0. はじめに
「感じたことのない/クソみたいな敗北感も/どれもこれもが僕を/衝き動かしてる」(Mrs. Green Apple「ライラック」2024年)、「君のドルチェ&ガッバーナのその香水のせいだよ」(瑛人「香水」2020年)。われわれの生きる2020年代は、わかりやすく伝わりやすく、メッセージ性の強い歌がもてはやされる時代だ。当然のように、ポップソングの歌詞は「詩」であることをやめ、「文」に、いや「ポスト」に限りなく近づいていく。そして「ポスト」は歌詞に近づいていく。「最近ストレッチを怠ってるから/かなあ?/上手く開けないんだ、心が。/ぎこちなくて」(Mr. Children「箒星」2006年)というしゃべり言葉そのままのような違和感のある歌詞が詩と散文の境界を破壊するようで鮮やかに思えたのも今は昔。「夜中にいきなりさ/いつ空いてるのってLINE/君とはもう3年くらい/会ってないのにどうしたの」(瑛人「香水」)という歌い出しは、韻も七五調も何もない、さらにはそれらのなさへの緊張感もない「ポスト」歌詞の典型、そしてそのことを誰も変だとも思わなくなっている。
現代人にとって3分半(それどころか十数秒かも)の自己啓発キットと化したポップソングの世界では、数千年にわたって「詩」の最も大きな武器の一つであったアイロニーも、依って立つ場所が狭くなってきている。アイロニーとは、言葉が正反対の意味にも解釈できるという、言葉の奥深さを最大限に活かした技法である。例えば、「あなたなんてキライ」はある文脈の中では「好き」という意味になり得る。「大キライ 大キライ 大キライ 大スキ!」(モーニング娘。「サマーナイトタウン」1998年)なのである(例が中途半端に古くて恐縮ですが、これを挙げざるを得なかった)。しかし、現代ではそんな奥ゆかしさよりも、ストレートに「好きです。良かったら今度一緒にごはん行きませんか?」と誘ってくる異性の方が好まれるのではないか?(知らんけど) 出来の悪い新入社員に上司が「君は本当に優秀だな」と嫌味で言ったらハラスメントと認定されるだろう(知らんけど)。
そんな世情を反映してか、現代のポップソングにおけるアイロニーは「これはアイロニーですが…」という前置きとセット販売されている。
例えば、①back numberのようにバンド名にアイロニーを入れ込み「そういうバンド」とパッケージ化する手法。「もし僕が君の恋人になれた時は/同じ気持ちになれたそのあかつきには/毎日3時間は君の事を考える/だけじゃなくてそれを君に言うよ」(back number「君の恋人になったら」2016年)。「3時間は」という急なミニマムライン提示が可笑しいが、全てが「もし」の空想であるという反転にこの曲の生命線がある(しかしback numberも若年層に人気が出過ぎ、「わたがし」(2012年)・「高嶺の花子さん」(2013年)のネクラ男子路線をこの先も貫けるのかは不透明である)。「あつまれパーティーピーポー」(2016年)その他の佳曲があるヤバイTシャツ屋さんも、アイロニーと言うよりはユーモアに分類されるかもしれないが、妙なバンド名を名乗ることで「真面目に取らないで」とサインを送っている。あるいは、②最近流行りの「考察」で聴衆が意味を補完してくれるのを待つ手法。「鳴らせ君の3から6マス/トントントンツーツーツートントン(トン)」(こっちのけんと「はいよろこんで」2024年)という歌詞はインターネットのない時代だったら意味不明で終わったかもしれないが、現代はSNSやYouTubeコメント欄に生息する「有識者」たちが知恵を授けてくれる。しかし、「作者」が仕掛けた「答え」は一つであり(この点、「こっちの」という方向を指示する枕詞は意味深長である)、そもそもこの歌の「語り手」が「よろこんで」仕事を請け負っている可能性などとんと0マス。そんな訳で、アイロニーは表向き掲げられているものの内実は消失しており、ほぼAdo「うっせえわ」(2020年)と同じメッセージを届けるメッセージソングと化している。最後に、③歌詞で全てを言語化してしまう手法。「今日何食べた?/好きな本は?/遊びに行くならどこに行くの?」と明らかにどうでもいい質問が列挙されるYOASOBI「アイドル」(2023年)の「語り手」は、直後に同じ旋律で「何も食べてない/それは内緒/何を聞かれてものらりくらり」と答えがメディア対策の嘘またはごまかしであることを、本来聴衆がふれ得ない率直さで独白する。本当に街のどこでも流れていたOfficial髭男dism「Pretender」(2019年)も、「君の運命の人は僕じゃない/辛いけど否めない」とアイロニカルな認識を示すかに思われた次の瞬間、「でも離れがたいのさ」と、本来知り得ない内面をはっきりと言語化しアイロニーを叙情(「エモさ」)に昇華させしまう。
これらの手法を用いることで、現代のポップソングはアイロニーがアイロニーであることを明示し、聴衆が「誤読」(誤聴?)する可能性をほとんどゼロにしているのだ。『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(光文社新書、2020年)で木原善彦は、「書き言葉の場合なら、最近は、『…(笑)』『…w』とか、『…:)』や『…:D』といった感情記号がアイロニー的意図を明らかにしているケースを見かけることが多くなりました。」(p.31)と書いているが、ポップソングも同様の「感情記号」をまとうことで意味を限定することに成功している。
今、「成功している」と書いたがもちろんアイロニーである。平安時代の和歌や江戸時代の俳句を振り返るまでもなく、歌の中に時に相反する意味をも込めることに関しては世界のどこにも負けない伝統を持っているはずの日本で、歌詞の意味の幅が狭まってきているというのは、本当に残念なことだ。
筆者の知る限り、2020年代を迎えるまでは必ずしもそうではなかった。ポップソングの中なので数は少ないが、時代を代表する曲にもアイロニーは見られ、「どちらの意味で解釈するべきなのか…」という意味の幅が聴衆を悩ませ、楽しませ、時に感動させた。ここでは読者の皆さんと歌詞におけるアイロニーの豊かさを再発見するために、「売れる」ために特化して作った曲の中の曲、女性アイドルソングの歌詞を検討したい。70年代・90年代・2010年代から例をピックアップしたので、時代ごとの変化も描けるかもしれない。取り上げる曲は、キャンディーズ「微笑がえし」(1978年)、森高千里「気分爽快」(1994年)、AKB48「フライングゲット」(2011年)である。
1. キャンディーズ「微笑がえし」(1978年)
キャンディーズは後発のピンクレディーと並び1970年代を代表することになったアイドルグループである。ラン、スー、ミキ(伊藤蘭、田中好子、藤村美樹)の三人ユニットで活動期間はわずかに6年間(1973-78)、これも1970年代のテレビを代表する国民的番組「8時だヨ!全員集合」(TBS)へのレギュラー出演もあって熱狂的人気を獲得した。彼女たちは人気絶頂を極める1977年のコンサート中に解散を発表するが、その折の言葉がランの「普通の女の子に戻りたい」であることが象徴的であるように、「普通」である一面を常に持っていた。素人オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)出身でありながら歌唱・ダンスとも「プロ」の実力者となっていったピンクレディー(1976-1981)と比較すれば、キャンディーズの楽曲は「普通」の人誰もが歌いやすく振り付けも覚えやすい。そのキャンディーズが、最後の最後に「普通」を脱却し、一流歌手並みに事前リハーサルなしのレコーディングに初挑戦して、キャリアでただ一回のオリコンチャート1位を獲得したのが、ラストシングル「微笑がえし」(作詞: 阿木燿子、作曲: 穂口雄右、1978年2月25日発売)である。
それまで山口百恵への歌詞提供者というイメージの強かった阿木は、「微笑がえし」の歌詞にキャンディーズヒット曲の歴史を織り込むという何とも粋な趣向で臨んだ。
春一番が/掃除したてのサッシの窓に/ほこりの渦を踊らせてます
(1番Aメロ、「春一番」(1976年)への言及。ちなみに「微笑がえし」と同じ穂口の曲である)
タンスの陰で/心細げに迷子になった/ハートのエースが出てきましたよ
(2番Aメロ、「ハートのエースが出てこない」(1975年)への言及、というかパロディ?)
阿木の作詞の魅力はアイディアだけにはとどまらない。「春一番」の”です・ます”調をトレースしたと思しき阿木の歌詞は趣向の強さに負けることなく、カップルが引っ越しのお祝い返しもできない短期間で別れ、それぞれの道に再出発してゆく情景をありありと描き出す。「机 本箱/運び出された荷物のあとは/畳の色がそこだけ若いわ」。入居時のままの青々とした畳が見えるようではないか(「畳の色が若い」の情景喚起力!)。 この文脈で、ずっと探していたハートのエース、1975年の歌ではあれほど出てこなかったハートのエースが「まるで青春の想い出そのもの」のように見つかるのは、ファンサービスとして完璧だ。しかも語り手の彼氏、引っ越しで出て行く最後の時まで「イヤだわシャツで/顔拭いて」・「それでは鍵が/サカサマよ」と残念な行動ばかり取っている様子。「何年たっても/年下の人」という当たり前の命題(なぜかといって、年下の人が年上の人になることは一生ないのだから)が最高の旋律で歌われる2番Cメロを聴く時に聴衆が噛みしめるのは、「汚れて丸めたハンカチ/ボタンの取れてるポケット」(「年下の男の子」(1975年))のような相手の欠点が、最初はチャーミングと思えても、歳月とともにチャームがなくなり腹立ちが増していってしまうというこの世の真理。残されているライブ動画をよく見ると、振り付けに「春一番」「わな」(1977年)「ハートのエースが出てこない」「優しい悪魔」(1977年)の手の動きがサンプリングされてファンを涙させるのに加え、「年下の男の子」で一番有名な手話を思わせるダンスもリフレインされている。そして「年下の男の子」の作曲者も穂口であるという完璧さ!(「わな」はキャンディーズ作品で唯一ミキが「センター」を取った歌であるが、「微笑がえし」でも1番Cメロ「罠にかかった/ウサギみたい」で一度だけミキが中央の位置に来る等、引用元との関連が常に意識されている。また、「わな」の歌詞中には「あの人」が「ほほえみ返してくれる」と本作のタイトルが読み込まれている!)
しかし、本稿で着目したいのはそこではない。「何年たっても/年下の人/イヤだわシャツで/顔拭いて」の後、サビの盛り上がりの直前に、たった5小節、美しい三声のコーラスで、何とも不思議な歌詞が挿入される。
おかしくって
涙が出そう
「おかしくって」の文を真に受ければ、語り手の女性は自分たちの置かれた状況を楽しんでいる。しかし、本当にそうなのだろうか?よく歌詞を読めば(聴けば)、違うのではないかと疑念が生じる。「年下の人」との甘美だった同棲生活(あるいは結婚?)がうまくいかなかったことを、彼女は「軽く手を振り/私達/お別れなんですよ」と諦めを伴った明るさで自分たちに言い聞かせながら処理しようとしている。「お引越しのお祝い返し」を「微笑(ほほえみ)」で行うため、何とか最後まで笑顔でいようと、「おかしくって/涙が出そう」な心境では実はないのに、「涙が出そう」なほど悲しい現実を何とか「おかしい」ことにしようとしているのではないか。彼女は本当は、笑いそうなのではなく泣きそうなんじゃ…。そう思わせるのが、阿木が聴衆に仕掛けたアイロニーである。
作曲の穂口も、阿木の意図を正確に読み取り、素晴らしい仕事をしている。「微笑がえし」は、最初メジャーコードのGで歌われる。不釣り合いなほど能天気に思えるイントロからそのままに、Aメロは非常に明るく、「バッバッババー/バッバッババー」と刻むベースも歌に伴奏=伴走している。ところが、Bメロの直前に「ババババー」と響かせてコードは急にマイナー(最初はEm)に転換、Bメロ終わりが3和音に1音加えたセブンスコード(D7)なのも不安定性が漂う。この不安感は、Cメロ出だしの「罠にかかった!」の力業で歌い出しのGに戻して見事に解消される(ここは「年下の男の子」等で見せたキャンディーズ唱法が炸裂していて本当に最高だ)。しかし例の「おかしくって~」の箇所ではまたもEmに戻り、その後もセブンスコードでつなぎながら一度だけGを使う、という、微妙な違和感が継続するゾーンになっている。「相反する感情が入り混じったまま別れようとする」という設定が音楽に具現化されたかのようだ。振り付けも、「おかしくって」で素早く手を動かし、「涙が出そう」で木の葉がゆるやかに落ちていく動き、と異質な要素の共存を暗示している。ここからサビに雪崩れ込んでいくので、聴衆も笑いつつ泣き出しそうになるような不思議な感情に衝き動かされる。
そして「ワンツースリー」(1番)、「イチニサン」(2番)と歌われていたサビのフレーズが、
アン・ドゥ・トロワ
三歩目からは アン・ドゥ・トロワ
それぞれの道
私たち 歩いていくんですね
と収束し、解散発表後の曲「アン・ドゥ・トロワ」(1977年)までもが読み込まれるプランだったとわかる時、聴衆は引っ越しを前にしたカップル2人が、今解散しようとしているキャンディーズ3人の姿でもあったことに遅ればせながら気づく(既に1番で2人が手を振って別れる場所が「あの三叉路で」と指定され、「三」が「分かれ=別れる」ことの重要性が示唆されていた)。歌詞中の2人と同じく、キャンディーズの3人も、それぞれの道をたどるために互いに微笑みながら別れる。もちろん、6年間を見届けてきたファンとも、お別れすることになる。一人ひとりへのお祝い返しはできないからと、せめて「おかしくって涙が出そう」な微笑みを返しながら。
キャンディーズにとってファンへの最後の挨拶となった「微笑がえし」は、アイドルの歴史を詠み込む趣向と、カップルの別れをユニットの解散と重ねるダブルミーニングとによって、「アイドルラストシングル界の極北」の地位を未だに占めている。「普通」の女の子に戻るはずの3人が、最後に「プロ」の才能と厳しい練習の賜物である完璧なユニゾンを決めるのを聴く時、私たちは明るい曲調と悲しい歌詞との不調和に、一つの物語の結末を見届けた晴れやかさと同時に、「涙が出そう」な哀しさも感じさせられるのだ。
2. 森高千里「気分爽快」(1994年)
森高千里は1987年にアイドルとして歌手デビュー、翌年ある曲に歌詞をつけるよう言われて「ザ・ミーハー」(1988年)の作詞を手掛けたところ個性が注目され、ほぼ全ての楽曲を自作詞で歌うようになった。既に70年代後半から80年代初頭には荒井由実(松任谷由実)・尾崎亜美・中島みゆきらが登場して名曲を連発、「女性シンガーソングライター」の存在を世に知らしめていた。松田聖子・中森明菜・小泉今日子らが次々にデビューした80年代前半の女性アイドル黄金時代の後、彼女たち「アイドル」と差別化を図るように、80年代後半からは渡辺美里ら歌い手でありつつ自分で作詞を手がける女性「アーティスト」が台頭してくる。
(ただし渡辺の大ヒット曲「My Revolution」(1986年)は川村真澄作詞・小室哲哉作曲。アイドルを論じる本稿の文脈とは離れるが、REBECCAのNokkoも同時代に作詞を始めている。この「シンガーソングライター」ではない(=曲はそんなに作らない)が「詞も担当する女性ボーカル」の系譜は、ZARDの坂井泉水を経て大塚愛・西野カナまでたどれるのではないか。「My Revolution」については、中尾賢司『「ネオ」漂泊民の戦後 アイドル受容と日本人』(花伝社、2014年)のp.98以降が非常に面白い議論を展開しているので参照されたい。) 最初「アイドル」としてキャリアをスタートしたはずの森高千里が作詞を始めたのも、このような流れの一部として整理できる。
近年、森高がメディアで取り上げられる時はとかく年を取っても変わらない美貌ばかりピックアップされるが、ドラムもピアノも作詞も歌唱もダンスもでき、「アイドル」と「アーティスト」の両面を高い水準で実現している稀有な存在である。特に歌詞面では、他を全く寄せ付けない良い意味の異常さを発揮している。
森高の歌詞の特徴はいくつか挙げられる(以下、「ときめき研究家」氏のgoo blog「森高千里論(その1)」「(その2)」を参考にさせて頂いた。記して感謝します)。
①等身大の言葉遣い
代表曲「私がオバさんになっても」(1992年)の歌い出し。
秋が終れば冬が来る/ほんとに早いわ
夏休みには二人して/サイパンへ行ったわ
日焼けした肌まだ黒い/楽しい思い出
来年もまたサイパンへ/泳ぎに行きたいわ
いかにも1992年当時(すなわちバブル期!)の女性が言いそうなセリフである。「~わ」が何度も繰り返されるのもよく考えると歌詞としては異例だし、「サイパン」も「ええやろ~」と誇示するかのように連呼されている。このように、「意識された凡庸さ」(それは自然に見えるようにシミュレートされている点で作詞家としては非凡なのだが)と呼ぶべき詞が多く見られる。
同曲のサビ終わりで「とても心配だわ あなたが/若い子が好きだから」というフレーズがあるが、ここで「が」の繰り返しがあえて避けられていないのも、語り手の女性に寄り添った言葉遣いになっている。(学校で作文教育を受けた身では「あなたは/若い子が~」に直したい気持ちになるが、そうすると魅力は半減してしまう。)「はじめに」で例に出した、「箒星」が代表する桜井和寿的作詞術でもある。しかし、Mr. Childrenの歌詞のように字余りや破調はなく、口語的でありながらもリズムを守っている心地良さがある(口語定型詩?)。
②語られていないストーリーがある
もう一つの代表曲「渡良瀬橋」(1993年)は、
渡良瀬橋で見る夕陽を/あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね/ここに住みたいと言った
と過去形で歌い出され、「私は今もあの頃を/忘れられず生きてます」と、自分の現在を語る語り手がその恋人とは幸福になれなかったことが示される。Cメロで「誰のせいでもない/あなたがこの街で/暮らせないことわかってたの」と歌われるが、二人の間に何があったのか・なぜ「あなた」は渡良瀬橋のある栃木県足利市では暮らせないのか・なぜ「私」が「ここを離れて暮らすことできない」とまで思っているのか、については最後まで聴いてもわからない。今や一般用語となった語を題名にした「ストレス」(1989年)についても、「ストレスが地球をだめにする」とまで憤っている語り手のストレス要因が「あれこれそれあいつ/いらいらするわ/関係ないセリフ/じょうだんじゃない」と述べられるものの、何があったのかはまったくわからない。聴き手は、背景のストーリーを想像しながら聴く楽しみを見い出すことができる。
③アイロニー
本稿の中心テーマであるアイロニー。②とも関連するが、森高千里的アイロニーの典型としては、「恋人と別れた女性が傷ついている心情」を、そうとははっきりと示して歌わない、それだけでなく時には強がって「傷ついていない」と逆のことすら言い、文学作品で言うところの「信頼できない語り手」の手法を用いて描き出す曲が多い。初めて作詞を手掛けた「ザ・ミーハー」がまずこの例だ。
なぐさめなんて/いらないわ
わたしのことを誰も/勘違いしているの (中略)
お嬢様じゃないの/わたしただのミーハー!
だからすごくカルイ/心配しないでね
…そう繰り返し歌われているにもかかわらず、というか歌われれば歌われるほど、聴き手は語り手の女性が破れた恋に傷つく「お嬢様」なのでは?と何となく理解していく。「青春」(1990年)では、別れた相手に語りかけるスタイル(「渡良瀬橋」と同じだ)で、近況がこのように語られる。
「最近はCD聴いたり/原付乗りまわしたり/けっこう元気でやってるわ」
「バイトも始めてみたの/車の免許もとるわ/けっこう忙しくなりそう」
「来週にはほしかったパソコンも買うわ/これからがほんとの/私の青春かな」
こうした列挙は、語り手の生活の充実を示すとも解釈できる一方で、失恋の空虚を隠すためになされているとも解釈できる。だいたい、本当に充実し青春の渦中にいる人間は「私の青春かな」などと思う間も、元彼に近況報告する暇もないはずではないか…? 極め付けに、昔塾の帰りに落とし物の財布を友達と拾ったが、持ち主が名乗り出ないので見つけた自分でなく手に取った友達の物になった、でも友達は半額返しに来て…という本当にどうでもいい思い出の一部始終を無駄に詳細に綴った「見つけたサイフ」(1999年)の最後を引用しよう。これ、どこまで本気で言ってるのでしょうね?
やっぱりいい友達/あの子はいい友達
④パロディ・コスプレの批評意識
歌詞からは離れてしまうが、YouTubeで森高のミュージックビデオを閲覧すると大体何かしらのパロディになっていたり批評意識が感じられたりするというのも、③アイロニーと関連しているように思われる。「ハエ男」(1998年)はハエ男に森高が襲われる褐色がかった画面といい宇宙を背景に1画ずつ「HAE OTOKO」と浮かび上がるタイトルといい完全にリドリー・スコット監督『エイリアン』。「臭いものにはフタをしろ!!」(1997年)は撮り方がまるっきり70年代ロックバンドのライブ映像で笑える一方、歌詞では若い子相手にこのようなライブに行った自慢をする「おじさん」が徹底的に批判されている、という具合。森高の若かりし頃を特徴付けるセーラームーン風のコスプレも、自信満々で披露されるよくわからないダンスも、森高が「アイドル」の記号性と戯れているように思えてならない(「アイドル」が「私がオバさんになっても」と歌ってしまうことの遊戯性)。
https://www.youtube.com/watch?v=y6fvwqEg2A4
中でも「気分爽快」(作詞: 森高千里、作曲: 黒沢健一、1994年1月31日発売)は、以上①~④の特徴を全て満たしているので、つぶさに分析していきたい。アサヒビールのCMに使われることが決まっている中で制作された「タイアップ・ソング」で、オリコンチャートでも3位を記録するほど「売れる」ことに成功した。当時森高自身が「爽快で、正解!」とカメラ目線で言い切るCMだけ見ていた人は、彼女の仕掛けたアイロニーなど気づかず、ただ不思議と缶ビールでも飲みたいようなめでたい気分にさせられたことだろう。ところが、それは森高の仕掛けた罠なのだ。
歌詞は例によって女性の一人称で綴られ、内容もいつものように等身大のものである。語り手の女性が、友人(後輩?)の女性の恋がかなったことを祝福している。
やったね おめでとう/いよいよあいつとデートか
まったく やるわね/わたしの知らないうちに
「やったね」と「まったく」はつまる音(「っ」)が共通しており、2番Aメロ「まさか(まっさか、と歌われる)」「まいったな」も同様である。しかし韻を踏んで入るだけで、表す気持ちはそれぞれバラバラ。問題は、これらのどれが彼女の本音なのか?ということだ。ミュージックビデオでは笑顔で歌われる「わたしの知らないうちに」に隠された小さな毒が、語り手がいささかも「やったね」とは思っていないに違いないことを既に暗示している。Bメロでその理由が明かされる。
2人して/彼に憧れてたから
つらいけど OK/ビールで乾杯
そこからサビの「飲―も~う」に流れ込んでいくのだが、ミュージックビデオで踊られる店一丸での大盛り上り(森高が後にYouTubeで自作解説した時の表現を借りるなら、「胃腸薬のCMみたいな」ダンス)に、語り手の思い人を射止めてしまった友人も笑顔で参加できたのか、一人だけ背中を向けて踊っているためわからないのだが、筆者の心には不安が押し寄せてくる。

飲もう/今日はとことん盛り上がろう
聞かせてよ 彼との出会い/遠慮せず
飲もう/今日はとことん付き合うわよ
私もさ/好きだったんだから
2番のサビでは、「明日/明日デートだね 頑張って」と、およそ本気とは思えないエールが贈られる。「明日/明日私は何しよう/私のぶん 楽しんできてよ」と言われて、「わかったわ、サンキュ!」となる人がどれだけいるのか? 予定が特にないことまで知らされてしまった上は、偶然を装ってデート現場に現れて、計画をぶち壊しにくる確率すら計算しなくてはならない。歌では表情すらわからない(ミュージックビデオにおける笑顔の森高は理論上この歌の語り手とはまた別物と考えるべきだろう)ので心はなおさらだが、「私のぶん 楽しんできてよ」というのは相手の「よかったら、一緒に来る?」を引き出そうとするための発言なのか? むしろ今夜ここで飲んでいることが、明日のデートをぶっ潰そうという戦略の一部だとしたら…?
不安に満ちた間奏のタイミングで曲にも言及しておこう。作曲はL⇔Rのボーカルだった黒沢健一。上がり下がりのあって一筋縄ではいかぬサビのメロディーが醸し出す複雑なニュアンスは、例えばL⇔R「REMEMBER」(1994年)などと確かに通底している。初期ビートルズ的ギターソロ(リフで一番似てるのは「Ticket to Ride」(1965年)か)をイントロに幕を開け、歌詞の状況は「She Loves You」(1963年)を連想させる。しかしこの曲のギターが作り出す初期ビートルズ風陽気さは、「She Loves You」での友人を心から祝福する男の子的「爽快」ではない、女子同士の「表面のみの爽快」をかえって強調している。
さて間奏明け、3回目のBメロがキーボードとパーカッションのみで歌われる。伴奏が絞られているのは、この箇所が「語り手の女性の本音」に近いものだと示唆するためだろう。
出来るなら/今夜帰りたくないな
泣き虫な/私 早く恋しよう
ここには特徴②の「語られていないストーリー」が読み取れる。語り手は相手を祝福するためでなく、友人が自分の思い人と翌日にデートするのを受け入れられず、「帰りたくない」(そして帰したくない?)から飲んでいるのか? しかし、ここで「出来るなら」と留保が付けられているように、おそらく語り手は、夜通し飲んで相手への小さな復讐を遂げることはできないだろうと考えている。「泣き虫」な私は、解散してから部屋に帰ってひとり泣くことになるのだろうか?
再びにぎやかなサビが始まり、一瞬芽生えた感傷は「飲―も~う」に押し流されていく。ここで急にタイトルの「気分爽快」という語が発せられるのだが、ここまで彼女の思考を追ってきた聴き手は特徴③のアイロニーなしには受け取れない。
今私/気分爽快だよ
おそらく語り手はビールなり何なりを飲んだ酔いが回ってきていて、今だけなぜかいける気になっているのではないか? 従来の分析では、自暴自棄的に飲んでいると思しき語り手が酔って来ている可能性があまり考慮されていない。しかし森高の特徴②を考えるとそこを聴き手が読み取っていく余地があるのでは、とここで表明しておく(あいみょんの名曲「今夜このまま」(2018年)でも、あまりそう受け取っている人はいないようだが、語り手が酔ったり少し覚醒したりの推移が歌われていると解釈できる。この曲では「ビール」を名指さずに「苦いようで甘いようなこの泡」「とりあえずアレ」等で婉曲に表現されており、森高の楽曲同様、聴き手の読解力へ寄せられる期待値が高い。)
そして最後のパート。
明日/明日私はだいじょうぶだよ
不思議だね/気分爽快だよ
「だいじょうぶ」とは酔いが回ってそう思っているだけなのか?新しい恋に踏み出す決心がついたから「大丈夫」なのか?それともデートの現場を邪魔しないという意味での「大丈夫」なのか? 「気分爽快」な人はわざわざ「気分爽快だよ」と告げることはないという意味で、「不思議だね」なのはこっちの方なのだが、「気分爽快」とはどういう意味なのか?それとも別に意味はないのか? 多義性をはらみ一義性に昇華しないまま、曲は終わってしまう。

ミュージックビデオではダンスを終えた一同が腰を曲げて礼をし、仮想の幕が降りるところまで映し出されている。ミュージカルのようなダンスは、舞台の中の虚構だったことがわざわざ示される。これは森高の特徴④と合致する上に、「飲み会の場で女子同士が本音を語り合う」という社会の共通了解がそもそも虚構でしかないという可能性を示していると考えられないだろうか? 友人が語り手に自分の恋の成就を打ち明けた理由、それに語り手が「ありがとう/ちゃんと話してくれて」と応じた理由、など、想像し始めると「本音」や「女同士の友情」とは程遠いドラマが見えてきそうで恐ろしい…。だからそんなややこしいことには踏み込まず、「この人が気分爽快と言ってるんだからきっと立ち直ったんだ、今気分爽快なんだ」とアイロニーなしに信じ込むのが正しい社会人というものなのだ。今でも完璧に「アイドル」を演じている森高の笑顔は、あまりにも多くのことを教えてくれる。
3. AKB48「フライングゲット」(2011年)
本稿では森高に代表させた90年代は、それからも広末涼子やSPEEDのような「少女」たちや、安室奈美恵・浜崎あゆみといった「歌姫」たちが、広義の「女性アイドル」として活躍した。しかし続くゼロ年代を席巻したのは、1999年に「LOVEマシーン」を発表して老若男女を虜にしたモーニング娘。だった。「妹分」の松浦亜弥や派生グループの人気も含め、ゼロ年代前半はつんく♂率いるハロー!プロジェクトの時代と区分できる。この状況に、かつておニャン子クラブ(1985-87)の作詞を担当していた秋元康が、グループアイドルを結成して殴り込みをかける。秋元がプロデュースしたAKB48(2005-現在)の誕生である。
AKB48やいわゆる「AKB商法」の新規性に関しては多くの書籍・ブログで語られているので繰り返すことは読者を退屈にするだけだろう。しかし歌詞のアイロニーを検討する本稿の文脈でぜひ強調しておきたいのは、歌詞における自己言及の多さである。AKB48の多種多様な代表曲に共通するテーマは実は一つだけで、「AKBであるということ」または「AKBを好きになる構造」のみを歌っているのだ。
メジャーデビュー曲「会いたかった」(2006年)の歌詞は、好きな子に会いに行く語り手の姿と「推し」に会いに劇場に駆けつけるファンを重ねられるよう、ダブルミーニングで綴ったものだ。人気を不動のものにした「ヘビーローテーション」(2011年)のタイトルは、好きな子のことを考えすぎて頭から離れなくなる事象とAKB48の曲がそこかしこでかかりまくる現象を重ねている。
また独特の制度も歌詞の材料となった。AKB48と言えば「総選挙」、センターを決めるために熾烈なファン獲得競争(または、曲によってはじゃんけん勝負)を行わせその様子を見せることで国民を巻き込んだ。今となっては信じがたいことに、総選挙の模様は一時期地上波でテレビ中継までされていたのだ! 「恋するフォーチュンクッキー」(2013年)中の「ルックスがアドヴァンテージ/いつだって可愛い子が/人気投票1位になる」という部分は、この時センターを務めた指原莉乃の立場に想像的に同一化して総選挙で敗れる心情を描いたものでもある。さらに後になるとグループを誰がいつ卒業しソロに転身していくかが国民的興味の対象になったものだが、「GIVE ME FIVE!」(2012年)等の「卒業ソング」では、高校卒業をメンバーのAKB48卒業と二重写しで詠み込んでいる。
AKB48の場合、歌詞における自己言及的ダブルミーニングは、第1節で論じたキャンディーズ「微笑がえし」のように密やかに&軽やかにではなく、あまりにベタ&露骨に行われている。コアなファンでなくても「あ、これって実はあれのことね」とわかるような表面で歌詞を作り、意味の二重性を消費の対象とすること。秋元がアイドルソングの作詞家として空前絶後なのは、歌詞の内容やメンバー一人ひとりのタレント性よりも、この構造こそがさらなる欲望を生み資本を流通させることに気づいた点だろう。
ある意味で、秋元康は近代以降最も平安時代の歌人に近づいた人物かもしれない。「個人の生」と「AKBであるということ」を掛け言葉のように結ぶワード、例えば「会いたかった」や「ヘビーローテーション」や「人気投票」や「卒業」を発見し、そのマジックワードを用いて二つの世界を無理やりにでも結んでしまえば、あとは多少適当でも歌が詠める、という具合だ。秋元がおニャン子クラブの作詞家であると同時に小泉今日子の自己言及的アイドルソング「なんてったってアイドル」(1985年)の作詞家でもあるということは象徴的である。そして去年(2024年)AKB48がリリースしたアルバムは『なんてったってAKB』と名づけられ、小泉の「なんてったってアイドル」もカバーされている!
キャンディーズ「微笑がえし」と森高千里「気分爽快」の場合、生み出されるアイロニーは、二重に響くよう技巧的に配置された歌詞の中にあった。しかしAKB48の楽曲では、「歌詞が”ベタ”にAKBを歌っているようにも聞こえる」ことを聴き手が理解しながらも、没入して聴いているという構造が、アイロニーの源泉になっている。ファン(主に男性ファンとしておく)は「好きならば/好きだと言おう」(「会いたかった」より)とアイドルが歌っている時も、それが恋する彼女の内面の発露ではいささかもなく、むしろ自分たちファンの心情を代弁させられているものであることを完璧に理解している。握手会でCDを買ったら、その数秒後には彼女が自分と握手したことなど一生思い出さないだろうことも知っている。それなのになお、いやそれだからこそ、ファンは感極まって涙を流しながら大声でレスポンスするのだ(「感情吐き出して/今すぐ素直になれ!」、「大声ダイヤモンド」2008年より)。AKB48において、アイロニーは楽曲(作品)の中ではなく、聴き手の受け取り方や作品を取り巻く環境の中にある。
https://www.youtube.com/watch?v=WdhMjzfg6-k
以上の視点から、数ある楽曲の中で、「フライングゲット」(作詞: 秋元康、作曲: すみだしんや、2011年8月24日発売)を分析していきたい。この曲で、AKB48は初めて日本レコード大賞を受賞した。
タイトルは例によって、「一足先に/君の気持ち今すぐ手に入れようか」という恋愛の世界と「ファンが正式な発売日前にCDを買う」というアイドルの世界とをつなぐダブルミーニングとなっている。1番では、「僕」が「君」の「僕」に寄せる好意を確信するさまが歌われる。
2人 目が合えば/なぜか 逸らすのに
僕をまたすぐ見る/君って もしかしてもしかして
誰といても/微笑み方で
君が僕に恋を恋を/してるのは鉄板
「フライングゲット」と言えば、この1番の「ドS彼氏(彼女)」的イメージが読者の皆さんの中にも強いのではないだろうか。センターを「ヘビーローテーション」時の大島優子から奪還していた前田敦子の超越的なたたずまい(「私のことを嫌いでもAKBのことを嫌いにならないで」とこの曲発表2カ月前の総選挙で言い放っていた)も手伝ってのことかもしれない。しかし、「鉄板」にまで喩えられた「君」から「僕」への恋心の確実性は、2番で急速に揺らいでいく。
その目 誘ってる/僕に来てくれと
それが妄想としても/声を掛けてみなきゃ始まらない
フライングゲット/君に空振りしても
当たってくだけろ/あるある 男じゃないか?
この落差はどういうことだろうか? とりあえず、1番の歌詞は、「僕」=ファンが「君」=アイドルを思うあまりの「妄想」であり、誇大妄想のストーカーにはならなかった「僕」が平常心に戻って歌っているのが2番の歌詞、という解釈が立ち上がる。2番の「僕が君にゾッコンゾッコン/なのは無双」という時代錯誤なほど「ダサい」言葉遣いも、「僕」が「ヲタク」と呼ばれるファンではないかという解釈を補強するように思われる(というのはよく考えると「ヲタク」への偏見であるが、ひと昔前には「牛乳瓶の眼鏡かけた」「危ないタイプの人」を女性側が冤罪で痴漢に仕立て上げ「ストレス解消」する歌詞(おニャン子クラブ「おっとCHIKAN!」1987年)を書いて放送禁止になっていた秋元の「ヲタク」観については、今あえて触れないでおこう)。
これだけでも秋元のアイロニーが感じられるが、歌詞をよく聴くともう一つの解釈が可能であることに気づく。2番で急に「男じゃないか?」「まわりの男たちを出し抜いて」と急に語り手の「僕」の性別が男であることが示唆される(「鉄板」=100%ではないが、暗示の域は超えていると思う)。ということは、1番で性別の明かされない「僕」と、2番の(どうやら男であるらしい)「僕」は別人なのではないか? 安部公房の小説『箱男』ではないが、同じ「僕」という箱でもその中身は入れ替わっているのでは?
私の解釈では、1番の「僕」=2番の「君」=アイドルであり、1番の「君」=2番の「僕」=ファンである。
ギラギラッ容赦ない太陽が
強火で照りつけるon the beach
例えば、砂浜の上で水着を着て踊る(よくAKB48がやっていた)PVを撮影するという状況を考えてみよう。本番を前に現場入りしたアイドルが、撮影を遠くから見守る自分のファンを視野に入れた時の心情。それが1番~2番Aメロ(「告白ウェルカムさおいで!」の部分)までの歌詞と考えてみてはどうだろう?やたら「僕」が「君」の好意を確信していることも、「僕」がアイドルならば説明がつくのではないか。そして、先ほど引用した「その目 誘ってる」の部分からがファンの心情にシフトする箇所。
しかし、これは別にどんでん返しにはならない。「フライングゲット」の最大のアイロニーは、第一の解釈を取っても第二の解釈を取っても、歌詞の大意は特に揺らがないということである。歌詞中でどちらが「僕」でどちらが「君」であろうが、ファンがアイドルに好意を寄せる存在であり、アイドルはその好意に報いることがない存在だ、という条件は不変である。それを理解しながら、聴き手はこの曲を聴くことになる。重複になるが、作品そのものではなく、作品の外部にある、聴き手の受け取り方や作品を取り巻く環境がアイロニーを生み出しているのだ。
フライングゲット/予約待ってるような
まわりの男たちを出し抜いて
「フライングゲット」で歌われる恋が「成就することは可能性としてはあるけれども、現実には絶対にあり得ない」ということが曲の前提をなしていることは、音楽面からも読み取ることができる。「フライングゲット」はサビのコード進行が「Am→F→G→C」である。3和音のうち根音だけ音階で表記すると「ラ→ファ→ソ→ド」、手近の鍵盤で弾いてもらうとTM NETWORK「GET WILD」のサビが聞こえてくる気がすることからもわかるように、小室哲哉が多くのJ-POPで用い他も追随した、通称を「小室進行(6451進行)」という最もJ-POPらしいコード進行の1つ(「WOW WAR TONIGHT」「希望の轍」「青いベンチ」「Summer」「深夜高速」等で使用)である。冒頭にティンバレスという珍しい打楽器を響かせてサンバっぽい感じを醸し出しているが、編曲をリセットすれば「会いたかった」(サビのコード進行が「C→F→Am→G」の小室進行ベータ版)と同じJ-POPアイドルソングど真ん中の曲に他ならない。
また曲のリズムのみに耳をすませてみると、「ドン/ドン/ドン/ドン」と規則正しいドラムが四つ打ちのリズムを刻み、1番のAメロから最後のサビまで途切れることはない。四つ打ち曲は2010年代に一世を風靡し2020年代には完全に廃れるという不思議があるが、ともかくクラブやライブハウスのような閉空間でビートを反復しながらノッてくることに絶大な効果を発揮する。
逆に言えば、1番と2番で歌詞の人称に反転が仕掛けられているような曲に、小室進行の予定調和と四つ打ちの安定性は本来そぐわない。にもかかわらず、この曲がファンに愛されレコード大賞も射止めた名曲であるというのは、「僕」=ファンが、1番の歌詞は「妄想」であることを最初から織り込んでかつその「夢想」を楽しんでいる、ということが皆に共有されていたからではないか。僕が君にゾッコンゾッコンなのは夢想。
ファンの「妄想」がアイドルの声で歌われ、ファンがそんなわけないだろとツッコミを入れつつもその甘美さを享受する。この構造は、本稿の筆者のように外部から見ればアイロニーそのものであるのだが、内部ではおそらくアイロニーと受け取られていない。アイロニーから「好き」=愛へ。そこでは、課金によって誰よりも早く・長く、「推し」の輝きをゲットすることこそが愛情の表現。現在に続く、ファンダムの時代が始まったのだ。
フライングゲット/だから誰より早く
君のハートのすべて僕のもの
好きだから/ラブ・フラゲ!

4. おわりに アイロニーからファンダムへ
以上、1970年代からおよそ15年ごとに2011年まで、アイドルソングにおけるアイロニーを読み取ってきた。80年代とゼロ年代を飛ばしてしまったので、松田聖子のヒット曲が現実には存在しないものをタイトルにしている意味(「ピンクのスイートピーはあっても、赤いスイートピーはない」「マーメイドは人魚なのに、どうして裸足になれるのか」etc、中川右介『阿久悠と松本隆』(朝日選書)・スージー鈴木『80年代音楽解体新書』(彩流社)参照)、「LOVEマシーン」の歌詞に「モーニング娘。もwow wow…」という自己言及のある意味、等については考えることができなかった。あと多くのアイロニカルな名曲を遺したTomato n’ Pine(2012年活動終了)についても触れることができなかった。しかし、点結びでありながらも大きな流れは示せたと思っている。あとは、アイロニーを鍵概念として、読者の皆さんで様々な曲の解釈を深めていってもらいたい。
最後に取り上げた「フライングゲット」発表からもうすぐ15年になる。私たちのアイロニーの現在地はどうなっているのか?次の「アイドルソングのアイロニー」はどのようなあり方をとるのか?
批評家のさやわかは、2010年代が半分も経過しないうちに先駆的に出版された『一〇年代文化論』(星海社新書、2014年)の中で、ゼロ年代後半に意味がポジティブに変化した「残念」という用語が2010年代の象徴となるだろうと予想している。2010年代論としての当否はわからないが、2020年代に「残念」の持つアイロニーが有効性を持たなくなってしまったのは明らかだ。ゼロ年代的な新しいアイロニーの代表選手だったニコニコ動画も、YouTubeに比べるとプラットフォームとしての魅力が若い世代に伝わっているとは言いづらい。そしてYouTubeコメント欄でのアイロニーは、もちろん歓迎されず下手すれば炎上するか通報される世の中だ。
代わって2020年代によく聞かれるようになったのは「推し」や「好き」や「○○愛」という語であり、「愛さえあればアイロニーなどいらない」「私が愛している○○にアイロニーを向けるなんて!」というのが一般的態度である。ファンダムが資本を生み、資本がさらにファンダムを強化する。
アイロニーも伝わらないこんな世の中じゃ。こういう時代に合わせ、真面目な私も明日からはアイロニーを捨てて生きることにしよう。Everyday、本音。

