「非モテ」とは何か~西井開『「非モテ」からはじめる男性学』〜

「非モテ」とは何か~西井開『「非モテ」からはじめる男性学』〜

 モテたい。とツイーョしたことがある。覚えていないがたぶん数えきれないくらいある。そのうちの何回が本心によるものなのかはわからない。今となってはわからない、のではなく、ひとつひとつ呟いている瞬間においてすら本人も全然わかっていない。これといった長所や魅力がなくても誰もが無垢であることが許される子ども時代はとうに過ぎ去ったが、毎年夜空のお星さまを見上げながら短冊に「モテたい」と書いて託す。なぜならそこに短冊があったから。そんな子供部屋おじさんは今夜もオフトゥンの中で画面を見上げ、モテたいと呟いて見せる。いいねがついたことはない。そのうちに、たぶん近いうちに、ほんとうにつらくなっておじさんはぱったりと呟かなくなりそうだ。

 でも、でもねぇ、モテないってそんなにつらいコト…? 孤独死が確定しているおじさんの防衛機制(生存本能)がむくりと立ちあがる。孤独には慣れてるし、一人でいるほうが結局落ち着くからね。来月から急にモテはじめたりしてもボク困っちゃいそうだなぁ。ていうかまずそもそも「モテる」ってどういうことなんだ。モテ、モテ…。そういえばぼくが中学か高校のころに父親が「モテるの”モテ”は何人もの好意を一身に持てるということじゃないか」みたいなことを言っていたのを思い出した。所有の論理だ。資本主義の論理だ。土地とか美人の女とかエラそうな肩書とかクルマとかゴルフ倶楽部の会員権とかを私的に所有するのがそのまま名誉だと思っている男性社会の論理だ。万国の非モテ非正規労働者よ、蜂起せよ。われらの時代は所有ぢゃなくて「あいさつ」だ。犠牲無き交換だ。負い目無き共有だ。サブスクだ。無分別だ。乱交だ。ちなみにさっき読んだ『「非モテ」からはじめる男性学』によれば、「モテ」とは元は「もてはやされる」の略語らしい。なるほど。乱交だ。モテたい

「非モテ」の誕生

 この記事では主に、西井開さんの上記著書から学んだことをまとめてみる。今までこういう作業をしたことがたぶんないので不備は大目に見てもらいたい。というか途中でめんどうくさくなってやめそうだ。平穏な日常の法則運動として太陽がしずかに昇るようにぽつりとこの文章が日の目に出ていたらしかしそれはちょっとすごいことだ。モテたいと一言書くだけの短冊からずいぶんの成長だ。

 えへん。どうやら「非モテ」という言葉が初めてネット上に現れたのは1999年のとあるテキストサイトにおける日記のようだ。この頃は、例えばクリスマス時にも家で一人でどん兵衛を食べているような、恋人がいない状態の自虐的な表現として使われていたらしい。やがて2000年代中頃からテキストサイトはブログに移り、それを境に「非モテ」は状況的な自虐ネタではなく、アイデンティティを指すものになっていく。非モテの原因を、個人の努力では如何ともし難い身体的欠陥や経済状況に還元するようになる。もはや恋人の有無自体は重要な基準ではない。欠陥があるから恋人ができないという論理は反転し、身体的欠陥や低い経済状態にあるものこそが「非モテ」だというロジックが導き出される。「非モテ」のラベリング化である。このラベルの誕生により、「非モテ」男性は、よりインスタントに他者から貶められやすくなると同時に、所詮「非モテ」だから仕方ないのだという諦めと許しを手にした。

 えへん。その後さらには、外からのラベリングとしてだけでなく、非モテの自己意識を問題にする研究もいくつかあらわれた。たとえば、絶対にモテないというかなしみ、性愛から疎外されたトラウマ、一人前の男としてみなされない恐怖と苦悩…。ううっ、つらい。ここまでの流れをまとめると、関係的な状態としての非モテが、ラベリングとしての非モテになり、自己意識としての非モテへ。西井氏はこれまでの「非モテ」論を以上のように整理しつつ、その限界も指摘する。「非モテ」男性たちの苦悩の原因は本当に「モテない」ことという一要因にあるのか。モテないことが苦しみを生んでいるのだという単線的な因果論に陥っているのではないか。非モテ男性の苦悩の内実や苦悩の背景にあるメカニズムはもっと複雑なのではないか。

「非モテ」はつらいよ

 これまで非モテの苦悩を自己意識の問題としてきた論者も、よく見れば、非正規雇用、経済格差の問題や、男性がケアから疎外されていること、ルッキズムの問題などをも示唆していることに気づくと西井氏は書く。非モテの苦悩の解放についてのオンライン上の議論も、結局のところ、恋人をつくるか、別に没頭できるものを見つけるか、意識を変えるかという以上の発展を見せていないという。西井氏は本書で、非モテ男性が過度な自己否定や、他者への暴力に走らずに生き延びる方法や、社会的なサポートの可能性も模索してみせる。たとえば西井氏は「ぼくらの非モテ研究会」という実践をしてきたそうで、これは一種の当事者研究(「原因の内在化」でも「原因の外在化」でもない、「問題の外在化」という手法)といえるものらしい。ここまで書いてすでにかなり疲弊しているので詳細は省くが気になる人はぜひ本文にあたってみてほしい。

 その非モテ研での語りの場では、参加者たちが独特の言葉で自分の感情を説明したりするそうだ。いくつか引用させていただくと、

女性と交際することで不遇な状況を挽回できると思い込んでしまう「一発逆転」

思いを寄せる女性を神聖視してしまう「女神化」

女神に対して思いのたけを叙情的な手紙やメールにして送る「ポエム」

無理だとは分かっているのに、”抑えきれなくて”思いを寄せる相手(パートナーがいる)に告白する「自爆型告白」

西井開『「非モテ」から始める男性学』p.45、p.129

 非モテ人生の空虚さを埋めるがごとく、とあるアイドルを「推し」ていた過去のあるぼくの数々のイタい行為を思い出してしまった。そういえば「推し」と「女神化」の違いは…と考え書き連ねそうになったがやめる。そんなことをするよりも、一刻も早くこの記事の執筆を終わりにしたくなっているのだ。なぜこんなことを始めてしまったのか。もちろんお金をもらっているわけでもないし、西井氏が知り合いとかいうわけでもない。根気がないし、体力もないので、今かなりつらくなっている。でもこの記事を読んで一人でも非モテが楽になればいいなという思いはある、かもしれない… Heal The World…

 さて、西井氏によると、非モテ研の多くのメンバーが抱えている感覚がある。「自分は一人前の人間ではないのではないか」という感覚、これを名付けて「未達の感覚」。いい表現ですね。んっ。さらに、未達の感覚の事例として様々挙げられるが、それらを反転していくと、イメージとしての(「男らしい」)「一人前の男性」の姿が見えてくる。非モテ男性は、そのイメージにたどり着けない自分を苛んでいるのだという。しかし、なぜいつまでも苛み続けるのか? そのイメージを内面化、規範化してしてしまっていたり、自分は実際にそのような未達の人間なのだとどうしようもなく自己規定してしまっているからだろう。だがなぜそれにより辛くなってまでも、そうなってしまうのだろうか。これまでの男性研究では、男性は自身の被害体験を語らず、援助を求めない傾向にあることが明らかになっていると言われることがある。そもそも男性個人が(あるいは周囲が)被害を被害として認識しないゆえに、表には出しづらいということが考えられる、という。かくして男性の傷つきはそのまま封印される。未達の感覚と、この封印された被害経験の中で特に関連していると西井氏が考えるのが「からかい・いじりの被害である。からかいはその特性ゆえに被害として認識しづらく、そのため気づかないうちに微細な傷つきが蓄積されてゆく。しかもそのからかい・いじりを引き受けた結果、さらに自分で自分を責め続けてしまう男性もいる。

 西井氏がここで引用する須長史生の『ハゲを生きるー外見と男らしさの社会学』をみてみる。ハゲ男性は日頃からハゲを陰に陽にからかわれてきた。だがハゲ男性はそれに抗議したり無視したりすることなく、男らしく気にしないそぶりをし続ける。その背景として須長氏は3つの理由を提示する。

 まず、①からかいは「普遍的・自明的・匿名的」な言葉で行われるからだ、というもの。「ハゲは女性にもてねえよなあ」と、普遍的・自明的な事実である”かのように”言われ根拠は呈示されないので、その場で真偽を確認することができない上に、匿名性の効果によりからかう側の主体は免責されてしまうので真正面から反撃することも難しい。なるほどわかる気がする。ひとりだけ下を向いて「ハゲがモテないって誰が決めたんだよ… ハゲが好きな女性だっているかもしれないじゃないか…」とか暗い顔ででブツブツ言ったりしてもハブられそうだし、なによりモテなさそうだ。かなしい。ところで、世間では大学など学校を卒業したあとの男性が定職についてないのはおかしい、だらしない、何か欠陥があるんだろう、鞭で何回か叩いといた方がいいんじゃないか、みたいなことが言われたりする。平日の昼間に業務スーパーに出没したり、道中の公園のベンチに座ってぼーっと蝶々を眺めていたり、同級生たちは自分の子どもを抱っこしている年齢なのにレッサーパンダやゴマアザラシのぬいぐるみを抱いて夜中に孤独を癒しているぼくなどは、「社会のお荷物だよね」とか言われると、なんだかそんな気がしてしまう。お荷物でごめんなさい、ぼくがぜんぶ悪いんです、みたいな気がしてくる。ぼくだって自分からこの社会を選んでいるわけでもないのに…、なんてことを被害者ぶるようにうっかり口に出してしまったら「この寄生虫め」とあっという間に殺虫剤を噴射され追い打ちに踏み潰されかねない。しょうがないので鼻くそをほじっておく。ああっ、ハゲ男性へのからかいに話を戻すと、

 ②ハゲ男性は男性集団の仲間としての資格を喪失しないために抗議しないという説明だ。からかいに抗議したりムキになったりすれば、精神的なタフさや柔軟さを欠いたウジウジした男性とみなされ、さらなる攻撃を受けたり、仲間としての資格を喪失してしまう危険がある。集団に受け容れられるかどうかの人格テストの様相を呈している。うんうん…

 そしてさらに対応を難しくさせているのが、③からかいが遊びの文脈に位置付けられていること。単なる「遊び」「冗談」として行われるので、傷ついたとしても本気で抗議できない。関係の破綻を回避するためになんとかやりすごさねばならない。大人しく受け流しひっそりと傷を抱え込むか、道化のようにそれを引き受けて振舞ってしまう人も多いだろう。ウウッ…。

 このような形で貶められた非モテ男性は、いつしかただ自分が悪いのだとか、自分は劣っているのだとか、疎外感とかを思ったりするようになってしまう。しかしそうであるがゆえに、非モテ男性はなんとか自尊心を回復するため、自分の存在価値を少しでも証明するため、なんとかしてそのからかう側、権力を持つ側に仲間入りしたい、認められたいとも思ってしまうのだという。そこで唐突に筋トレを始めたり、ヘアスタイルに過剰にこだわったり(そしてその必死さをまたからかわれたり…)。

 確かに、標準的な男性像やあるべき男性像のようなもの、ひいては社会的に価値とされているものを内面化してしまっている人ほどそうなるのかもしれない。男性は女性に比べて、「普通」に仲間入りすることで社会的利益や経済力など優位を得やすい構造の社会であればなおさらかもしれない。でもそんなに無理してまで集団に所属することによって自分の価値を証明しようとしなくてもいいのになあ、とも思えるのは、ぼくがいまこの瞬間は他人事として距離を挟んで見ていられるからなのだろう。

 ひょっこりと気になったが、そういう多数派集団(「普通」、標準、権力)の側に自己を合わせようとするのではなく、酸っぱい葡萄のようにその「価値」を貶めようとしたり、価値を転換しようと(たとえば「弱さ」「傷つきやすさ」をむしろ上位の価値に反転させたり…)する非モテ男性は──闇堕ちしていく場合は別としても──少ないのだろうか? もしかしたら、一時的には、あるいは一度は誰もが試みているのかもしれない。だが多くの非モテはそういう戦略は取らないのだろう。なぜ? シンプルにモテないからです。そういうルサンチマン的、あるいは逆張りのスタイルでは多くの女性に「モテない」ことにうすうす気づいている、いや根っこのところで確信があるんじゃないだろうか。結局女性にモテるためには適度に筋肉をつけたり、お洒落な恰好や清潔感を装ったりコミュ力を強化したりカネもちになったりうんぬんするしかないと思っているのじゃないだろうか。もちろんこれだって、”ええ感じ”の男性像みたいなものの「内面化」には違いないだろうが、結局モテる上では否定するのが難しい「事実」として認識しているのじゃないだろうか(そんな事実ないほうがうれしいですけど)。だが、西井氏の整理する「ラベリングとしての「非モテ」」男性は、そういうええ感じの男性像とはおそらく大きく乖離していたのだった。であればモテるのはほとんど不可能だ。心の底からモテへの願望を消し去れない限り苦しいままだ。かなしい。いっそのこと全部諦めて、集団内の権力ゲームや資本競争のゲームからも降りようか。出家だ、出家しかない…。南無妙法蓮華経幸福科学… 

 でも、ぼくがはじめのほうで書いたように、モテないってそんなにつらいコトなんだろうか?(防衛機制?) たとえば、モテたほうがよい、モテるべき、モテたいというきもち自体が、それこそ男性集団内の序列意識や、もっといえば社会の基準によって無意識的に駆り立てられているものだとしたら、どうだろうか。実際異性からモテる男性は男性集団内でも一目置かれたりするし、社会の方でも少子高齢化が問題だとか、性経験のない人の割合が増えていて由々しき問題だとか、子を育ててこそ一人前の大人だとかと思いこまされたり、孤独死は悲惨で最悪だとか、なるべく親密なパートナーをみつけて結婚できた方がよいとか、そのためになるべく自己資本は強化し続けた方がよいとか、投資で成功したら「港区女子」(というのが実際なんなのかは知らないが怖くて調べられない)とちょめちょめできちゃうとか、有能で稼げるヤツになってモテるとパートナーの(マッチングアプリも)選択肢は広がるしウハウハで人生薔薇色だぜオラとか。え、それとこれとは関係ない? 知るかコノヤロ。でももしもほんとうにこの種のスリ込みや緩やかな抑圧が仮に作用していたとしたら、非モテの苦しみは、端的に非モテであるがゆえの苦しみでは実はないのかもしれない。西井氏も、ほんとうに「非モテ」男性は非モテだから(それだけで)苦しいのだろうか、と疑問を提示していたのだった。…あなたの苦しみ、実はモテないからじゃあないんです。「真理」、見つけちゃったかもしれない。このまま開山してお布施を食らって生きていけるかしらね。「ゴタゴタうるせェ、俺はとにかくモテたいんだよォ~!! 」 …よきかな。モテたいと思い続けながらモテなくて苦しみ続けるのもよし。でも、モテなくてもいいと思うと途端にこれまでの苦しみから解放される人もいるかもしれない。そういう人にこの西井氏の著書に出会ってほしい。おいらはモテたい

男性学?

 西井氏の本書は非モテ男性の加害性の面についても記述している。これは小生のような阿呆が軽々しく扱ってはならんセンシチブな問題です。あとそもそもこの記事はあくまでこのサイトの「~とは何か」シリーズの一環として(勝手に)制作したものなので、「非モテ」という言葉が指示するものの変遷と、当事者の抱きがちな感覚を簡単に紹介できたところでひとまず任務は達成できたと考えて、終えようと思う。非モテ男性の多くが加害的というわけではないだろうし、というかもうこれ以上書く力が残っておりません。ぼくは体力も収入もないガリガリの非モテ男性である。同情してください。同情してくれなくてもいいのでとりあえずおカネください。

 やっぱりがんばって真面目に書きます。非モテ男性は、モテない苦しみに苛まされ続けながら、標準的な男性像や集団から疎外されている実存的空虚さを埋めるように、あるいは「一発逆転」を狙うように女性に過度に執着してしまいがちだという。ウム…。でもそこで適切な意思疎通や距離感が保たれていない限り、新たな暴力性が生まれてしまう。そんなことは当たり前の話だが、しかしいついかなる時でも同じように理性的反省が働いていて冷静でいられているわけでもないのが(時には恋に「落ちる」──自由意志のない物体のように──…♡)人間の難儀なところだ。あとそもそもその女性への過度な執着の背景に、たとえば女性(女神、母性)は一般にケア能力が高いのだからというような思い込みと期待がないか。そのような認知の次元での歪みや不正義もひとつひとつ改めていくほうがよい(それも含めて加害行為の償いだ)が、とはいえ本人だけの問題として片づけておいてよいものでもない。そのような偏って抑圧的な認知をうみやすい社会の構造をも問うていく必要がある。…ってコト

 最後に、非モテ研に参加する非モテ男性は、いじめやパワハラや虐待などの被害経験を持つ人や自己のセクシュアリティに違和感を持つ人も珍しくないのだという。上記の「からかい、いじり」にしたって、ハゲた人や非モテの男性に限った問題ではない。様々なマイノリティ性を持つ人ならだれもが直面しうる危機だ。そういえば、ぼくは西井氏のこの著書によって男性学に関心を持ち始めたばかりなのだが、たとえばよく言われる「男性は自殺率が高い」というやつ、しかしそのなかでもセクシュアルマイノリティの男性は、異性愛者の男性よりも自殺リスクが6倍も高いという調査があったり、日本の10代のゲイ・バイセクシュアル男性の自傷経験は17%でそうでない男性より2倍以上高いという研究データなどもあるらしい(杉田俊介『非モテの品格』より)。

 男性学というとフェミニズムへの対抗意識としての男性復権的なイメージを持つ人ももしかしたらいるかもしれない。たとえば、離婚時の親権・養育権における「男性差別」を問題にしたり、フェミニストの「堕胎」を批判したりするのが当てはまるのだろうか。そういう路線ではなく、たとえば男性間での権力作用、周縁化の問題などを、人種や階級などの他の抑圧と積極的に接合していくような男性学というものに興味を持ち始めている。というより抑圧だ。抑圧という問題の関心が先にあり、それが男性学にも向かっている。男性(特にマイノリティ)の生きづらさや、男性による抑圧や加害のメカニズムを少しずつ理解していきたいと思っている。

 そういえば最近も架空の藁人形を叩くような仕方でトランスジェンダーについてブーブゥーと声が発せられたりしていた。そういうぼくも、かなしいことに無知や偏見ゆえに様々な抑圧に加担してしまっているのだろう。この記事にしても、西井氏の本書のまとめ方に致命的な欠陥や問題があったり、なんかほかに単純にヤバいこと書いてたとしたらぼくが阿呆で無知だからだ。しかも非モテだ。残念です。なんか指摘とかあったら鞭で叩きながら教えてください。

(追記:コメント欄でのやりとりのなかで補足的な文章を書きました)

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