言ってわかるなら苦労しない~シルヴァン・ショメ映画作品の分析~

言ってわかるなら苦労しない~シルヴァン・ショメ映画作品の分析~
(「ベルヴィルランデブー」のメインイメージ。引用元:「HMV&BOOKS online」https://www.hmv.co.jp/news/article/2104291010/、最終閲覧日2022年6月1日)

 現代のフランスの著名な映画監督であるシルヴァン・ショメは、アニメーションだけでなく漫画(バンドデシネ)の原作や実写映画の制作も行う。しかし、その多様な作品達の中には一貫した軸のようなものがある。それは「内面」を言葉で描写しない、ということだ。

 

お前は俺だ

 ところで、シルヴァン・ショメとジブリでおなじみ高畑勲は対談したことがあるのをご存じだろうか?[1] ショメをゲストに迎えての会のはずが、高畑がしゃべる、しゃべる。気づくと、ショメは高畑にちょっと怒られたりもしていて、ある意味見どころ満載なのだが、本論において重要なのは、対談の中で作品が観客に気に入られるかどうかは、作品の登場人物たちの誰かに観客が同化できるかどうか、つまりお前は俺だ!という雷に撃たれるような誤解が、非常に大切な要素になってくる、ということを語る[1]。このような作品へのスタンスが「内面」を言葉にしないことにつながってきているのではないだろうか。

 まず、「内面」を言葉にしないということがどういう意味かを述べる。ここでいう「内面」とは端的に言えば気持ちのことである。例えば、自分の大切な犬が死んでしまった時の感情や、ソフトクリームを落としてしまった時に湧き上がってくる感情における、感情の部分だ。多くの場合、上記のようなシチュエーションになるとその時の感情を「悲しい」という言葉によって表現してしまう。特に小説作品などにはその要素が強い。また、映像作品においても「なんでだよ!?」や、「やっちまった…」と言った露骨に感情を露わにする言葉と共に、登場人物が動いていく。このようにすると、観客はその対象の「内面」を「悲しい」という言葉1つによって理解してしまうのではないだろうか。つまり、先ほどの犬とソフトクリームの例にしても、その悲しみには差異があるはずだ。そして、それがどれくらい「悲しいの」か本質的には観客にはわからないはずである。しかし言葉1つに還元されてしまった感情はそのわからなさ、つまり「隙間」を残さない。観客にその感情を想像する「隙間」を与えないのだ。そして、想像することを許さない作品は観客が登場人物たちに、自身たちを同化することを妨げてしまう。観客はその「隙間」の中で、登場人物たちの悲しみを自分なりに解釈をして理解する。その過程で、観客は登場する彼らに共感を示し、自分との共通項を見出すことができるのである。

 そして前述した「隙間」を生み出すための工夫として、シルヴァン・ショメ映像作品においては主要な登場人物たちが話をしない。特に『老婦人と鳩』(シルヴァン・ショメ、1996)と『ベルヴィル・ランデブー』(シルヴァン・ショメ、2005)では、登場人物のほとんどは発話することはない。そして、『僕を探しに』(シルヴァン・ショメ、2015)では、言葉を発しない相手に対して観客がいかに想像を働かせているかを映像の内部で見ることが出来る。主人公のポールが、自分の母親の死が実は自分を育ててくれた叔母たちが使っていたピアノが2階から落ちてきたためだということを知った時も、彼は何も言えずに叔母たちを見つめる。もちろん、演者の目には驚愕の色が伺えはするのだが、叔母たちはポールが自分たちを責めていると解釈をする。ポールは喋れないし、何かのジェスチャーでそれを示しているわけでもないので、叔母たちに対して怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのかはわからないが、叔母たちは自分たちを責めているのだと解釈をする。これはあくまで、彼女たちのポールの感情に対する解釈である。このようなことができるのは、ポールが喋ることができないためその気持ちを、明確に示すことができないからだ。もちろん、身体を使って表現することも可能だが、それでもそこから読み取れる情報は言葉ほど画一的で明快ではない。叔母たちは自らとポールの感情の間の「隙間」の中で想像するのだ。

いい音楽で以心伝心?

 前章で、「内面」を明確に言葉にしないことと、その効用について述べたが、「内面」を推測するヒントは作品内で与えられている。例えば、シルヴァン・ショメは登場人物の自室という私的な空間の内装によってその人物の「内面」を表現しようとした、という。[2]しかし、工夫はそれだけでは終わらない。それはシルヴァン・ショメ作品に多く登場する音・音楽やモチーフたちからも見て取れるのではないか。

シルヴァン・ショメは、音が映像作品の成功の半分を担う、と語るほど音楽に対しての強いこだわりを持っている。[3]しかし、考えてみれば音というのも、感情を明示しないながらにも推測させるための大きな要素を担っているのではないか。どのようにつくられた音で、どのような大きさで、誰によって生み出されているのか、などは「内面」表現に対して有効な効果を持っていると考える。『老婦人と鳩』では、主人公の男が、老婦人にたらふくご飯を食べさせてもらったあとに、鳩が窓を叩く音をきっかけに踊り始める。バッグに流れる音楽も決してオーケストラの豪華な演奏があるのではなく、1つの楽器による簡素でそれでいて軽やかな演奏が流れている。また、『ベルヴィル・ランデブー』でも、かつては有名なギタリストのもとで歌っていた3姉妹が、年老いたあとは自分たちで新聞紙や、冷蔵庫、掃除機を使って演奏をしながら当時と同じ歌をそれでも楽しそうに歌う姿からは格式ばったものではなく、純粋に子供のように音楽を楽しむ彼女たちの「内面」が伺える。そして、同作品内でほとんど喋らないスーザ夫人が一度だけ、3姉妹の家でカメラに背を向けた形で大声で意味のわからない歌詞の歌(少なくとも字幕には訳されない)を歌いながら演奏をする。コの姿からは普段言葉にしてなにも発しない彼女の、強い思いを感じ取ることが出来る。

うねうねの体やビックな瞳

 シルヴァン・ショメのアニメーション作品はその独特の線と、登場人物の動きが印象的である。『イリュージョニスト』(シルヴァン・ショメ、2010)では、前2つのアニメーション作品とは異なり、キャラクターの身体が極端に大きかったり、小さかったりということが少ない。しかし、その分登場人物の動き方は非常に特徴的である。冒頭主人公と共に共演する女性シンガーの独特の舞台上での動きや、ロック歌手の激しくてくねっとした動きなどは印象的である。彼らのデフォルメされた動き方によってその「内面」が浮かび上がるのと同時に、主人公のタチシェフの心細い様子が彼らの動きとの対比によって描かれている。

「ベルヴィル・ランデブー」に登場する主人公(本ページ最上部のおばあちゃん)の孫。鼻や目が「異常」に大きくなっている。(引用元「映画.com」https://eiga.com/movie/1287/gallery/4/)
「イリュージョニスト」の一場面。(引用元「映画.com」https://eiga.com/movie/55863/gallery/)

伝え方はピエロにならえ!

 ここまでは、登場人物たちの「内面」に対して想像を働かせるための「隙間」を与えるための機能として、言葉をしゃべらないことを語ってきたが、この機能にはもう1つ重要な意味があると考える。

シルヴァン・ショメ作品にはピエロが大切なモチーフとして登場する。これはシルヴァン・ショメが言う様にピエロが「涙」と「笑い」どちらをも含み込む存在であり、光の当て方によって笑いにも悲劇にも変わる要素を持つものであること、そしてそれがフランスの敗者を愛する精神にあっていることも見逃せないことだが、[4]それだけではない。「エッフェル塔」(シルヴァン・ショメ、2006)に登場するピエロは象徴的で彼はパントマイムによって話を進める。何も語ることはない。そこでは外見に表れる変化こそが「内面」となり、その「内面」をピエロは自分で作り出すのだ。つまり、「内面」と思われるものを意図的に強調して演じているのだ。それによって彼は外側に見える「内面」の危うさを示しているのではないだろうか。外側に出てきたものが以下に表層的なもので、演じられうるものかをピエロたちは観客に示している。それにより、観客は言葉によって表された「内面」に対して懐疑的な視線を向けることが可能になるのだ。その認識が立ち上がった時に、語らないシルヴァン・ショメ作品のキャラクターたちの「内面」への思考と、言葉に頼らない誠実な彼らに対しての信頼と愛情が高まるのではないだろうか。

結論

 シルヴァン・ショメ作品における「内面」を言葉にしないことは、その機能によって観客と登場人物の同化を促している。しかし、観客は「内面」に対して何の知識も許されないのではなく、言葉にはならない様々な点によって想像のヒントを獲得することが出来る。それはピエロが教えてくれるように、表層に浮かぶものよりも難解で見えにくいが、確かに信頼がおけるものなのである。

参考文献

・『老婦人と鳩』シルヴァン・ショメ、1996

・『ベルヴィル・ランデブー』監督・脚本:シルヴァン・ショメ、2005 DVD

・高畑勲・シルヴァン・ショメ「対談 高畑勲×シルヴァン・ショメ ベルヴィルそしてアニメーションのあり方を語る」『ベルヴィル・ランデブー』監督・脚本:シルヴァン・ショメ、2005 DVD

・シルヴァン・ショメ「完成披露試写会 監督舞台挨拶」『ベルヴィル・ランデブー』監督・脚本:シルヴァン・ショメ、2005 DVD

・『イリュージョニスト』監督・脚本:シルヴァン・ショメ、オリジナル脚本:ジャック・タチ、2010 DVD

・『僕を探しに』監督:シルヴァン・ショメ、2015 DVD

・「エッフェル塔」シルヴァン・ショメ『パリ、ジュテーム』、2007 DVD


[1]  ショメ・高畑、2005(DVD発売年と同様)参考

[2] ショメ・高畑、2005(DVD発売年と同様)参考

[3] ショメ、監督舞台挨拶、2005(DVD発売年と同様) 参考

[4]ショメ・高畑、2005(DVD発売年と同様)参考

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