デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(1)

デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(1)

「私はカメラの眼だ。自分だけに見えるような世界をひとにも見えるようにする機械だ。私はこれから先どこまでも人間の不動性から自己を解放する。私は永遠の運動のなかにいる。事物に近づきそして離れ、その下に腹這いになって進むのだ。[…]私はひっくりかえる。私は飛行機と一緒に高く舞い上がる。空に舞い上がり落下する物体と一体となって飛び、降下する。」

(ジガ・ヴェルトフの言葉、ポール・ヴィリリオ『戦争と映画 知覚の兵站術』(平凡社ライブラリー)、p.60 より引用)

1.『トップガン』の「マーヴェリック化」に抗して

『トップガン』が好きだ。

断じて、先日公開された「新しいほう」(ジョセフ・コシンスキー監督『トップガン マーヴェリック』)ではない。1986年封切りの、原『トップガン』である。監督はトニー・スコット。

・・・とそんな話をすると、私の知る映画ファンの半数は半笑いを浮かべて話題を転換し、もう半数は「じゃあ続編観た?あれは本家を超えたぞ!」とまるでそれが善い行いであるかのように新作の美点を説き始める。

だが、違う。私には、どれだけ周りで評判になろうとも『トップガン マーヴェリック』を観ようという意思はない。私には、『トップガン』(1986)なのだ。

周囲とのギャップを感じる中で浮き上がってきたのは、世間の多くの人々は、『トップガン』(1986)に関し、【印象①】新兵が年上の美人教官と恋に落ちる恋愛=青春映画、【印象②】戦闘機のコックピットに乗り込む臨場感を味わえる航空=戦争映画、【印象③】トム・クルーズのいつに変わらぬ主人公ぶりを堪能できるトム=無双映画、のいずれか、あるいは①~③を包含する印象を抱いているらしいということである。(もしかして、これを読んでくださってる皆さんの中にもいらっしゃいませんか?)

だが、大きな間違いだ。画面をつぶさに見ると、別の姿が見えてくる。

以下は、私が機嫌さえ上々なら誰にでもしゃべる話である。

2. 『トップガン』は「トム映画」ではない

まず、80年代アメリカ映画史を関連のある範囲で振り返ってみよう。

アメリカ映画の1980年代は、1977年に始まっていた。ルーカスの『スター・ウォーズ』(1977)とスピルバーグの『未知との遭遇』(1977)に象徴される、ブロックバスター大作時代の到来である。映画界の新しい活気に刺激され、パラマウント社のドン・シンプソンはジェリー・ブラッカイマーと『フラッシュダンス』(1983)をプロデュースし大ヒット。二人が続けて組んだ『ビバリーヒルズ・コップ』(1984)もヒットを飛ばし、次なる題材を探すうち、「Top Guns」という海軍のエースパイロットたちを描いた雑誌記事を映画化する企画を思いつく。折しも、日本では「愛と青春の」ブーム到来(というのは関係ないが)、『愛と青春の旅だち』(1982)が士官候補生のパイロットと貧しい女性との「身分違いの恋」とでも言いたげなテーマを扱い大ヒットしていた。幸い、新兵募集のPRになると考えた海軍も『トップガン』製作にあたっての全面協力を約束する。

二人のプロデューサーは、主演をトム・クルーズと最初から決めていた。F・F・コッポラ監督『アウトサイダー』(1983)で若手スター候補「ブラット・パック」の一人として注目され、P・ブリックマン監督『卒業白書』(1983)に主演しヒットしたばかり。シンプソンとブラッカイマーはリドリー・スコット監督『レジェンド/光と闇の伝説』(1985)撮影で忙しいトムのスケジュールを無理やり押さえ、リサーチ対象にしていた空母に送り込んで戦闘機に乗せたという。トムはすぐに「やるよ」とエージェントに電話をかけ、結果的に『トップガン』への出演によって大スターへの階段を駆け上がった。

誰がトムを監督するのが良いか?白羽の矢が立ったのは、デビュー作『ハンガー』(1983)をロンドンで撮影したものの酷評されて仕事にあぶれていたトニー・スコット。SAABの自動車と戦闘機が競走するCMを撮った経験が買われ、また当時流行していたミュージック・ビデオ的な映像にも対応できるセンス(「MTV演出」)が評価されたものと思われる(前記『レジェンド』の監督、リドリーの弟だったのも選考にプラスだったかもしれない)。トニーは後に『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987)、『デイズ・オブ・サンダー』(1990・主演トム)、『クリムゾン・タイド』(1995)の3本をシンプソン=ブラッカイマー製作で監督し、シンプソンの死後マイケル・ベイ監督『アルマゲドン』(1998)でハリウッドを支配したブラッカイマーの下でも、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)、『デジャヴ』(2006)を監督している。その長いコラボレーションの起点が『トップガン』だった。

…とここまでの記述だけで、【印象③】「『トップガン』はトム=無双映画」は間違いだとわかると思う。確かに、トムの演じるピート・ミッチェル(コールサイン「マーヴェリック」)は勝ち気で、集団のルールを軽視し、自分の操縦の腕を過信しがちな若者である。しかし、それはむしろありきたりな若者ということであって、例えば「イーサン・ハント」であるわけではない。本作のピートに、『ミッション:インポッシブル』シリーズ(1996-)、特に『ゴースト・プロトコル』(4作目、2011)あたりから急速にアクション俳優化してきた後年のトムの自己成型を読み込もうとする解釈は、遠近法的倒錯に陥っている。

そのことを示すように、『フォールアウト』(6作目、2018)の山場で「お約束」の徹底に身震いするほどの感動を与えたトムの疾走も、『トップガン』には1シーンたりとも登場しない。観客はただ、ピートが悲劇的な事故で相棒を失いどん底に突き落とされた後にゆっくりと卒業式へと「歩み」出せるかどうか、背中を見守るだけなのである。クライマックスの戦闘場面、事故時と似た乱気流にあおられ、”It’s no good”とつぶやきながら戦線離脱しかけるピートの自信の無い表情を、ハッピーエンドの後もなおわれわれは脳裏から消し去ってはならない。

3. 『トップガン』は再表象の映画ではない

『トップガン』を現代の視点から鑑賞して観客が違和感を抱くことの一つは、「なぜパイロットの顔ばかり大写しで撮っているのか?」ということだろう。注意深く見ると、トニー・スコットの演出は、「パイロットの驚愕の表情→予期せぬ場所から現れた敵機の発見」や、「被弾→甲高く鳴り始める計器→墜落を免れるためのパイロットの必死の操縦術」といった、戦闘機のドッグファイトが登場する戦争映画なら常套的に用いられている編集を全く行っていない。

違和感の正体はすぐに突き止めることができる。『トップガン』には、登場人物の視点に立ったショット、いわゆる「主観ショット」がきわめて少ないのだ。パイロットの眼から見える、こちらに向かって飛来する敵機、などすぐに浮かびそうなシーンは全くない。敵機に照準を合わせ攻撃するシーンは繰り返し登場するものの、それが計器に映し出された映像なのか、パイロットが窓越しに見る光景なのか(なぜなら映画内で米軍パイロットはバイザーを装着していないので、見たとすれば肉眼で見ているはずだ)、はたまた超越的なカメラが捉えた何かなのかは曖昧なままである。

例外的に、冒頭のMIG-28(架空の戦闘機)との遭遇で自信を喪失し操縦を離れる、後半のピートの鏡像として現れるクーガーには、機体の揺れる中でコックピット内の妻と子の写真を見つめている主観ショットが二度あるが、これらも異状を訴えているはずの計器等は大幅に捨象されており、リアリティーを生むというより象徴的な心理演出という色彩が強い。

常套的なショット繋ぎの代わりに、戦闘シーンは(イ)パイロット達の顔の大写し、(ロ)戦闘機が舞うさまを近くの空中から捉えた映像、(ハ)戦闘機自体から地面や空を捉えた映像、(ニ)空母の司令室にいる人々の映像、の4種をバラバラに繋ぎ合わせることで構成されている。このことによって、『トップガン』を鑑賞することは本作のポップなイメージから考えると異様な程に前衛的な映像体験となっている。それはもちろん、最初に観た時の私を含めた一般の観客に「誰がどこにいるのか、どこで何をやってるのか、全然ワカラン…」という漠とした感想を抱かせるリスクを負うことになる。

これは何なのか?まだ監督2作目で、実質ハリウッドでの初仕事と言ってよいトニー・スコットは、演出に失敗したのか?凡百のMTV出身監督の映画に散見されるように、瞬間瞬間の映像の快楽に流され、全体像を提示する力量がまだ足りなかったのか?『スパイ・ゲーム』での3つの戦争の回想と現在が何度も行き来する語りの時制をフィルターの色分けで示したり、『デジャヴ』の時空間が捩れるような複雑なストーリーを涼しい顔で語り切ったりしたあのトニー・スコットには、この時成り切れていなかったのか?

私はそうは思わない。ケニー・ロギンス「Danger Zone」が爆音で流れる中戦闘機が離陸していくアイコニックな冒頭をはじめ、空母関連のシーンはオレンジのフィルターで、ケリー・マクギリス演じるシャーロットとのロマンスシーンは青のフィルターで、という処理は既に行われているし、的確である。何より、例えばピートが初対面のシャーロットを口説いて話をするシーン等、地上での場面は恐ろしいほどに切り返しのショットが安定しており、位置関係を失調することが全くない。明らかに、空中戦のシーンが別の演出プランで組み立てられているとしか思えない。

大きな要因として、撮影上の制約があったことは確かだ。(イ)~(ニ)のうち、カメラ位置を動かす自由が演出チームにあるのは(ニ)だけである。(ロ)は撮影専用機を飛ばし、(ハ)はカメラを固定した戦闘機を実際に離陸させて撮っている。そして、俳優に操縦させるわけにはいかなかった以上、戦闘機で撮影したシーンでは俳優たちは現実には先頭ではなく二番目の座席に乗っているし、カメラマンに乗り込ませるスペースはないし、(イ)の映像でしのぐ以外の道はなかったに違いない。(実情からすると、俳優たちが飛行機での撮影に耐えられず、スタジオでの別撮りで済ませた素材があるのを誤魔化すため窓の外の空があまり映らない構図を取っている、という部分も大きいと推察される。戦闘機の揺れの多くは、スタッフが人力で揺すって作り出したという。)

しかし私には、現実との妥協にとどまらない信念が感じられる。それは、超音速・4Gの世界を簡単に再現できるものではないし、するべきでもないという映像倫理だ。映画の冒頭、ピートは相棒・グース(アンソニー・エドワーズ)と共にMIG-28に遭遇するが、それは何の前兆もなく、不意打ちのような形で訪れる。中盤で彼らを襲う悲劇にしても同様で、ピートが台詞を言い終わって1秒も経たないうちに、会話の相手は命を落としている。最後の戦闘はこうした演出を積み重ねた果てにあり、整理のつかない出来事・突然訪れる死の可能性の集積としてドッグファイトを描いている。そのためには、冒頭で引用したジガ・ヴェルトフの言葉にあるように、何者の視点にも帰属しない、運動そのものとなって空中を漂うカメラを通して描かれることが相応しい。

後年、『クリムゾン・タイド』、『スパイ・ゲーム』、『デジャヴ』や遺作『アンストッパブル』に至るまで、トニー・スコットは映画内に、全ての情報を集約する「司令室」を執拗に登場させ続けた。しかし、彼の描いた最初の「司令室」、『トップガン』に出てくる空母の司令室だけは、指揮官が位置の座標を尋ね技師がレーダーを見て数値を答えるのみで、「マーヴェリック」への出撃命令を除けば何の有効な指示も出していない。トニー・スコットは「司令室」の空転を描きたかったのではないか。彼が『トップガン』の企画を聞いて最初に着想したのは「空母上で展開する『地獄の黙示録』」だったとBlu-rayディスクの音声解説で冗談交じりに述べているが、その初志は意外なほど貫徹されているのかもしれない。

以上から、『トップガン』は観客をしてパイロットに感情移入させ作品世界に没入させるような、手に汗握る臨場感満点の映画だ、という誤った印象(=【印象②】)については、修正をかけられたのではないかと思う。ピートが敵機と猛スピードですれ違う場面も、主観ショットではなく、窓外の敵機を見送るピートの表情も含めて捉えるショットで演出されている。しかし、『トップガン』が類い稀な点は、それでもこの戦闘シーンが言いようもなく「リアル」だということだ。前述したBlu-ray音声解説で、映画にアドバイザーとして参加した軍人二人は、このシーンで敵機が急激に小さくなっていくスピードをリアルだとして賞賛していた。この場面のリアルな質感に代表されるように、『トップガン』には、主観ショットでの再表象(再現前)という戦略とは異なる、客観ショットの集積で現実の混沌に対峙しようとする倫理が感じられる。

後編 : デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(2)

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