現象学と第一哲学
前から書きたかった私なりの現象学の結論を書いておこうと思う。
第一哲学(現象学)が目指していたものは自分たちが望むようなものを獲得しなかったように思われる。一つの安定した基盤を獲得すること。しかも真なる基盤というだけでなく、善でもあり、美でもあるような基盤を獲得すること。これが一つの夢であった。
哲学はさまざまな学問に貢献してきた。というよりも哲学的な考え方というのは、ある意味で学問的であり、探究的だからである。物理学にせよ数学にせよ論理学にせよ、これらは数字や論理(理念)を基盤に据えた探究であり、これを現実に当てはめてみようとする探究である。世界は、現実世界はつまり理念的である。現実の背後にはそれを成り立たしめる何かが存在するのである。
期待を裏切ったのは、そこには何もなかった、ということではない。哲学の思考体系上、何かが存在する。それは疑い得ないからなのではなく、それが第一哲学の定言命法だからである。つまり、第一哲学にせよ、例えば現象学を選択すればの話だが、ある種の観念論を免れ得ない。しかし、その何かは、古典的な意味での真でも善でも美でもない。
現象学の基底
何か(現象)があるにしても、つまり、それは良いものではないのだ。無と呼ぶべき何かがある。そして、そこには、確かに生成の無垢(ニーチェ)と呼ぶべきものがある。それ以上の表現は哲学言語ではなかなか難しいが、その無(無限)が形あるものへと収縮、凝固することによって私たちの生が成立している。しかし、その無はごく一般的な意味でも、また第一哲学的な意味でも、良いと呼べるものではない。
つまり、その現象は非人間的なものだったわけである。人間性さえもエポケーしたところに現象はある。現象学は、ちょっと勘違いされている感じもするが、人間中心主義(実存主義)に到達したわけではない。基礎に人間性があるわけではないのである。すると、現象学によって人間性を肯定できる根拠はなくなることになる。この結論は、従来の哲学観からすれば、ある意味で微妙な結論だったわけである。
現象そのものは、非人間的なものである。その意味で、実存主義は間違っているし、通俗的な意味での現象学も間違っている。現象学には人間中心主義的なところがあるにしても、エポケーに従うなら、エポケーは人間性も懐疑する。私たちは人間であるのではなく、人間になる(のふりをする、と認められる)のである。
非人間的なものが基礎にあるということは、人間が制度化された領域であるということだ。人間社会や文化といった枠組みは制度化されたものに過ぎない。人間的な営みは、いわゆる「人間」に特有の特権的な営みではない。そうではなくて、誰しもが人間社会に参入しているだけなのだ。私たちは、ある種の知性を持った集団が属している制度を「人間的なもの」と呼んでいるだけであって、そこに参入する可能性はどの生物にも(ゾウにもアリにも)ある。
現象学的な領野では、世界のあらゆるものがグラデーションになる。例えば人間と動物との間の断絶は、生物学的にあるいは素朴に見た目で(つまり象徴制度的に)区別しているに過ぎない。人間が動物だっていうこともあり得るし、動物が人間だっていうことも現象学的な領野ではありうるのだ。だからこそ、私たちはAIに恋をすることもできるわけだし、動物に知性を感じることもある。AIが人間社会に参入することは原理的にありえることである。
現象学と人間的な制度
それでは人間的な制度の特徴は? つまり、人間的な文化制度(法、政治、経済、言語、習俗etc…)の特徴は? 人間と呼ばれる存在は他の生物よりも、自らの制度に切り縮められにくい傾向性を持っている。つまり、人間的な象徴制度からの無限の逸脱としての現象、ある種の発想の豊かさ、想像(創造)性、即興性、自由のことである。逆にいうと、人間的な制度の特徴とは、それを許容する開放性というということになる。
現象の起源はよくわからない。ここで言えるのは、その現象の非人間的な領野で、現象が崇高によって揺さぶられ、情動性や身体性など様々な現象が折り重なり徐々に固定化に向かっていくということである。現象には無限や永遠にみえるような何かがあって、そこからどうにかこうにかして「人間」はある制度の中に参入する。制度の起源もよくわからない。どういうわけか完全に閉じたわけではない型のようなものが存在する。そこにはまりこみながらも、そこから逃げ出すことも多いのがそこにはまり込んだ者たちの特徴である。それゆえ、その集団(人間)は他の生物よりも少しばかり多くの謎を残しているかにみえる。
だから、非常に矛盾した性質が人間性にはあることになる。人間的文化の制度(法、政治、経済、言語、習俗etc…)を無限に至るまでカオスにさせる可能性を残しながら、どうにかカオスを収縮させることができるということである。どうやら生物の歴史を考えると、そういった逸脱と収縮の度合いが地球を支配するのにある程度関わっているように思える。
この逸脱と収縮の加減がちょうどいい塩梅だったことによって、人類は発展を遂げてきた。芸術にせよ文学にせよ科学にせよ、この逸脱があればこその技術である。人間はある意味で否定性に貫かれている。
哲学(現象学)の終焉
哲学の終焉といったものが叫ばれている。その場合、哲学の終焉というのは、何か根本的な学問の終焉であって、だからこそ学問そのものが終わったというふうに考えられてしまうことがある。しかしそうではない。単純に一つの西洋的な思考体系が限界に到達したというだけである。ぎりぎりまでやったということである。他にも思考体系は存在するわけで学問そのものが終わったわけではない(もちろん「学問」の定義によるが)。哲学の終焉は、新たな学問の始まりであるかもしれない。探究の仕方もおそらく無限である。
現象学は通常の意味では人生の指針に全くならない。人生に意味を見出せた人と同じくらい見出せていない人も肯定される。アンガージュマンできなくても、むしろ「そういうもんだよね」ということになる。つまりできることと同じくらいできないことも当たり前ということになる。かといって全人類に対して優しい思想だというわけではない。ほぼ運命にみえる形で死にゆく人々に対して、何か優しいことを言う言葉も現象学は持ち合わせていない。芥川が言ったように、現象学が持っているのは同情と諧謔ぐらいなのかもしれない。
