死
死はどこからもやってこない。死は経験できないのだから。死は彼方に存在し、我々にできることといえばせいぜい「死ぬ」という発想を持てることぐらいである。死に対する情動や死後のイメージ(想像)が空想に宿るのはそのあとである。死というのは錯覚として私たちの元に訪れる。生の苦しみからの解放としての死、あるいは生という豊かさに対する絶望としての死・・・、つまり生の裏側としての死・・・。私たちが死に抗い懸命に生きるのも、むしろ積極的に死に向かうのも、こういったイメージ(想像)を通してなのだ。
しかし、そういった諸々の現象はこの「死」が生み出してくるものなのだろうか?
懐疑
疑えないものが存在しないというならば、懐疑主義の果てから全てがやってくるのである。我々が何かをすでに知っているということはない。しかし、経験の蓄積の中で徐々に何かを信じるようになるのだ。つまり、あらゆることを。
崇高
この崇高の瞬間に現象は運動し始める。つまり無限に見える何かが緊張しはじめ、膨張と収縮を始めることになるわけである。そこで精神は何かを「感じ」始めることになるわけである。
老い
常に老いない現象が存在する。死の間際になっても、、、あるいは死んだ後でも?
老いるのは制度化されたものである。起源は老いない。
睡眠
明らかに眠っている時も現象は動いている。夢を見るからである。麻酔を打った時は完全に死んだ経験を経験していることになるが、眠っている時はそうではない。ある種の情動が形象化されたのが夢である。それは精神分析が明らかにしたことではあるが。ということは睡眠中は何らかの「まとめ作業」をしていることになるだろう。そして最後には知覚経験へと連続的に流れ込む。非常に複雑な経験・・・。
情動
情動性も最初にうちはよくわからない。細分化されていないからである。とにかくこれが崇高によって揺さぶられ、情動へと動き出す。なんらかの雰囲気・・・。そしてされには感情や刺激へと、ある種の位置づけが制度化されているものへと転化していく。おそらく主体の生成になんらかの関与をしているのだろう。
思考(言語)
思考がどこからやってくるかはわからないが、どこからかやってくる。思考は明らかに概念として現れてくるのではなく、リズムのようなものとして現れてくる。つまり「音なき音楽」のようなものとして。このリズムは何らかの意味を携えており、そこからコミュニケーション的な意味が、そして言葉や概念としての意味が形象化されていく。この意味も情動性や身体性に折り重なる形で生成していくのだろう。
身体性
五感以前の身体性がある。ある種の重みや軽さといったもので、物理的なものへの接触となるものである。それがどうにかこうにかこの物理的身体となり、私たちは手を動かしたり足を動かしたりすることができる。何かを動かしている感覚、あるいは動かされている感覚・・・・。ここもある種の主体性との重なり合いが必要だろう。
空想
空想から想像へ、そして知覚へ。起きている間も私たちは夢以上のものを見ているし感じている。しかしその位置づけははっきりしない。しかしそれがどういうわけか現実化することもある。知覚的空想である。そうやって我々は現実と擦り合わせしていくのである。
倫理
現象の起源に倫理的なものがあるのだろうか? 一般的な意味での定言命法がそこにあるわけではないだろう。ある種の命令や使命はどこから降っているのだろうか? 自ら(主体)よりも大きなものと接触することによって?
他者
原初の他なるものは神ではないだろう。自らを下のポジションに見なければならないような現象は起源にはない。ある種の友のような何か・・・・。
自己(主体)
自己が生成するのは無限と接触することを通してである。無限との接触により自己は自己にも接触する。無限との接触なのだから、隔たりを通した接触であり、自己にも空間的・時間的な位置づけはない。それでも自己はあるのだ。そこから私たちは、隔たりに近づき、世界を具体化することで、自らも具体化する。世界はそこにあり、物がそこにあり、私の身体はここにある、ということになってくるのだ。
社会
社会性の起源というものがあるなら、それはユートピアということになる。ある種の平和がそこにある。具現化できない平和・・・。
政治
一般意志のようなものが起源になるのだろうか? これもユートピアに近いかもしれない。社会を構想するならば、とんでもない暴力状態ではなく、美しい平和から構想する必要があるはずである。
経済
これはある種の意思伝達可能なコミュニケーションから来るだろう。つまり、共通の単位としての経済である。価値がここで伝達されるわけである。ある種の(貨幣への)統一的な動きがあるのは自然なことかもしれない。
時間
時間は途方もなく遠いところからやってくる。そしてその瞬間に崇高が到来し、崇高の瞬間に情動性が宿ることがありうるのだ。それぐらい引き延ばされた時間は永遠(これは情動性ではない)のように感じるはずである。そして、永遠の中から過去や未来が現れ、ノスタルジーや憧憬の情動が生じることになるわけだ。
空間
空間も無限に広がっている。空間の果てを私たちは経験できない。しかしやはりそこから、何かが到来する。無限に遠かったり、無限に広かったりする現象の中で崇高が到来するのだ。
世界
自己と世界は一致しない。そこに人生の悲しみと喜びの全てがある。
生
私たちは生きるように強いられているわけではない。なんなら死ぬこともできる。しかしながら死に誘うのも結局のところ生である。よくわからないが、皆生きて、そして死んでいく・・・。
(未完)
