概要
『グラン・トリノ』は、2008年に公開されたアメリカの老人ヒューマン映画。監督はクリント・イーストウッド。
批評家の評価も興行収入も高かったが、アカデミー賞を受賞するには至らなかった。
妻を亡くし子供からも見放された老年男性が、近所の中国人と交流するうちに奇妙な関係を築いていく物語。
クリント・イーストウッド監督は他に『運び屋』がある。
映画は他に『エターナル・サンシャイン』『フォレスト・ガンプ/一期一会』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』などがある。
登場人物・キャスト
ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド):頑固で偏屈な老人。妻を亡くし一人で暮らす。朝鮮戦争の帰還兵で、戦争で犯した罪の意識に苛まれている。
タオ・ロー(ビー・ヴァン):少年。中国系移民。コワルスキーの隣人。スパイダーに命令され、グラン・トリノを盗もうとする。
スー・ロー(アーニー・ハー):タオの姉。助けてもらったことをきっかけにコワルスキーと親しくなる。
ヤノビッチ(クリストファー・カーリー):神父。コワルスキーの妻の遺言に従って彼を気に掛けている。
スパイダー(ドゥア・モーア):タオとスーのいとこ。モン族のストリートギャングのリーダー。グループに入らないタオに嫌がらせをする。
ミッチ・コワルスキー(ブライアン・ヘイリー):コワルスキーの長男。コワルスキーに反感を持っている。
スティーブ・コワルスキー(ブライアン・ホウ):コワルスキーの次男。
カレン・コワルスキー(ジェラルディン・ヒューズ):ミッチの妻。コワルスキーのことが苦手。
アシュリー・コワルスキー(ドリーマ・ウォーカー):ミッチの娘。不謹慎で礼儀知らず。コワルスキーに嫌われている。
マーティン(ジョン・キャロル・リンチ):イタリア系の床屋。友人。コワルスキーと悪態をつきあう。
(他の出演作:『ゾディアック』)
トレイ(スコット・リーヴス):白人の少年。スーと一緒にいるところを不良たちに絡まれる。
名言
コワルスキー:どうにもならん身内より、ここの連中の方が身近に思える。全く情けない。
コワルスキー:私の心は安らいでいるよ
あらすじ・ネタバレ
ポーランド系アメリカ人のコワルスキーは、妻の葬式に出席していた。息子夫婦の陰口や孫の礼儀の無さに呆れ果て、文句を垂れて一人になろうとする。
コワルスキーはフォードの自動車組立工に50年間も勤めた技術者で、アメリカと愛車のグラン・トリノを誇りにしていた。しかし彼が暮らすデトロイトは、東洋人の移民が増え、息子たちは日本車に乗っていた。
妻は遺言でコワルスキーを教会に行かせるよう神父のヤノビッチに頼むが、若造である彼をコワルスキーは避ける。彼は息子たちにも嫌われ、隣人にも悪態をつき、僅かな友人のほか一人で生活をしていた。この人間嫌いの性格は、朝鮮戦争に出兵した時の記憶が原因であった。
ある日、隣家の少年タオが従兄弟のグループに脅されグラン・トリノを盗みに入るが、コワルスキーは暗闇の中で銃を使って追い払う。後日、タオの姉のスーをギャングたちから救ったことで、中国人のホームパーティーに招かれる。最初は抵抗感があったものの、スーたちとの関係が次第に最も心安らぐ居場所になる。
グラン・トリノを盗もうとしたのがタオだと親にバレると、コワルスキーのもとで働いてくるよう言われる。コワルスキーは渋ったものの、タオの働きぶりを見て考えを改める。コワルスキーは突然血を吐いたことで病院に向かい、病気が体を蝕んでいることを知る。
タオが仲間にならないことに腹を立てたギャングたちは、彼に制裁を加える。そのことを知ったコワルスキーは、ギャングたちに報復し今後タオに関わらないようにすると約束させる。
だが、ギャングはタオの家を銃で襲撃し、スーを拉致して乱暴する。怒りに震えるコワルスキーは、タオを地下に閉じ込め、単身でギャングの家に向かう。
ギャングたちは家を訪れたコワルスキーを警戒して銃を構える。コワルスキーはわざと銃を取り出すと見せかけライターをポケットから出そうとする。その行動に驚いたギャングたちは、有無を言わせずコワルスキーに弾を打ち込む。タオらが駆けつけた時には、コワルスキーは亡くなっていて、ギャングたちは警察に捕まっていた。丸腰のコワルスキーを襲ったため、ギャングたちは長期刑になると推測された。
コワルスキーの遺書には、グラン・トリノをタオに譲ると書かれていた。タオはグラン・トリノに乗り、湖岸沿いを走っていくのだった。
解説
どんなに年老いても製作意欲が衰えない
頑固者で老年男性が妻を亡くし孤独に暮らしている。彼らはことあるごとに悪態をつき、子供達からも煙たがられている。まるで感謝の言葉を発すると死んでしまう病にかかっているとでもいうかのようだ。
そんな典型的だが癖のある老年男性を演じるのは、監督を務めるクリント・イーストウッド。イーストウッドが生まれたのは1930年で、本作が製作されたのは彼が78歳のときである。この歳になっても製作意欲が衰えないとは驚くべきバイタリティーだ。
とはいえ人間には限界というものもある。イーストウッドは公開時のインタビューで、俳優としては最後の仕事にすると引退宣言をしていた。本作は彼が引退をかけて演じた渾身の作品なのである。
だが、老年になっても衰えぬ溢れんばかりのバイタリティーの持ち主にありがちなのだが、引退宣言を撤回しては繰り返すということがある。誰もが知っている人でいえば、『千と千尋の神隠し』で有名な宮崎駿がそれである。彼は作品を発表するたびに引退宣言をしていた。『崖の上のポニョ』の後にも『風立ちぬ』の後にも引退を仄めかしたものの、2023年には最新作の『君たちはどう生きるか』を公開した。そんな彼もイーストウッドと同様かなりの高齢で、2023年現在で82歳になっている。
宮崎駿と同様、これを最後だと確信して映画を製作しても時が経てばまた情熱が燃え上がってくる。そんなこんなで10年後の2018年には、ふたたび監督兼主役の映画『運び屋』を公開した。88歳のときである。
考察・感想
老年男性の孤独と罪の意識
コワルスキーは頑固なおじいちゃんでよく見るタイプのウザいやつ。息子夫婦からは文句を言われ、孫にも嫌われている。よく見るタイプとはいえ、仕草から内面までここまで正確に描き出せたのは、年老いたイーストウッドが演じたからだ。若い時にしか作れないものがあるのと同様に、老いてしか作れないものもこの世にはある。イーストウッドは本作と『運び屋』で、年老いた者の凝り固まった精神から衰えた身体能力、ボケと忘却など、いまの彼にしかできない映画を撮っている。
ウザいやつといってみたものの、コワルスキーはこれまでの人生を誠実に生きてきたのだ。彼が他人と上手く接することができないのは、朝鮮戦争に出兵したさいの虐殺で罪の意識を拭いきれないからである。息子や孫との接し方がわからず、関係が悪くなってしまったことを後悔し、わずかな浮気心の芽生えに罪を感じている。亡き妻の願いを聞きいれ教会で罪を告白する彼の姿をみて、私たちも神父のヤノビッチと同じく、それだけですか?と思わずツッコミをいれたくなる。彼は頑固な親父にみえて、実は些細なことで深く思い悩む小心者で純粋な子供のような存在なのだ。
彼がグラン・トリノに誇りを持つのは、それしかアイデンティティを見出せないからである。近所との付き合いが悪く、友人も少なく、仕事もしていない。妻がいるときはそれでもよかった。社会にでなくとも家に妻がいることで、どうにかその事実を隠蔽できたからだ。しかし妻が亡くなってからは、隠蔽されていた事実が露呈する。息子たちともコミュニケーションを取れず、友人も数えるほどしかいない。そんなとき彼はアメリカ人とかアメリカ製のグラン・トリノを誇りにして、この危機を回避しようとする。だからこそ彼は、日本車を乗る息子やデトロイトに住み着いた東洋人と黒人を嫌悪する。
家族よりも親密な関係
神父に打ち明けたように、コワルスキーは息子との接し方が分からない。そして彼が唯一確立した友人との関わり方は、床屋の店主のマーティンと悪態を付き合うというものだった。コワルスキーにとって人との関わりはこのような形でしかありえない。この頑固男たちの愛情表現は、家族にしてみれば耐えられるものではない。
だがここで、彼が嫌悪した者たちが救いへと反転する。図々しい東洋人は、逆説的にコワルスキーと相性がいい。お礼といって大量の食べ物を運んでくる中国人は、コミュニケーションを一方的に止めようとするコワルスキーと瓜二つである。
コワルスキー:どうにもならん身内より、ここの連中の方が身近に思える。全く情けない。
彼がそう思えるのは、息子や孫が「どうにもならん身内」だからではない。これまでの人生で彼らとのコミュニケーション方法を確立できなかったからだ。その反面、「ここの連中」は言語も違えば文化も違う。コミュニケーション方法も含めて「ここの連中」との関係はすべて一から作らなければならない。そして、アメリカにとって外部である中国人と、家族の除け者であるコワルスキーは、境遇も頑固な性格も似ているからこそ「身近に思える」ことができたのだ。
元々彼には、人間関係の外部にいるペットの犬か、悪態を付き合うマーティンしか心を通わせる相手がいなかった。それがこれほどにまで多くの者たちと親しくなれたのは、彼にとって人生の最後を飾るのに最高の出来事ではなかったか。コワルスキーは結局、家族と和解することはなかった。だが、若造の神父を認め、タオとスーが命を賭けても守りたい存在になり、そして何より自らの過去を許すことができたのだ。彼は家族とは違う場所に、生きる/死ぬ意味を見つけたのである。