全てを抱えて歩いていくー映画「インフル病みのペトロフ家」感想ー

全てを抱えて歩いていくー映画「インフル病みのペトロフ家」感想ー

1.はじめに

 幾度となく、その映画のことを思い返してしまっている。雪と凍てつきと終わりのない曇天がもたらす、底深いエネルギー。それに圧倒されたせいかもしれない。あまりに思い起こされるから、その映画について書きたいと思ったけれど、観たのは大分前で、また一度しか行けていないから、記憶はおぼろ、間違いも多々してしまうかも。でも、話のきっかけとなればというつもりで、書いてみる。

 今回、紹介したいその映画は「インフル病みのペトロフ家」(キリル・セレブレンニコフ監督・2021年)。現代のロシアに住む、ペトロフとその妻の生活を追っていくのだが、随所に妄想や過去の回想が織り込まれている。そのようになる原因の一つには、映画内の冬のロシアではインフルが大流行しており、ペトロフもまた熱に侵され、家族内でも伝染しているということがある。そのような体の状態も相まって生まれる妄想はしかし、現実との区別が曖昧になっていく、そして映画の観客もまた、どこまでが現実かわからなくなってくる。

 その中で、映画を観る人は気付くだろう、映画内の人物も、その人たちのいる社会も、何だかうまくいっていないこと。高熱を出した子供に与えられるのは、うん十年前のアスピリンだけとか。民主制を批判して、「多数派が間違わないなんておかしい、大統領はくじ引きで選ぶべきだ、そうしたら皆真面目に考えるから」などと飲んだくれながら議論していた人々が、いつの間にか取っ組み合いになって、お互いを絞め殺さんとしているとか。バスで席をお爺さんに譲った少女が、譲ったお爺さんに「昔なら君の年齢の女の子はもう子供を産んでいる頃なのに」とか何とか言われるとか。

 しかし最も危ういのは、その世界では死が重みを持てなくなっているということだろう。この感想文ではその観点から、「インフル病みのペトロフ家」を考えてみたい。具体的には、映画の前半、ペトロフとその妻の生活の中で出てくる人の死について、事例を拾って、その軽さを示す。そして、映画後半挿入される雪娘の物語の意味に触れつつ、死の軽さが導く映画の結末を考察したい。

2.妄想と現実、生と死

 第二節では、ペトロフとその妻の行動を思い返しつつ、そこから映画内の現代が、死が重みを持てない世界であることを示す。現代ロシアが舞台の物語前半は、ペトロフと妻について追っていく作りであるから、二人の行動の中で人の死が関係する場面をあげてみて、それを確認したい。

 まず妻について。彼女は内側から湧き上がるものを時に静められず、人を殺す。

 彼女の行動を追ってみると、彼女は妄想をよくする、そして外していた眼鏡をかけて現実に帰ってくるようだ。例えば、すぐ近くに人がいる中で、図書館の書棚の陰で男性と抱き合う妄想をする。ただ、彼女のする妄想の多くは、他者への明確な攻撃性を持つものである。閉館後の図書館で行われた集会に来ていた男にイラっとして、その男を殴りに殴って血まみれにし、図書館を引きずり回す、という妄想をして現実では手出しはしない、とか。また、言う通りにしない息子へのイライラがつのり、調理中に思わず息子の首を包丁で切る、ことが映像的に頭に浮かび、慌てて眼鏡をかけて包丁をしまい、正気に戻ろうとする、とか。

 そして公園で男性を刺殺する、という妄想…なのかと思いきや、これは本当に彼女はやってしまったのかもしれない。「公園で男が殺されていたが、何度も刃物で刺されていた、あれは女のやり口だな」という話を、バスの乗客がしているのを彼女は耳にした。また家に帰って放っておいたカバンから包丁がのぞいているのを、夫のペトロフに発見された。そして男を殺した時に着ていたコートを、彼女は何度も洗濯機に入れる。ただ、最後まで彼女がしたことを発見し、咎める人はいない。ナイフを見つけたペトロフも、突き詰めない。誰にも何も言われない中で、彼女は血の付いたコートがぐるぐる回る洗濯機を見つめ続け、叫ぶ。

 このように見てくると、妻は生活の中で募らせるものがあり、普段は妄想でそれが発散されているが、時に抑えがきかなくなってしまうことがあるとわかる。そしてそれは容易に誰かを死なせることになるが、犯したことは放置される。誰も指摘しないから、自分だけで背負わなければならない。

 では夫のペトロフはどうだろう。彼は誰かを殺すように頼まれて、ためらいなくそれを実行する。

 例えば、彼がバスに乗っている時にバスが止められ、男に「ちょっと手伝ってくれ」と言われペトロフを含めた数人が外に出される。ペトロフ達が男についていくと、共産党員が目隠しをされ手を縛られて壁の前に並べられている。「こいつらを撃ってくれ」と男がペトロフ達に頼むと、ペトロフ達は躊躇いなく撃ち殺す。そしてそのままバスに帰っていく。私が映画を観た時には、これはペトロフが本当にやっていることだと思ったが、パンフレットを確認すると、これは彼が熱にうかされてした妄想らしい(p.8)。

また、ペトロフは友人の作家志望の青年に、自殺を手伝ってくれと言われる。彼は自分の才能が世の中に受け入れられないことが、嫌になったらしい。自分の作品をペトロフに託し、彼はピストルを口に咥える。青年がペトロフに引き金を引けと言うから、ペトロフは迷わずに引く。青年が「チェブラーシカ、学校に行くよ、バン」の感じでやれと言うから、ペトロフも「チェブラーシカ、学校に行くよ」と復唱してバン、というような気軽さで、やる。そしてペトロフは、青年と彼の作品を、彼の家にガソリンを撒いて火をつけることで燃やしてしまう。ペトロフは背後で彼の家が爆発しても振り返らないし、この出来事を知る人はいない。こちらは、妄想ではなく、実際にペトロフが行ったこととして描かれている。私は気付けなかったが、パンフレットによるとこのエピソードは1990年代のもので、現在のペトロフの生きている2004年より前に起こっていることらしい。

 まとめると、ペトロフは、妻のように、自分の内部に生まれてしまった殺意から人を攻撃するのではない一方で、頼まれて人を殺すことに何の躊躇いもない。相手に対する恨みや憎しみのないままに、易々と人を殺せる。そしてまたそれを批判する人もいない。

 以上、映画前半で中心となる二人の行動を見てきた。ペトロフも妻も人を殺すが、それを咎める人がいなかった。積もった内側を抑えきれずに人を刺した妻は、それを誰にも問われないから、自分だけでその事実を負っていく。一方ペトロフは、恨みから人に暴力を振るうことはないが、他人に頼まれれば何とも思わずに人を撃つ。自分の行為による死体に対しても、風景の一部のように通り過ぎていく。そして家に帰って仕事をしたり、家族と過ごしたりする。
 また、ペトロフや妻が人を殺したのが妄想なのか、実際なのか、一応どちらなのかを書いてみたが、映画を観ていてはっきりわかるようにはなっていない。むしろ、人を殺したい衝動とか、自分が人を殺す光景が頭に浮かぶとか、そういうのが現実とないまぜになっている危うさを感じるべきなのだろう。区別がつかないままに、生活が進んでいくのだ。

 このような点から、物語前半における死の軽さを見てきたつもりだが、殺人への咎めがないこととか、殺人の妄想と現実の区別がつかないことを根拠にしてそれを述べるのは、あまりに幼稚かもしれない。でも、物語内の死については第四節でも触れるから、それとの連関もあって第二節では一応このようにまとめてみた。

 とりあえず映画前半、現代ロシアのペトロフと妻の日々は、なかなか殺伐としたものであることは伝わったかと思う、本人たちが、自分が何か一線を超えている状態だと自覚しているのかはわからないけれど。第三節では、そのような前半の折々に、ペトロフの回想として美しく出てくる、ソ連時代の雪娘について考える。後半で雪娘視点の物語になると、ペトロフの中の雪娘像との差が見えてくる。その語り直しの意味も考えたい。

3.雪娘とソ連時代

 ここでは、雪娘について考える。雪娘は映画前半、ペトロフが時折思い出す子供の頃の思い出として出てくる。ヨールカ祭の日、子供たちがツリーを囲んだ中で、雪娘やマロースじいさんが現れ、皆で歌う。その中で、雪娘と子供のペトロフは手を繋いでいる。ペトロフが「あなたは本物?」と尋ねると、雪娘は「本物よ」と答える。それはインフルでぼんやりした大人のペトロフにふと降りてくる、美しく清らかな過去だ。

 その雪娘については、映画後半に雪娘視点の物語が用意されている。それを見ると、ペトロフにとってのきれいな思い出、祭の日のその出来事は、雪娘にとっては生々しい苦しみを伴うものであったことがわかる。その映画後半のソ連時代、雪娘視点の物語を見ながら、それが挿入された意味も考えていきたい。

 祭の日、雪娘の格好をして、ペトロフに雪娘は「私は本物よ」と言ったが、もちろん彼女は普通の人間であって、毎日の生活をしていた。彼女の名はマリーナと言った。

 マリーナには、俳優志望の恋人がいた。恋人がヨールカ祭でマロースじいさんに扮することになっており、マリーナは雪娘の役をやるように頼まれていた。そして祭の日にペトロフと会うことになるのだ。彼女はその頃、恋人とうまくいっていなかった。例えば、恋人の母親はマリーナの出自などを問題視して、マリーナに好感を持っていないようだった。一方の恋人は母親と仲が良く、マリーナはマザコン感のある自分の恋人を嫌になりつつあった。そしてマリーナは家庭教師先の男生徒と関係を持ち、彼の子供を身ごもってさえいた。そのことを恋人にも言えず、また自分の親にも言えていなかった。

 祭の当日、イベントが始まる前に、彼女は会場の電話を使わせてもらい自分の母親に妊娠のことを打ち明けようとする。しかし電話をかけると、母親が自分の周囲の愚痴をとめどなく話すから、話を切り出せない。そのまま電話は終わってしまう。

 その後、子供の集まる会場に雪娘の格好をして出てきた彼女は、雪娘を演じて歌ったりしながらも悪阻で苦しいのだ。祭の途中で彼女はトイレに駆け込み嘔吐し、「くそっ、絶対中絶よ、中絶!!」と言い捨てる。

 これが、ペトロフの思い出すきれいな過去を、雪娘側から語り直した物語だ。ペトロフは母親に祭の会場に連れられた時、母親が建物の一室にいる女性と口論になるのを見ていたが、それは後に祭で会う雪娘だった。母親は会場の役人か何かだとマリーナを勘違いし、彼女ばかり電話を使っているのに文句を言っていたが、マリーナは祭でのパフォーマンスのためにたまたま会場にいただけだったし、また電話で妊娠を自分の母親に告げようとしてできなかったというような、切なさや辛さの中にいた。でも、それをペトロフは知らない。加えて、祭の中でペトロフは雪娘と手を握り踊って、そこで「あなたは本物?」つまり本物の雪娘かどうかを聞いた。雪娘は「本物よ」と答えていたが、マリーナの物語が明かすには、彼女は全くの人間的生活を営む人間で、恋愛をしたり悩んだり妊娠をしたり、悪阻で吐きそうだった。そして祭を抜けて、人のいないトイレで戻し、心からの悪態をついていた。でも、それをペトロフは知らない。

 こうして、ペトロフの美しい子供時代の夢の裏にあった、人間の生々しい生活が明かされたことになる。これはある意味、ソ連の頃は良かったとただただ懐旧することに、待ったをかけるものだ。語られるのはマリーナ個人の話だけど、そこにはやはり生活の中での喜び、それと共に苦しみや悲しみがしっかりあった。冒頭で触れたように、映画内には「ソ連時代はよかった」という議論をする男たちが出てくる。このマリーナの物語は個人の話ではあるが、ソ連時代を生きた人の感情を想像させるものではあって、ソ連時代であるなら一片の憂えもない、なんてことはないのだと知らせている。ソ連時代だって人々は生活の中で苦しみや悲しみを持っていたのだし、いつだって、どんな政治体制の中にあろうと、人間の暮らしには辛さやしんどさが伴うのだ。

 また、現代ロシアのペトロフや妻は、妄想と現実を混同していたが、ソ連時代のマリーナにもその傾向は少しあった。彼女の視点で綴られた物語からわかることには、彼女は性の対象として見ると、男が裸に見える。映画の画面では、恋人になる男やその父親までも、時折裸で登場する。現代ロシアのペトロフや妻の妄想は、主に殺人など相手への暴力を含むものであったから、その方向性は違うけれど、マリーナもまた少し危うさを持った人物なのかもしれない。

 マリーナの物語は、退廃的な現代ロシアで、ソ連を素晴らしいものとして思い返す傾向を押しとどめる。しかしペトロフの中で、マリーナが美しい雪娘としてずっと残り続けていたことは、一方で希望にもなるのかもしれない。個人的な苦悩や身体的な苦痛の中で、マリーナは何とか雪娘を演じて、ペトロフに「私は本物よ」と答えたわけだが、それは暗く混乱した現代ロシアを生きるペトロフの、美しい夢になっていた。悪阻の辛さで占められ、見られていない所で「くそっ、絶対中絶よ、中絶!!」と素晴らしく悪態をつく人の精一杯の演技は、誰かの中で本物になっていた。様々な思いを抱えて何とか生活していく中で、人は気付かぬ間に、誰かの美しい夢になっているのかもしれない。それは生活し続けなければいけない私達にとって、なにがしかの救いになりうるのかもしれない。

 以上、ソ連時代のマリーナの物語について考えた。現代ロシアのペトロフの中で綺麗な雪娘として回想される彼女の、生身の生活と苦痛が描かれることは、ソ連時代を無条件に讃えることに待ったをかけるものだ。一方で、マリーナが苦しみながらも生きていく中で、知らぬ間にペトロフの美しい夢になっていたことは、日々をどうにかこうにか暮らしている私達にとって、希望にも思えた。

4.全てを抱えて歩いてく

 第三節では、ソ連時代のマリーナの物語の意味を考え、希望も感じられたことを書いた。続けて、映画最後の場面から私が受けた、もう一つの希望について述べてみる。

 この映画の終わりは以下のようだ。現代ロシアで、ペトロフは自分のヨールカ祭の思い出と重ねながら、息子を今年のヨールカ祭に連れていき、息子と心が通じたような気持ちになる。その幸福感の中にいる父子を妻は遠くからじっと見ていたが、ある日妻は息子を連れて家を出ていった。その頃、巷では死体が生き返ったというニュースが流れる。エンディングのかっこいいラップ音楽が流れる中、その死体がコケそうになりながらもどんどん歩き、バスが走って路上の水をはねるのを被りつつまだまだ歩き、最後はバスに乗って乗務員に「運賃はこちらへ」と笑いかけられる。

 死体が生き返るという結末は、第二節で指摘した死の軽さと関係している。死の重みがない世界、死んでいるか生きているかも混乱した世の中でこそ、死体は自分で棺桶から這い出し、また生活を始めることができた。彼が棺の中に本当に死んで入っていたのかはよくわからないが、人が易々と死にかつ顧みられないような狂った世界が、彼の生き返りを許したのかもしれない。ずんずんと彼は歩いていく、バスに泥をはねられつつもひたすら歩く、その背中から感じることは、全ての矛盾も混乱も非情も狂気も抱えて、それでも人間は歩いていくだろうということだ。どこへ行くのかはわからないけれど、とにかく全てを背負って歩いていくのだろう。よみがえった男がバスで運賃を要求されるのは、人数に入ることが、即ちお金で価値づけられた体系の中に回収されることであることを示しているが、そのシステムに取り込まれながら、なお人間は歩みを進めていくのだろう。彼の背中からそれを感じた。それはどこかしら、希望を持たせるような終わり方と言えるのかもしれない。いや、むしろ感じるべきは、どんな非情な世界であっても人間は歩いていくしかないという、絶望なのかもしれないが。でもどちらにせよ、我々は歩いていかなければならないのだ。

 以上、映画の終わりの死体が生き返る場面について考えた。生死が混乱した世界で、死体はよみがえり、そんな狂った世界を歩いていく。それは映画内で示された、様々な不条理も苦痛も狂乱も全て抱えて、人間はこれからも歩いていくだろうということを感じさせるものだ。ここまでで、映画について一通り見ることができたかと思うので、節を改めてまとめたい。

5.おわりに

 この感想文では、映画「インフル病みのペトロフ家」について、死の軽さに注目して述べてきた。人を殺すのが妄想か現実か、混乱した中、人が死ぬことへの非難や反省もないままに生活が進んでいく世界、しかし人間はそんな世界をどうにかこうにか生きていくのだろうし、生きていくしかない。そうして必死で生きていく中で、知らぬ間に誰かに美しい夢を与えているのかもしれない。映画を観て私が考えたのは、そのようなことだった。

 こうして書いてみると、この映画で示される狂気の中に、私達もしっかりいるのだとわかる。人の死の軽さもそれへの無批判も、以前よりあったけれど、今はそれをひしひしと感じることは多いし、それがあまりに常態化して一般化されているのなら、もはや狂気は狂気として認識され得ないのかもしれない。でもそんな世界でも、あの死体がずんずん歩いていくように、私達もただただ歩いていかなければならない、この狂気の世界を生きていくしかないのだ。

  • ⑴ヨールカ祭:ロシアの新年祭。神現祭が脱宗教化して復活したもの。西欧のクリスマスツリーの習慣が持ち込まれ、ヨールカと呼ばれるモミの木を飾る。マロースじいさんと雪娘はロシアの民間伝承内の人物だが、これも西欧のサンタクロースと融合し、ヨールカ祭の日にマロースじいさんは孫娘の雪娘を連れて子供達にプレゼントを配る。(参考・パンフレットp.28)

参考文献

「インフル病みのペトロフ家」パンフレット・2022年4月・ムヴィオラ

※画像は見つけられずフリー素材(Pixabay〈Khusen Rustamov作〉より)です。

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