性と一致するのかという問題である。ヒュレーというのはフッサールの枠組みで言うと受動性の領野に属するわけである。するとヒュレーと(サルトル的な)自発性が両立するのは矛盾していることになる。そういうわけで、サルトルはまだ断定はできないけど、素材=ヒュレーも自発性なのではないか?と主張しているわけである。

 とりあえず今後も研究が必要らしいのでどこかで彼の結論が描かれるはずだ。しかし次の『想像的なもの』(1940年)では言及されず、どういうことかと疑っていると、突如として『存在と無』(1943年)登場し否定されるのだ。

フッサールはノエシスに受動性を導き入れることによってそれらの異論を避けようと試みた。それが、ヒュレーもしくは純粋な体験流と、受動的綜合の質料である。しかし、結局、フッサールはわれわれが今述べた困難にさらに一つの余計な困難を付け加えたにすぎない。・・・ヒュレーに事物の性格と意識の性格とを付与することによって、フッサールは事物から意識への移行を容易ならしめたと信じた。しかし彼は、単に一つの雑種的存在を想像しえただけであって、かかる存在は、意識の方からも忌避され、また世界の一部をなすこともできないだろう。

『存在と無』ちくま学芸文庫、49-51頁

 簡単にいうと、主体の意識の基礎は完全な自発性にあるので、意識の受動性などありえないということなのである。

 ちょっと一人だけ感覚が違うわけである。ハイデガーでさえ絶対的主観性のようなものを忌避したし、その後のメルロ=ポンティやレヴィナスは志向性に一定の評価を与えたにせよ、それはその中に含まれる受動性に注目したわけであって、メルロ=ポンティの「作動的志向性」とはそういうことなのだ。だから彼らが注目したのは主体的意識に包摂されない、身体であったり他者であったりしたわけである。それなのに、サルトルは、素朴である。主体の基礎は絶対的自発性である。なるほど、それは素朴に正しい。しかしそれをエポケーするとかが現象学の精神ではなかったのか?

 そんなわけでサルトルはテンゲイの記述から消えたわけである。その後のサルトルの歩みは皆も知るところだろう。のちにメルロ=ポンティと絶交し、独自の実存主義哲学へ一人荒野を突き進む。しかし1963年レヴィ=ストロースに批判され葬り去れらる。一般的にはそこから構造主義(あるいはフランス現代思想)の時代となる。現象学も同じく影に隠れる。

 どうしてサルトルがそうなったのかはわからないが、ある意味でサルトルは一度も現象学者だったことはない。というも『想像力』だと副題は現象学的心理学だし、『存在と無』だと現象学的存在論だ。「・・・的現象学」と付けなかったのはなにかそういうことかもしれない。サルトルは謎めいた人物なのだ。

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