映画「犬王」における「自分がここにあること」

映画「犬王」における「自分がここにあること」

1.はじめに

 湯浅政明監督「犬王」について書く。「犬王」は、琵琶法師である友有(友魚・友一)と猿楽師である犬王を主人公とするアニメ映画だ。舞台は室町時代。友魚と犬王は荒れた京で出会い、歌と踊りのパフォーマンスをするようになる。そのステージは人々を熱狂させ、二人の人気は高まっていく。

 彼らのライブ場面は圧巻だ。エレキギターが鳴り響く。大がかりな舞台装置に、照明。ひしめく人。コールアンドレスポンス!なんて熱量であり、一体感なんだろう!

 そして映画を観る人は気付くだろう、ライブの時、友有と犬王は、ロック歌手になぞらえられている。例えば、友有が犬王の演目前に橋の上などで歌う時には、身体をのけぞらせたり、琵琶を背後に抱えて弾いたりしていて、ロックバンドのライブパフォーマンスを思い起こさせる。一方犬王は演目「鯨」では、Queenの「We Will Rock You」の足踏みと手拍子を、観客と一体となって行っていた。また、別の演目「竜中将」の中で、将軍足利義満とその妻業子の前で面をとった犬王の顔は、忌野清志郎に似ていた。そのように、時代に、社会に抵抗し、自分の表現をしてきた具体的な人々と二人は重ねられている。

 そんなめちゃくちゃカッコイイ!!ライブの印象が強い「犬王」であるが、注目できる点は他にもあるだろう。この映画では、自分がここにあるとはどういうことかが繰り返し問われている。そして作品として、答えも出しているようだ。

 その答えは、映画の最後、友有と犬王が現代で再会する場面を読み解くことで感じ取れる。彼らは少年に戻り友有の琵琶で踊るが、なぜ彼らは幼い頃の姿で昇天していくのだろう。そしてその時「犬王」「友有」と名前を呼び合うのは、何を示しているのだろう。それを明らかにすることで、自分がここにあることについて作品が出した答えもわかるはずだ。

 そこに至るために、まず、作品内での友有と犬王の役割の違いを考える。そして、友有と犬王の名前が表すことを明らかにする。友有は友魚・友一という名も持っている一方、犬王は元々名前がなかった。それらを踏まえつつ映画の最後の場面を考察し、作品内で、自分がここにあることはどういうこととされているか、まで考察を進めたい。

2.語る友有と見る犬王

 この節では、友有と犬王の役割の違いを考える。まず友有についてであるが、彼は語る人として、いる。友有は犬王と組んでパフォーマンスをするようになって以来、ずっと語る人である。犬王が今まであらわになっていなかった平家の物語を伝える一方、平家の物語を伝えるその犬王の物語を語るのが自分の役割であると、友有は何度も言う。友有と名乗ることを決めた時も、友有座への弾圧が始まり、自分の物語を捨てるように覚一座の定一から言われた時も、そのように述べている。劇中の歌も、犬王が歌うのは平家の霊から聞き取った物語だが、友有が歌うのは、平家の物語を拾い身体が変化していく犬王についてである。異形に生まれ、平家の霊の話を伝え舞う度に人間の身体となっていくという不思議な運命を持つ犬王について語り、「見届けようぜ」と友有は歌うのだ。

 友有が語る人であることは、彼自身がそのように言うことだけでなく、彼の口が大うつしにされることからも感じられる。映画の冒頭、現代にいる友有が「今は昔…」と語り出すところでも無精ひげの生えた彼の口が印象に残るし、室町時代の当時に彼が歌うところでは、唾をとばし歯を見せる強烈さが繰り返し描かれる。現代の私達がここ2年程、布で覆ってきた口というものは、こんなに凄まじい器官だったかと思うくらいに。口はこんなにもの言うものであったかと思い出すくらいに。

 また映画内で描かれる室町時代のことは、友有によって語られたことであり、その点からも彼は語ることを負っているとわかる。観客に向けて語っているのだ。それは映画の構造を意識すると理解できる。冒頭では、友有の背後には自動車が走っていて、どうやら彼は現代にいる。彼は映画を観る私達に対峙して「今は昔…」と語り出す。これから、「奪われて失われた私達の物語」をするという。そして現代から過去までの様々な場面の切り替えにより、あっという間に南北朝時代に観客の私達は行く。その切り替えの中には赤白で分かれて競う運動会や、紅白歌合戦があって、平家の赤旗・源氏の白旗がたなびく、平家物語で語られる場面に移っていく。現代と平家物語との繋がりを意識させつつ、600年を遡っているのだ。

 その後、昔の出来事、つまり友有や犬王の幼少期から二人の出会い、彼らの活躍とその結末までが描かれ、映画の終末で、同じく自動車の走る空間が出てくる。友有がまたそこにいる。よって、映画内における昔の様々なことは、友有が現代、今ここで映画を観ている私達に語ることで現出させたもので、それが彼の言う「奪われて失われた私達の物語」であったことがわかる。

 その語る口を持った友有と対照的なのは犬王だ。犬王はずっと面をつけている。歌うが、彼の口は見えない。義満とその妻の前で素顔を見せた時には、わずかの時間、口が露わになり、そこから声が聞こえる。しかし、友有の処刑後、面を外して静かに舞う犬王の口は、固く結ばれている。自分で拾った平家の物語を捨て、義満のために舞うと誓った犬王は、600年の時を経て友有を呼ぶまで、何かを語ることはなかったのだろう。友有の大うつしの口と比較すると、犬王は自分自身についてはほぼ語ることはなく、友有が犬王について伝える役割を担っていたと考えられる。

 友有の口に対して犬王において強調されているのは、彼が見る人であることだ。犬王は面をかぶっているが、その顔に近づくとこちらを見る目がある。彼には世の中がよく見えているのだろう。例えば、犬王が友有と初めて会った夜、友一と名乗られると、お前は覚一のところにいるのか、覚一座は将軍と繋がっているからますます大きくなるだろうと言った。また桜を見る宴では、貴族達に直面をせがまれ、以下のように述べる。自分の素顔は美しい、しかしその面をとった顔も仮面に過ぎない、全ては作り事だ、と。彼には権力の動きなど世のことも、人間の奥のことも、よく見えているらしい。もちろん、友有が歌いながら、なああんた見てんだろ、俺にも見えてるんだぜ、一緒に見届けようぜ、と言うように、盲目であるからといって友有が見えていないわけではない。しかし、犬王が洞察力を持った人であることは指摘できるだろう。

 このように、友有は語る人、犬王は見る人である。しかし、何を語るか、何を見るかは変化しているようだ。それは彼らの名乗りと連関していて、特に友有について明確である。3節では、友有と犬王の名前に注目しながら、彼らが何を求め何を語っていたのか、何を見ていたのか、整理したい。

3.名前

 3節では、友有と犬王の名前の変化に着目し、それが何を示しているかを考える。

 まず友有について。彼には友魚・友一・友有の三つの名前があった。彼について時系列的に追いながら、どう名乗ってきたか整理する。友魚は、壇ノ浦の生まれで、父は漁師をしながら海に沈んだ平家の宝物を集めて生計を立てていた。ある時友魚と父は、京都から来た貴族に頼まれ海に沈んだ宝剣を引き上げるが、それは神器であった。剣に触れたことにより父は死に、友魚は盲目になる。友魚は父が死ななければならなかった理由を知るべく、平家の物語を求めて京に向かう。彼には、自分の夫が死ななければならなかった訳を知りたいという母の声と、自分達の恨みを晴らしてくれという父の亡霊がつきまとうのだ。道中で出会った琵琶法師の谷一に連れられて京に着くと、友魚は覚一座に所属する。覚一座に入る際には、覚一から「一」の字をもらい改名することになっており、友魚は友一となる。

 その改名について、友魚の父の亡霊は文句を言う。名前を変えたら、お前を見つけにくくなるだろう、お前には我々の無念を晴らしてもらわないといけないのに、と。そのことを考えると、友魚であるところの彼は、壇ノ浦の漁師の子であることと共に、父母の思いを背負った人物であることになろう。両親の恨みを消すために、平家の物語を見つける使命を持っているのが友魚なのだ。

 友魚は、青年になるまで覚一座で活動していく。その覚一座に所属し、その座の芸を行う者として、友一と名乗る彼がある。少年の時に犬王と橋で会った際には、自分の名を友一または友魚だと述べていた。それを、お前は壇ノ浦の友魚であって友一ではない、名前を変えたらお前を見つけにくくなるだろう、と父の亡霊に怒られていた。彼自身は友一として、座に所属して芸を磨いている者として犬王に認知してもらいたそうだが、父の亡霊がそれを許さない。犬王との初対面の場面で、彼が京に出てきた時から引き続き、少し長い髪を縛り青い着物を着ているのは、彼が友一という名をもらったものの、友魚でもあるという曖昧さを表してもいるだろう。

 その後、青年になった友一と犬王が京を見下ろす山の上で出会うところでは、友一は犬王の身体の変化を亡霊の仕業ではないかと考え、亡霊の父に助言をもらおうと父を呼ぶ。その時は、自分をまず友一と名乗って、名前を変えたら父には見つけられないことを思い出し、友魚と名乗り直す。この時、彼は他の覚一座の面々と同じ灰色の着物であるが、髪は剃らずに、ほんの少し伸ばして縛っている。この格好は、覚一座として活動しつつも、団体からはみ出る可能性を秘めた者としての彼を表現している。

 その友魚に呼ばれて姿を現した父の亡霊は、犬王の周りには平家の霊がたくさんいることを教えてくれる。その時には既に霊としては大分薄く小さくなっており、友魚に、壇ノ浦の母は死んだが成仏したこと、自分ももうそろそろ成仏して消えそうなことを伝えている。そして友魚に「まめに暮らせよ」と言う。ここで注意したいのは、父の亡霊が友魚に「俺らの恨みを晴らせ」と責めないことだ。母も成仏し、父もそうなりそうだと言う。これは友魚にとって転換点である。両親のために平家の物語を見つける、という役割を、彼は終えたのだ。そして次に自分がしたいことも見つけている。父の霊の助言により、平家の亡霊の話を聞けるようになった犬王を目の前にして、彼は心動かさたようだ。次に現れる彼は、覚一座で友一と名乗りつつも「新しい物語」を語り始めるという。髪を長く伸ばして、色のある着物を着崩して。こうして、平家の霊の物語を拾う犬王、覚一座に所属しつつそれをはみ出して、その犬王について語る友一が生まれた。

 しかし友一の活動は、覚一座の型にはまらないものであったから、当然内部から非難される。覚一座は皆坊主で、灰色の衣を着ており、彼らが芸を見せる場面では集団で一斉に同じく歌うから、映画内で覚一座は個性より秩序や統一を重視する集団として描かれている。座に所属する琵琶法師達は、彼が語る物語が逸脱しているとか、彼の長髪や化粧・服装などが相応しくないと蔭口を言う。そんな「相応しくない」格好、豊かな髪をまとめ、化粧をし、色のある衣をまとった友一が、桜のもとで犬王に語ることには、自分はこれから友有と名乗るという。「俺達はここにある」ことを表した名である。初めて犬王と友魚が出会った夜、犬王は自分の名は自分で決め、自ら名乗ると言っていた。それに友魚は感動していた。友一もここにきて、父母のために友魚として活動するのでもなく、覚一座に友一として縛られるのではなく、自分達がここにいることを示したいという思いから、自分で名前を決めたのだ。そうして覚一座を出て友有座を作り、平家の霊の物語を伝える犬王について、津々浦々で語っていく。

 この友有としての活躍は、長くは続かなかった。義満の意向により覚一本が平家物語の正本とされると、それ以外の物語は認められず、友有座も解散させられる。そのような弾圧に、友有は京の大路を駆け抜け、覚一座の定一に助けを求める。定一は、覚一座で覚一の次に位置する人物である。この場面は、犬王が踊りを覚えることで初めて人の足を得た時、嬉しさに縦横無尽に大路を駆けたのと対になっているだろう。自由に自分の意思で舞う「犬王」が生まれた瞬間、嬉々として彼が駆けた道を、今、友有は、自分の物語を奪われてぼろぼろになって走っていく。友有を発見した定一は、自分の物語を捨て、覚一座に戻って友一と名乗れと言った。定一は友有の活躍にずっと好意的ではあって、友一に批判的な覚一座の琵琶法師達を諌める場面もあった。ただ、将軍の前に抵抗はできないとして、友有の命を救うために友一に戻れとするのだ。しかし、友有は私の物語を捨てることなどできないと叫び、友一になることを拒否して追手に捕らえられる。あれ程朗々と語り上げられる友有だが、盲目であるし武力をつける稽古はしてこなかったから、刀を振り回しても空を切るばかりで、追手に傷を負わせることなどできない。彼は琵琶と語る声のみで、表現や主張をしてきたし、大きな力にも抵抗をしようとした。しかし権力を背景にした暴力の前には無力であった。

 この時、友有をかばって追手に刺され、谷一は絶命する。谷一は友魚の上京に際して一緒に旅をし、貴族の前で二人で琵琶の演奏をするなどしていた。もし友一が覚一座で活動を続けていれば、友一と谷一は良い組となっていたかもしれない。しかし、友一は友有となり、犬王と共に活動した。谷一が覚一座で一人寂しく琵琶を鳴らす様子は、ちらちらと物語内に出てくる。谷一は友有が活躍していく様を、どう思っていたのだろうか。彼がそれを表明する場面はない。また、彼は友有に友一になれと言ったりもしない。ただただ、自分の物語を捨てない友有をかばって、死んでいく。彼も友有と同様、目は見えないし、物語を語ることで生きてきた人だから、刀を持って戦うことはない。その時の谷一の内面はわからないけれど、友有である彼を守ろうとしたのは確かだろう。

 連行された友有は、最後まで友有であろうとする。河原で処刑される時も琵琶を持ち、皆さんよくよくお聞きなさいと、最期まで自分の物語を語ろうとする。しかし、それはできなかった。首を半ば斬られた時、彼は琵琶が持てなくなった。そして諦めたように少し笑い、俺は所詮、壇ノ浦の友魚だと叫ぶ、それと同時に首は斬り落とされる。義満という権力によって自分の物語を否定され、処刑という圧倒的な暴力によって語ることさえできなくなった時、彼は悟ったのだろう。自分は「所詮」壇ノ浦の漁師の子としての友魚であり、自分の物語を語ることはできず、俺達はここにあると示すこともできないのだと。友有ではあれなかったのだと。

 ここまで友有の名乗りについて考えた。彼は友魚として父母の恨みを晴らすために語り始めたが、後に友一になって覚一座として活動し、それも脱して、平家の物語を拾う犬王について語るのだと自分で決め、友有と名乗った。しかし犬王が拾った平家の物語も、それを語る自分の物語も権力が否定し、暴力で語りも命も奪われるとわかると、自分がここにいることを示せないと感じ、所詮友魚だと叫んだ。

 一方の犬王は、元々名前がなかった。彼は化物と呼ばれ、犬と一緒にいた。その時彼が見ているものは、花や木漏れ日、星空であり、また座の中で起きていることであった。その後、踊り出して人間の足を獲得した彼は、京を走り回り町の人々を見るようになる。

 そして、彼が初めて名乗りをあげた日、「腕塚」を演じながら、彼が面の中から観客を見ている様子が描かれる。犬王となった時から、瓢箪の面ではない面をして、芸能者として自分の観客を見返しているのだ。彼は自分を見る人を、冷静に見返し、洞察するような力があった。演じる彼にクローズアップする時、面から覗く目が印象的で、それは歌う友有の口が意識されるのと対照的だ。

 その目はしかし、友有を救うため、自分の物語を捨て義満のためだけに舞うと宣言した時に光を失う。友有の処刑の場面の後、犬王が豪華な衣装で無音で舞うが、その時の彼の目はこちらを見る力がない。友有の琵琶の音がないと、彼は別人のようだ。その時の彼の口が固く結ばれていることは先程述べたが、彼の目もまた、何も見ないものとなっていたのだ。

 ここまで、犬王の名乗りと彼が何を見てきたかを考えた。彼は、名がなく犬と暮らしていた時は、自然と座の内部を中心に見て感じていたが、犬王と自分で名前を決めて名乗った後は、芸能者として観客を見つめていた。その後義満に抱えられた後、友有を失ってからは、見つめる目を捨てた。

 このように、友有と犬王の名前の変化を整理してみたが、これを踏まえると映画の最後の場面を読み解けるように思う。作品のラスト、犬王が友有を迎えに来て、少年の二人は「犬王」「友有」と呼び合い、友有の琵琶で星空に舞い上がっていく。この意味がわかると、自分がここにあることをどのように表現するかについての、この映画なりの答えも感じ取れるだろう。第4節では、その内容を明らかにしていきたい。

4.自分がここにあること

 この節では、映画の最後で友有と犬王が再会する場面を解釈し、自分がここにあることを示したいと願った友有が、また自分で決めて名乗りをあげた犬王が、どのように救われていくのかを見ていく。

 映画の終盤、現代の私達に物語を語った友有のげっそりした顔が出てくる。自分の物語を捨てられたことへの恨みがあって、成仏できずに、600年の時を経ても語りかけているのだ。思い返せば、友有の母も父も無念を持っていたが、時間が経つとそれは薄れて成仏したようだった。一方友有は、そうできずに、「奪われて失われた私達の物語」を現代の私達に語り聞かせていた。しかし、琵琶のバチが折れ手の力がなくなり、彼はまた語れなくなる。あの処刑の時、首を半分斬られた時と同じように。犬王なく一人で、怨恨をエネルギーにして語り続けることは、困難なのだろう。だからまた思ったのかもしれない、自分は友有でなく、「所詮」友魚だと。自分達の物語を、やっぱり語れないではないかと。

 そこに犬王が来て、友有を呼ぶ。彼の目は友有を見つけたのだ。友魚になっていたのか、名前を変えては見つけにくいではないかと文句を言いながら。この呼び方から、友魚は友有であることを諦めて処刑されて以来、友魚であったことがわかる。現代の私達に物語を聞かせてくれていたにも関わらず、彼の中では、自分がここにいることを示すことができていないのだという思いがあったのだ。自分が友有だと認められていなかったのだ。しかし、犬王は彼を友有と呼ぶ。そう呼ぶことは、お前がここにいることは、わかっているよと伝えているようだ。

 二人は再会する。犬王は義満に愛された時の、人間の顔をしてやって来たようだったが、ふと元の身体に戻っている。友魚と初めて出会った時の瓢箪の面を被った少年の姿になっている。すると、青年の姿をしていた友有も、青い衣を来た子供の姿に変化する。彼の琵琶のバチも手も元に戻り、彼はまた琵琶を弾けるようになっている。彼は犬王に再会してこそ、琵琶がまた鳴らせるようになった。二人は初対面の時と同じく、友有の琵琶の音色に合わせて身体を揺らす。「イカすな」「当然!」などと、あの出会いの時を繰り返したようなやりとりがある。ただ、その出会いの時犬王は名がなかったし、友有は友魚または友一であった。でも現代の彼らは「犬王」「友有」と繰り返し呼び合って、昇天していく。

 なぜ彼らは子供の姿に戻り、しかしその時には持っていなかった名前である「犬王」「友有」とお互いを呼ぶのだろうか。それは、「あなたがここにいること」「わたしがここにいること」は、それを認め合うあなたとわたしがいれば、十分に示されるからだと考える。そして、それこそが最も重要であるのだ。

 友有も犬王もパフォーマンスを重ねるにつれ、大衆の人気も得、権力者にも一目置かれるようになった。しかしそれは同時に、権力に管理され自分の物語を失うことにも繋がった。大衆や権力者に認められることでも、自分達がここにあると示すことはできるかもしれないけれど、大事なのはあなたとわたしが、お互いにここにいることを認めていることなのではないか。

 これを考える時に思い起こされるのは、犬王の父のことである。彼は、本朝で最も華やげるものになりたいと願った。そして特別な芸を持つ者を排除しようとした。それは古い能面との取引とされているが、雨の中彼が水面に顔を写した時、自分の顔がその能面と重なって能面の声が聞こえてくるという描かれ方をされているから、彼の内面がそうさせたとも捉えられるだろう。自分だけが認められたい、評価されたいという思いが、他者の排斥に向かわせ、最終的には彼を破滅させたのだ。自分の栄花を求めた父とは異なり、犬王は平家の亡霊達の言うことを伝えたいという思いで舞台に立ったし、その犬王について人々に語りたいから友有は歌っていた。二人の芸は誰かのためにという思いがあるもので、犬王の父のものとは別であったが、それでも、犬王の父を思い出すと、芸能につきまとう陰が意識される。大衆や実力者に認められることには、暗部があるのだ。

 現代で再会した友有と犬王は、人気となる前、芸能者になる以前の初めて出会った時の姿に戻った。その二人の出会いは、互いを認め合ったものであった。友魚は習ったものではなく、京で聞いた音から発想を得て自分なりの琵琶を弾いたが、それを犬王は「新しい」「イカす」と讃えた。犬王は面を外して顔を出すと人に逃げられてきたが、友魚は逃げなかった。また、名がなく化物と呼ばれていた犬王に、友魚は初めて名前を聞いた。お互いを認める相手に出会ったという意味で、この出会いは重要であった。

 この時の姿になって、二人が「犬王」「友有」と呼び合うということは、わたしがあなたのことを認め、あなたがわたしのことを認めるなら、もう俺達はここにあるのだということが、お互いに再会の瞬間わかったということなのではないだろうか。上り詰めていった時の青年の姿ではなく出会った時の子供の姿でいるのは、自分がいることを認めてくれる人との出会いこそが、自分を存在させるものなのだと気付いたからだ。

 そして二人はこの時、第2節で見たようなそれぞれの役割からも解放されている。友有は、犬王とやりとりするが、その口は自分の物語を語るなどはせず、純粋に犬王としゃべっている。唇を突き出し歯を剝き出しにするような、あの語る時の口ではない。犬王の目も、じっとこちらを見返すようなものはなく、ただただ友有の琵琶の音を楽しんでいる。二人はもう芸能者ではなく、素敵な人を見つけて喜び楽しんでいるお互いなのだ。それでも、「犬王」「友有」という、自分でこうありたいと願った自分を表す名を、そういう自分で自分はここにあるのだということを示す名を、呼び合う。呼んでくれる相手がいるからこそ、自分はそのように存在できる。

 それに気づく時、この映画が随所で問うてきた、自分がここにあることをどう示すのかの答えもわかる。つまり、お互いの存在を認める人がいるなら、自分も相手も存在しているということだ。それがこの作品の結論だ。

5.おわりに

 本論では、アニメ映画「犬王」について、犬王と友有の名前の変化や負う役割に注目しつつ、「自分がここにあること」に関して映画がどう答えを出したかについても考えてみた。素晴らしい二人の青年期のパフォーマンスを映画館で体験した後、二人が芸能者としてではなく、出会った時の子供の頃に戻って昇天していくのを見ると、少し寂しい気もする。しかし、友有が映画を見る私達に語ってくれたから、彼らのパフォーマンスがなかったことにはならない。演目「鯨」の前に友一が語る中には、同じものは二度とやらない、だから見届けようぜという内容があった。一回的だからこそ、彼らの公演は爆発的なエネルギーを持っていたのだろう。

 これと対比されるのは、覚一の口述が筆記されて作られた覚一本が、義満に正本とされることだ。覚一本も、その時々によって語られ物語が現出するだろうし、テキストは現代に想像するよりもずっと流動的であったかもしれない。ただ、映画内では覚一本が語られる場面がなく、覚一の口述が筆記されるところが強調されていて、この映画ではやはり、犬王や友有の一回限りでかつ権力に認められなかったパフォーマンスと、将軍の力によって筆記され固定され、他を排除して正本となった覚一本という比較をしているようだ。場を共有する語り、多くの人が身体を寄せ合い熱狂するフェス、それが制限された2年ほどがある中で、この映画でそれらの力を感じさせる演出があるのは、印象深い。

 以上考えてきての感想であるが、「犬王」はライブシーンの熱量と迫力がありつつ、人間の存在についても突き詰めている映画だと思う。当時の、自分がここにあることを示したいというのは、近代以降の自我と異なるかもしれないけれど、人間が常に考えてきた「ここにあること」について、この映画もまた、考究している。

 この映画は室町時代を舞台にしているし、実在した人物も登場する。注釈が必要で、それが作品理解を深めるだろうが、力不足によりできなかった。また解釈についても、及ばない所が多々あると思う。御批正を乞う。

  • 【注】
  1. 兵頭裕己によれば、平家物語は建前として、源氏と平家は「朝家の御まもり」として拮抗するものと位置付けているという。秩序の枠内の二者の争いにより、その秩序自体は強化される構造は、現代でも紅白に分かれる運動会や歌合戦に引き継がれていて、日本社会の枠組みの維持に寄与している。(兵頭裕己「平家物語―〈語り〉のテクスト」ちくま新書・1998年、88p)

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