デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(2)

デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(2)

※世間の『トップガン マーヴェリック』(2022)絶賛に対する筆者の微妙な思いについて、「デンジャーゾーンはどこにあるのか 『トップガン』論(1)」を先にお読みください。

「この社会において、男性の男らしさは、母親からの強制的な隔離とともに、儀礼を通じて人工的に形成されなければならない。[ハインリヒ・]シュルツがすでに指摘していた男性結社の人工性は、そのなかでかたちづくられるべき男性性の人工性に対応している。その根底にあるものは、女性が女性性を確立するのに比べて、男性が男性性を確立する方がはるかに困難で複雑であるという『男性性の脆弱さ』である。」(田中純『政治の美学 権力と表象』(東京大学出版会)、p.265-266)

「文のやり取りを超えて、この対話の中で起きていたことは知られることがない。」

(ハーマン・メルヴィル『ビリー・バッド、船員』第22章)

4.『トップガン』は恋愛映画ではない

 恋愛映画を「二人以上の登場人物が恋に落ちたり、破れたりすることが主要な出来事として構成され、観客の興味の対象となる映画」と仮に定義するなら、『トップガン』(1986)はまったくもって恋愛映画でない。美男と美女が登場しているから、彼らが途中でベッドを共にするから、云々の偏見を外して鑑賞すれば、本作のシャーロット(ケリー・マクギリス)は、①作品中で主人公ピートに最も大きな影響を与える人物でないし、②作品中で最も大きな影響を与える女性キャラクターでさえない。順に確認していこう。

 ①作品中でピートに最も大きな影響を与える人物は、相棒のグース(アンソニー・エドワーズ)である。そして最も大きな影響を与える出来事は彼の死である。夜中にピートの部屋を訪ねて空を飛ぶ不安を告白したグースに、ピートは”I’m not gonna let you down.”と約束する。しかし、言い終えた時に既に不安げなピートの表情が予告するように、グースは演習中にピートの無理な作戦がきっかけとなって事故に遭い、上部に脱出を試みるも戦闘機のキャノピーに激突、命を失ってしまう。ピートからすれば文字通り”let you down”してしまったわけだ。グースの死はピートのトラウマとなり、一時はパイロット続行も危ぶまれる。この件に関し、恋人であるはずのシャーロットは彼の心の中に入り込むことができない。過去のピートの輝きを持ち出し、ピートから”You don’t understand.”と言われる始末だ。

 思い出して欲しいのだが、最後の戦闘でトラウマを克服して功績を上げ、地上に舞い戻ってきたピートを歓呼で出迎えた人々の中に、シャーロットはいただろうか?ピートが困難を乗り越えるのにシャーロットが寄与したならばそうなりそうなものだが、答えは否である。ワシントンで仕事を見つけたから、この場面にいなかったのではない。この場面にいさせることができないので、脚本上ワシントンに戻ることになったのだ。

 ②作品中で最も大きな影響を与える女性キャラクターもまた、シャーロットではない。このことを、トニー・スコットの画面演出から確認してみよう。何度も鑑賞すれば気づくことだが、『トップガン』の飛行シーンでは、基本的に、「米軍機が右から左方向・敵機が左から右方向」で飛行するよう演出されている(敵機は黒字に赤い星という架空の国旗が尾翼に付いている)。簡単に言えば、画面上で米軍機は機体が左向き、敵機は機体が右向きなのだ。冒頭でピートとグースの機がMIG-28と遭遇する場面から既に、方向付けがされている。(正確に言えば、離陸時と地上付近では逆に米軍機が右向きになっている。オープニングとクライマックスで二度繰り返される空母からの離陸シーンや、やはり二度繰り返されるピートの塔への「挨拶」飛行のシーンを参照。製作者たちには、右向きに離陸し、上空で旋回して左向きに飛行し、もう一度旋回して右向きに着陸するといったダイアグラムが共有されていたのだろうか。)

 空中戦の敵・味方を観客にわかりやすくするにとどまらず、トニー・スコットは人物の動きにも「左向き重視」を適用している。例えば、航空機をバックにバイクで疾駆する有名なシーンでも、ライバルのアイスマン(ヴァル・キルマー)と対峙するシーンでも、ピートは常に画面の右側に位置して左方向を向いている。バーでシャーロットをナンパする場面も、もちろんピートは左にいる彼女を向いて歌いかけるのだ。

 しかし、作品中で数シーン、ピートが右方向に動く箇所がある。これは、例えば上官に呼び出されるシーンは全て右方向に入室しているように、ピートが普段とは異なる緊張を強いられる状況・不安定な心理にあることを暗示していると解釈できる。そして、二人の女性キャラクターと面会する時がともに右方向であるので、考察に値する。

 一人目は、シャーロットだ。前述のように、バーで初めて会った時は左方向。しかしその後初老の恋人がいることが発覚し、翻意させようと女性用トイレにまで侵入(!)するのは右方向。その後、自宅に招かれ入室していくのも右方向であるので、ピートの「好きだけれど、上手くいくのだろうか」という不安な気持ちを反映していると見ることができる。しかし程なくピートは画面の右側を占めるようになり、翌日のエレベーターでの再会からその後のラブシーンまで、左方向を向くようになる。

 これは、卑俗な言葉で言えばピートの中でシャーロットは「墜とした」ため、緊張が消えて優位に立ったことの表われである。ラストシーンで、シャーロットと再会したピートは一度目の自分の恋愛を飛行に喩えて”crashed and burnt”と総括しているが、ここまでの画面演出からはそれほどの動揺は見受けられなかった。そして、映画において重要なのは台詞ではなく画面である。それにラストシーンでも、ピートは右側に位置し左方向を向いてシャーロットを抱きしめようとしており、結局シャーロットはピートの優位性を崩すようなキャラクターではないことがわかる。

 二人目は、グースの妻キャロル(メグ・ライアン)。数シーンしか出演しない彼女こそ、ピートに最も影響を与えた女性キャラクターである。グースを亡くした後、ピートは未亡人となったキャロルを弔問する際、ドアを開けかねて目を閉じ、また見開く。このシーンのピートの表情は素晴らしく、トムの本作でのベストアクトと呼べるだろう。そして意を決したように、右方向に入室していく。

 キャロルは全てを受け止めて抱きしめ、ピートを責めることもせず、次なるフライトを促す。言葉にしないだけに一層重いキャロルの悲しみと愛が、時間はかかったもののピートを復活へと導いたのであって、シャーロットではない。クライマックスの戦闘の後、グースのタグを海に投げ込んで微笑むピートは、もちろん右方向を向いている。それは、キャロルの方を向いているということでもある。グースの死がピートの中では優位に立って処理できるレベルを超え、これからも抱えて生きていくことを示している。

 以上のことから、『トップガン』にとってシャーロットとの恋愛はいかにも「80年代パラマウント映画」的な隠れ蓑(映画をヒットさせるためのギミック)であり、真の主題は死による友の喪失とそこからのピートの回復であることを示せたと思う。この「隠れ蓑」感は、所々で男女間の恋愛と男性の女性嫌悪的ムードとの不整合として噴出している。

 例えば、演習でトップの成績を上げた者以外のプレートを「女性用トイレに飾ろう(down in the ladies room)」と言うアイスマンのジョークは、今日の観客からは受け入れがたいものだろう。『トップガン』に残るこうした不整合を「ゲイ・クイア映画」の徴候とする解釈も有力である(公開時に既に、批評家ポーリン・ケイルはa shiny homoerotic commercialだと指摘している。有名なものとして、アイスマンとピートのゲイ関係を想像力豊かに読み込んだ、ロリー・ケリー監督『スリープ・ウィズ・ミー』(1994)にゲスト出演しているタランティーノの巧みな小噺をぜひとも参照されたい)。

 鍛え上げた男性身体を誇示するようなビーチバレーの場面、バスタオルを腰に巻いた半裸の男達が話し合うロッカールームの場面などは、こうした解釈を補強するものとも取れる。私としては、『トップガン』が異性愛映画の殻を被った同性愛映画だという解釈は取らず、男性共同体を舞台に異性愛の筋書きを展開しようとした際に、ホモソーシャルな感性(E・セジウィックの用語、簡単に言えば「男子ノリ」)が過剰に現れたものとして見ている。

 田中純は、『政治の美学』で「男性結社のエロス」を論じた際、ハンス・ブリューアーによる二類型に言及している。それに依拠すれば、ここに描かれる軍隊は第一等(カリスマとの同性愛を伴う共同体)ではなく、第二等の男性共同体に分類される。

第二等の男性共同体には、男性英雄のようなカリスマは存在せず、代わりに英雄の像が中心に掲げられるという。そこでは、男性への同性愛的な関心は抑圧されているが(したがって、構成員は女性を愛している)、抹殺されてはいないため、彼らは男性のみで集まることを不可欠としている。

田中純『政治の美学』(p.261)

 『トップガン』における「英雄の像」は、もちろん歴代トップの名が刻まれたトロフィーだ。そして「男性のみで集まる」ための場はロッカールームであり、女性用トイレと対構造をなしている。アイスマンがジョークの中で出した女性用トイレに、ピートはシャーロットを追って現実に侵入しているが、逆に女性がロッカールームに侵入してくることはない。

 ピートとアイスマンとの重要な会話は、このロッカールームで行われる。相棒のグースを亡くしピートに、アイスマンは背中を向けられたまま”I’m sorry. ”と声をかけ、去っていく。それ以上のことを言わないのは、競合関係にあった自分がそれ以上グースの死を悼むことで、ピートを傷つけることを恐れるからだ。ここでは、言葉以上の複雑な思いが伝達されている。

 結論を先取りすれば、『トップガン』の真のテーマは、恋愛でもなく、同性愛でもなく、この場面に見られるような男性の「繊細さ」そして「傷つきやすさ」であると考える。英語で言えば、vulnerable(=「影響を受けやすい」の意味もある)であること。

 『トップガン』の中で流れる2つの曲が、それを表している。

5.『トップガン』のテーマを読み解く2つの曲

 『トップガン』のBGMを2曲挙げろと言われて、何か思い浮かぶだろう?オープニングが印象に残っている人には、ケニー・ロギンスの「Danger Zone」。ラブシーンが印象に残っている人には、ベルリンの「Take Your Breath Away」。他には?

 当時も現在もこの2曲で大正解だが、既に戦闘機も恋愛も『トップガン』の主題ではないと言ってしまった私にとって、答えは異なる。

 1曲目は、The Righteous Brothers, “You’ve Lost That Loving’ Feelin’”(「ふられた気持ち」)(1964)。ピートがバーでシャーロットを口説く時に歌った曲で、最後には海兵たちの大合唱となる。

And there’s no tenderness     前のような優しさは

Like before in your fingertips   君の指先にはない

You’re trying hard not to show it  君はそのことを必死に見せないようにしてるけど

(Baby) But baby, baby, I know it でもベイビー、わかるんだよ

 サビの前の歌詞を引用してみるとわかる通り、これは相手が自分を愛していることに確信を持てなくなった男の歌だ。この曲はエンディングにも(本家が歌うバージョンで)流れるが、決してピートとシャーロットの前途を祝福するような歌詞ではない。むしろ、優しさを求めても得られない男の弱さと不安が際立つ内容である。

 2曲目は、Otis Redding, “Sittin’ On The Dock Of The Bay”(「ドック・オブ・ベイ」)(1968)。ピートがシャーロットの自宅を訪問した時、夕食後に流れている曲。ピートは久しぶりにこの音楽を聴いて自分の家族が好きだった曲だ(“My folks loved it.”)と語り、母が飽き飽きするほどかけ、何時間も聴いていたことを思い出す。母は父の死後すぐに亡くなった(”She died shortly after him.”)。父は偉大な戦闘機乗りだった(”My old man was a great fighter pilot.”)、と。

I’m sittin’ on the dock of the bay   僕は波止場に座って

Watchin’ the tide roll away        潮が寄せるのを見ている

I’m just sittin’ on the dock of the bay ただ波止場に座って

Wastin’ time              時間を無駄にしているのさ

 しかし、ピートの話は作り話だ。

 簡単なことである。「ドック・オブ・ベイ」がリリースされたのは1968年1月であり、映画内で1965年11月(この年号は、ベトナム戦争への関与を暗示している)に死亡したと語られるピートの父がこの曲を耳にできるはずがない。“My folks”に父が含まれていないとしても、母も後を追うように亡くなっているのだから聴けるはずがないのは同様だ。

 ピートはなぜシャーロットに作り話をしたのか?恐らく、シャーロットにだけでなく、気を許した人には誰にでも話し、半ばは自分でも真の思い出だと思っているのだろう。両親の死の時点で幼かったピートは、思い出も父に肩車されている写真(ベッドで一度眺めている)の他にはあまりなく、この作り話を両親の形見としているのではないだろうか。波止場に腰かけて海を眺める、寂しさもあるけれどどこか満ち足りたこの歌の情感とともに。歌うオーティスが1967年の飛行機事故で命を落とした後に発表された曲だというのも、観念連合に一役買っているかもしれない。

 この2曲は、ピートの傷つきやすく繊細な内面を表現している。一見そう見え、思われるのとは逆に、『トップガン』はタフガイの映画ではない。傷つきやすい心という「デンジャーゾーン」を抱えた青年の映画なのだ。

6.ピート・ミッチェルのヴァルナラビリティー

 私は、『トップガン』が①恋愛=青春映画である、②航空=戦争映画である、③トム=無双映画である、という3つの印象に逆らってこの文章を書き始めた。続編『トップガン マーヴェリック』が評価され、①~③の印象が過去に遡って強められているように思われる今日、『トップガン』(1986)はそうではない独自の価値を持っていたことは、改めて述べる価値があると思われる。

 一点目に関しては、恋愛でなく死と再生を。二点目に関しては、臨場感や再表象ではなく現実の戦闘の混沌を。三点目に関しては、強さではなく弱さを。

 『インディ・ジョーンズ』連作、アーノルド・シュワルツェネッガーの一連の主演作品や同年公開の『エイリアン2』等、ハリウッドがタフガイや強いヒロインや「硬い身体」(スーザン・ジェフォーズ)の時代に再突入していた80年代に、兵士達が傷つきやすさ(vulnerability)を抱えた脆い存在であることをエンターテイメントの文脈で描いた『トップガン』は、現在鑑賞してもなお素晴らしい映画だ。続編に乗じ、『トップガン ピート・ミッチェル』というタイトルだとわざと思って、観直してみることをお薦めしたい。

 トム・クルーズの演技は、父を亡くし、父の残影を追ってトップ・パイロットを目指すも最愛の相棒を失って傷つくピートの姿を、見事にフィルムに定着させている。それはこのスターになる前の時代のトムにしか出来ない繊細な演技であると同時に、『レインマン』(1988)の「兄貴が出来て良かった」や『マグノリア』(1999)の「クソッタレ、行かないでくれ」等幾多の名場面に繋がっていく資質の発現である。

 トニー・スコットの演出は、軍隊に集う本当はvulnerableな男達が、繊細さを隠してつばぜり合いを演じ、意地を張り、あっけなく命を落とすさまを描く。遺された者達が、傷つき、自分を責め、優しさを見せ合い、互いを抱擁して再生していくさまを描く。彼はその後も、そういった映画を撮り続けた。

 それらこそが『トップガン』の本質だと、私は思う。だから本作が、トムとトニーの原点として、いつまでも観直され続けることを、願ってやまない。

DEDICATED TO THE MEMORY OF TONY SCOTT’S FILMS

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