カラタニその可能性の消尽 『力と交換様式』書評

カラタニその可能性の消尽 『力と交換様式』書評

「ABC、簡単さ/3まで数えるみたいなものさ」 — ジャクソン5

「おつぎの、ささやかなる事件は、九月十一日、ドンカスター(Doncaster)で起こるのさ。/では、さようなら。A・B・C」

 — アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』(1936)に出てくる犯人からの手紙

1. 目的(AIM)

『力と交換様式』(岩波書店、2022)は、柄谷行人が自らの可能性を出し尽くした著作であり、私の考えでは、数作ぶりに放った大ホームランである。

 誰かが作った概念を小器用に使い回し、現代社会にアジャストすることばかり考えているように見える無個性な著作家が並ぶ日本思想書界において、本書は柄谷にしか絶対に書けなかった本であるという点で単独性を持つ。

 本書を開けば、読者はまず「交換様式」A・B・C・Dという分類に出会うことになるのだが、これは自らの過去作『世界史の構造』(2010)で自分が生み出した概念を継承している。本書で最も情熱を傾けて「探究」されるのは『資本論 第一巻』(1867)執筆時のカール・マルクスの思考で、マルクスと言えば『探究Ⅰ』(1986)『探究Ⅱ』(1989)『トランスクリティーク―カントとマルクス』(2001)の三部作、それに長編評論デビュー作と呼ぶべき『マルクスその可能性の中心』(1978)からもレギュラー相談員として毎度出演、柄谷ワールドの最重要人物である。

 資本主義への対抗運動を記述する筆致は、NAMをめぐる高名すぎる失敗を経た著者ならではの気迫が込もっているし、p.414の注(6)では自著『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(2021)に言及して「私自身が二〇〇〇年以来、そのようなアソシエーショニストの運動を、ささやかながら続けている」と試行がなお現在進行形であることも書かれている。注と言えば、本文および注で言及される文献も非常に範囲が広く、ホッブズ・フロイト・ウェーバー・モース・サーリンズ等の古典やダイヤモンド・ハラリ・ピケティ等読書界の話題となった書物はともかく、クリストファー・ボーム『モラルの起源』(2014)やフェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』(2014)やトーマス・レーマー『ヤバい神』(2022)等評価の定まっていない近刊にまで目配りが利いているのは恐れ入るが、この幅広さにも朝日新聞読書欄の書評委員として玉石混交の新刊書を長年読み続けてきた著者ならではの経験が活かされているように感じる(本書に引用される文献が邦訳のあるものに偏っていることを批判していた記事を見かけたが、そういう人は柄谷が挙げている本を全て読んでいるのだろうか?私は読んでいないしこれからも読めないだろう)。

 そして、人間が行為に向かう意識と行為によって作り上げられた現実(「自然」)とが必然的に齟齬をきたすという、本書で何度も繰り返されるテーゼは、デビュー評論「意識と自然—漱石試論」(1969)から著者が一貫して追っているものだ。その驚くべき一貫性は、漱石作品の文庫解説で著者と出会い、『漱石論集成』(1992、増補2001)を書いているとも知らず、漱石の『行人』に合わせて芸名を付けるなんて気合いの入った書評家だなあ、などとぼんやり考えていた過去を持つ私にとって、快い驚きであった。著者はマルクス『資本論』の、おそらく著者にとって最も大きな意味を持ってきた一節を、本書でもなお(元の文脈を変える無理をしてまで)引用している。

王がこのように事態に介入したことが、イギリスにおける産業資本主義の基礎を創るものであった。それが、「自由」であると共に規律をもった「労働力商品」を生みだしたといってもよい。もちろん、王はそれを意識しておこなったのではない。《彼らはこのことを意識はしないが、そうやっているのだ》(『資本論』)。

第2部第3章「絶対王政と宗教改革」p.247、強調筆者

 この少し前に「ルターはそうと知らずに、ドイツの国民と伝統を造った。」(p.239)という文もあるように、マルクスのこだまは歴史上の有名人物の評価にも響いている。王も民衆も英雄も、誰もそうとは知らないが、それを行っており、陳腐な「歴史」を作ってしまう。そのような主体像が、マルクスが『資本論』における等価交換の分析や『ルイ・ボナパルトのブリュメール』(1852)における「笑劇(ファルス)」としての歴史叙述を行った時に、前提としていたものだ。柄谷はそのイメージを、カントの「自然」やフロイトの「無意識」やキルケゴールの「命がけの飛躍」やウィトゲンシュタインの「教える-学ぶ」と共にマルクスから受け取り、今日まで著作の中で変奏してきたのである。この記事では、本書『力と交換様式』を柄谷思想の到達点として読み解くことを目的とする。

2. 素描(BRIEFING)

 本書では、「マルクス主義」が着目した「生産様式」ではなく、『資本論 第一巻』を書いていた時のマルクスがクロースアップした「交換様式」によって、さまざまな社会構成体が分類されている(p.1-2)。

  A: 互酬

  B: 服従と保護

  C: 商品交換

  D: Aの高次元での回復

 それぞれの交換様式に基づく社会構成体について思索した代表的な思想家と著作を挙げると、Aはマルセル・モース『贈与論』、Bはトマス・ホッブズ『リヴァイアサン』、Cはマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、Dはマルクス『資本論』(と、著者によれば、エンゲルス『ドイツ農民戦争』も)である。

 序論の後、第一部「交換から来る『力』」では理論編的にA~Dの交換様式の特徴が述べられ、第二部「世界史の構造と『力』」では古典古代から近代まで、第三部「資本主義の科学」では近代から現代まで、第四部「社会主義の科学」では未来?の理念的な「歴史」が、交換様式A~Dという概念を用いて整理される。古典古代から開始される第二部から第四部までの章区分と叙述は、「『資本論』の全構成を、ヘーゲルの『論理学』を忠実になぞって組み立てた」(p.267)マルクスにならってか、ヘーゲルの『哲学史講義』『歴史哲学講義』に類似するし、自分で言うように「史的唯物論の『公式』として見なされる時代区分」(p.68-69)と重なっている(このため、実際の世界史に詳しい読者ほど、細部の論証に違和感を覚えやすい構成になっているが、著者はそもそも初めから理念的な「歴史」以外を念頭に置いていないようにも感じる)。

 脱線や細部の解釈、著者一流のレトリックに魅力があるため、興味を持った読者の方はぜひとも本文にあたって欲しいのだが、かいつまんで整理すると次のようになる。

交換様式Aは、遊動民が定住化し小集団を形成していく過程で、集団内部でまたは他の共同体との間で行った贈与交換である。交換様式Aが支配的な氏族社会における首長は、他の有力者と「同輩(peer)」(p.115)であり、戦いの時には先頭に立って進む(p.97)。

交換様式Bは、首長が王となって絶対的に支配し、他の者が自発的に服従する時に出現する。王は「カリスマ」であり、もはや首長のようには身を挺して戦わない。交換様式Bも、国家において「支配する側にも相手を保護する義務が生じる」という点で相互性を持ち、この点を理論化したホッブズはこの交換を「恐怖に強要された契約」(p.101)と呼んだ。

交換様式Cは、Bと同じ時期に始まり、交易によって都市国家や帝国に広まった商品交換である。ここで「市場」が、「貨幣」が現れる。国家が帝国となる過程で、「多数の首長や王を抑えるために、それぞれのもつ神々を超える、新たな神を導入する必要があった」(p.155)。こうして「世界宗教」が誕生する。

交換様式Dは、交換様式BとCの優越に対抗し、「普遍宗教」の基盤をなす。「Dとは、BとCとによって封じ込められたAの、”高次元での回復”にほかならない」(p.158)。「普遍宗教」は原遊動性への回帰であり、ゾロアスター教、モーセのユダヤ教、イエス、預言者としてのソクラテス、ブッダなどが例に挙げられている。

 以上が第二部の簡単な素描である。目を瞠るのは、交換様式という概念の導入により、著者が過去に提起していたいくつかの論点が再整理されたことだ。例えば、『世界共和国へ』(2006)の副題に掲げられていた「資本=ネーション=国家」は、資本はC、国家はB、ネーションは「Aの”低次元での”回復」(p.292)であるとそれぞれの要素が位置づけられ、実は出自や原理を異にする概念であることがさらにわかりやすくなった。

このように、資本=ネーション=国家が出現するとともに、「資本の揚棄」という問題も、「国家の揚棄」という問題も、以前にもまして難しくなった。なぜなら、資本、ネーション、国家、すなわち、交換様式C、A、Bが相互に助け合いつつ存続するからだ。したがって、それらを揚棄することを考えるとき、それらとは別の何かが不可欠となる。それがDにほかならない。

(p.292、強調筆者)

 一つの交換様式が支配的な社会構成体であっても、異なる交換様式も残存する。「交換様式A、B、Cは相互にからまりあっている」(p.131)のだ。例えば、国家成立後にAはBの下に抑え込まれるが、農業共同体として存続する。Cの根底にもAがある(p.133)。だからこそ、Aはファシズム・ナチズム・今日のポピュリズムの形で、C優位の社会にあっても「低次元」で回復されるのだ。

 よし、分類はわかった。それではそもそも、A、B、C、Dはどのようにして成立するのか?AからBへは何を原因として移行するのか?…読者としてはそこが気になる所である。ここまでの素描では故意に省略してきたが、著者はこの点も、と言うより、この点だけに傾注して本書を構想している。それが、私の考えでは本書の単独性を最も良く象徴する、タイトルにある「力」についての考察である。

3. 考察(CONSIDERATION)

 交換には、何か「霊」的な「力」が関わっている。マルクスが『資本論』でフェティシズム(物神化)を論じた時、彼はこのことに気づいており、「貨幣とは物に、一般的価値形態あるいは貨幣形態、つまり霊が『付着』した状態である」(p.25)と考えた。ジャック・デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、例えば『共産党宣言』冒頭でマルクスが「共産主義という幽霊」と書いたこと等マルクスの用いた亡霊の比喩を取り上げ、ハイデガー流の存在論(ontologie)ならぬ「憑在論(hauntologie)」を構想した。しかし、著者はデリダを批判して言う。

しかし、彼[=デリダ]はそのような霊が、何から、いかにして来たのかを示さなかった。そのため、結局、言葉遊びに類する議論になってしまったように見える。私の考えでは、さまざまな霊的な力は、単なる比喩ではなく、異なる交換様式に由来する、現実に働く、観念的な力である。[…]彼が「ヘーゲルの弟子」であることを公言したのは、その時点である。

(p.31 柄谷の評価にかかわらず、私[=筆者]の考えでは、『マルクスの亡霊たち』は『ハムレット』とマルクスを無理やり結び付けようとするデリダの力業が読める名著であり、私の考えでは、デリダの最高傑作である。)

 マルクス以前に、ホッブズは交換様式Bから生じた霊的な力を怪獣の名から「リヴァイアサン」と名付け、マルクス以後に、モースは交換様式Aから生じた霊的な力「ハウ」を見出した。霊を重要視したのは、彼らが非科学的だったからではない。むしろ、その逆であり、市場経済に「見えざる手」を発見しながら、「物神の存在を否認」(p.59)したアダム・スミスよりも、彼らの方がはるかに科学的だった。「科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊として見られるほかないような『力』の存在を承認した上で、その謎を解明することである」(p.54)。にもかかわらず、マルクス主義を継承したはずのルカーチは「物神化」ではなく「物象化」という用語を使い、霊の問題を捨象してしまった。だからこそ著者は、霊の問題、スピリチュアリティの問題を、マルクス以来初めて正面から取り上げるのである。

 …というのが本書の切った大見得であり、ここからは私の考察になる。期待に胸高鳴らせた私としては非常に残念ながら、著者もまた、批判の対象としていたデリダと同じく「そのような霊が、何から、いかにして来たのか」は満足に示せていないように読めてしまった。「それ、交換様式Aからですから」というのは、言い換えであって答えにはなっていない。よく考えれば、「霊」ならぬ人間の著者にも示せなくて当然ではあるのだが。

そこに始まったのが交換様式A(贈与交換)である。これはたんに人々の合意や協力によってできたのではない。つまり、人々の「意識」によるのではない。もしそうであれば、交換は成り立たなかっただろう。それを成り立たせたのが、各人の意志を越えた「霊」の力である。

(p.81、強調筆者)

軍事的征服は、相手を物理的な力によって抑えるが、それだけでは、相手が自発的に服従することにはならない。それを可能にするのは、物理的な力ではなく、交換様式Aに伴う霊的な力をさらに上まわるような霊的な力である。それは交換様式Bによってもたらされる。

(p.116、強調筆者)

交換様式Cの発展はBのそれと切り離せないのである。/とはいえ、貨幣の「力」は国家によって与えられたものではない。[…]貨幣に諸物と交換しうる「力」を付与するのは、国家ではなく、そこに付着した”何か”、つまり貨幣物神である。

(p.138 、強調筆者)

 第一部より、AからCのそれぞれについて、誕生や移行の局面に該当する箇所を抜き出してみた。著者が一生懸命に説明してくれるので読者としての私には何となくわかる気もするのだが、それでもこうして読むと、肝心な場面で著者が「霊」や「何か」、そして「力」という比喩に依存してしまい、レトリックも極端に精密さを失っているのがわかるだろう。意地の悪い言い方をすれば、「霊」の由来や正体をつきとめるはずの著者自身が次から次へと「霊」を呼び出してしまっているのだ(大川隆法メソッドにあらず)。

 では、交換様式Dはどうなのか?著者が「Dに対して本格的に向き合うのは、事実上、本書が初めて」(p.34-35)と言うDは?

 Dが「Aの高次元での回復」と定義される以上、「Aの低次元での回復」たるポピュリズム等との違いが論じられるのを期待する所だが、これも残念ながら、明確な線引きはなされない。千年王国運動がDなら、幕末の「ええじゃないか」もDになるのか?それともポピュリズム的だから低次元なのか?「今日世界宗教と見なされる諸宗教・諸宗派はすべて、交換様式Dに根ざしているといってよい。[…]しかし、同時にそこにA・B・Cに由来する要素が付随している」(p.390)、ではポピュリズムを全く伴わない宗教運動はあるのか?大川隆法は?オウムは?統一教会は?それらがことごとくDではないとすれば、Dとはいったい何なのか?

むしろ、Dは彼ら[=預言者たち]の意志に反してあらわれた。Dは自己から発するのでなく、強迫的に到来するがゆえに、見通すことも理解することもできない。

(p.174)

 全体の事件における「D」(ドンカスターの事件)の位置を解き明かす、『ABC殺人事件』での名探偵ポワロの快刀乱麻を期待しても、著者からは否定神学的な定義しか返ってこない。さらに深刻なのは、Dの到来は、人間が意識し実現に向かって努力できるような性質を持たないと繰り返し言明されることだ。

ところがDは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば”向こうから”来るのだ。

たとえば、カントが『永遠平和のために』で提起した「世界共和国」の構想は、人間が考案したものにすぎないように見える。その意味で、交換様式Aと類似する。したがって、無力である。[…]しかしそれは、消えることなく回帰してきた。今後にも、改めて回帰するだろう。そしてそのときそれは、AというよりもDとして現れる、といってよい。

(p.396-397)

 私はここに、著者の全著作を彩り続ける、マルクスのこだまを聴くことができる。『ハムレット』の世界に響く父王の亡霊の言葉のように。《彼らはこのことを意識はしないが、そうやっているのだ》。誰もそうとは知らないが、それを行っており、我々は陳腐な「歴史」を作ってしまう。Dを到来させようとする人為的な営みは挫折し、ある日突然、無作為な行動によって「向こうから」Dが到来する。いつになるかは、わからないが、たぶん「見えざる手」とか何かがきっと…。

 私は最初に、『力と交換様式』を「柄谷行人が自らの可能性を出し尽くした著作であり、数作ぶりに放った大ホームランである」と紹介した。長年柄谷の著作を読んできたものとして、本書が柄谷思想の総決算であることは疑い得ない。先学の説にも何にも頼らず、「私の考えでは」を連呼して押していく叙述は、読んでいてむちゃくちゃ面白い。しかし、最後の結論がいわば「できることは特にない、果報は寝て待てじゃ」というのでは、私の考えでは、柄谷が自分の思想は可能性を使い尽くし、行き止まり(DEAD END)に至ったと「内面」を「告白」したのに等しいのではないか。

 そうであったとしてもなお、大打者が現役打席最後に放ったホームランの軌跡をファンが何度でも確かめるように、本書は繰り返し味読される価値がある。資本主義と宗教やスピリチュアリティの関連性を理論的に真っ向から取り上げた点。宗教が「『神強制』、すなわち祈願や呪術につながる傾向がある。また、家族的な共同体に閉じこもることに結びつきがちである」(p.391)と安倍元首相暗殺事件以後の問題を暗示するような指摘をしている点。何よりも、年老いてもさらにマルクスの可能性の先に進もうとする勇気。私は今より勉強した後で、本書を再読して初読では気づかなかった部分をたどり直し、Dの到来する日を待ちたいと思う者である。私の考えでは、であるが。

(DONE)

哲学カテゴリの最新記事