概要
「きまぐれロボット」は、1961年に発表された星新一のショートショート。星の代表作の一つである。星新一は他に「ボッコちゃん」などの作品がある。
2014年には『土曜プレミアム』枠でドラマ化された。
お金持ちのエヌ氏が博士から買った万能ロボットが、突然暴れ出したり逃げ出したりするドタバタ劇である。
文学はほかに、梨木香歩『西の魔女が死んだ』、森絵都『カラフル』、宮沢賢治「注文の多い料理店」「やまなし」、谷崎潤一郎『春琴抄』、志賀直哉「小僧の神様」、リチャード・バック『かもめのジョナサン』、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』、『四畳半神話大系』、辻村深月『ツナグ』などがある。
おすすめの小説は「日本純文学のおすすめ」で紹介している。
登場人物
エヌ氏:主人公。お金持ちで、博士から万能ロボットを購入する。
博士:ロボットを発明した科学者。エヌ氏に万能ロボットを売りつける。
ロボット:「きまぐれ」ロボット。エヌ氏の命令に従うはずが、突然暴れ出したり逃げ出したりと予測不能な行動を取る。
あらすじ・内容・ネタバレ
ある博士が万能ロボットをつくった。それを聞いたお金持ちのエヌ氏は、離れ島の別荘で1ヶ月間静かに暮らすため、大金を払ってそのロボットを手に入れる。
最初、ロボットは、料理を作ったり、掃除をしたり、面白い話をしたりと申し分ない働きをした。
しかし二日ほどすると様子がおかしくなり、ロボットが動かなくなったり、いきなり追いかけてきたりとわけのわからない行動をし始める。しかし、少し経つと、今までのことがなかったかのようにしっかりと働き出す。
1ヶ月が経ち、都会に戻って博士と会ったエヌ氏は文句を言う。
しかし博士は落ち着き払い「それでいいのです」と答える。健康やボケ防止を考えると、人間にとっては完全なロボットではない方がいいと。
エヌ氏は「そういうものかな」と答える。
解説
人間と機械(AI)
「きまぐれロボット」はSF的なショートショートの傑作を生み出している星新一の代表作品の一つである。
本作はロボットが登場し、人間とロボット(AI)との関係性がテーマとなっている。
人間とAIはどのような関係を結ぶのだろうか。おそらく、AIは人間を手助けする存在になるだろう。完璧にAIを作れれば作れるほど、その保管具合も完璧になる。あらゆる日常の面倒くさい雑務をこなしてくれる。朝起きたらコーヒーを淹れてくれて、それで料理を作ってくれて、掃除もしてくれて、書類も持ってきてくれて、さらには話し相手にもなってくれて、、、、もしやりたくない面倒くさいことがあれば、全部AIロボットに押し付けてしまえば良い。そうすれば、完全に人間は嫌なことをする必要がなくなり、幸せになれる。
と、普通なら考えてしまうが、どうやらそう単純ではないらしい。少なくとも博士はそう考えた。だからAIロボットが多少バクってしまうような設定をしておく。それによって主人公のエヌ氏は予期せぬ混乱に巻き込まれることになる。要するに面倒くさいことをしなくてはならないのだ。
でも「人間にとってはそれのほうが遥かにいいのです」と博士は言う。全部AIロボットにやってもらうということになると面倒くさいことはしなくなるわけだから、例えば運動をしたり、多少脳みそを使ったりすることもしなくなる。つまり不健康でボケやすいということなわけだ。
AIが指示通り完璧に働けばいいってもんじゃない。現実に徐々にAIの存在が身近になっている現在、人類はAIとどのような関係値を結んでいくのか、未来に対して非常に示唆的な話なのである。
完璧なAIの代償ーー「ボッコちゃん」との比較
これからは決定的にAIとの関係で人類の未来も変わっていく。そう考えて未来を予想するのは多少なりとも暇つぶしにはなるだろう。
1958年に発表された「ボッコちゃん」では、最終的にロボットだけが残り人間はいなくなってしまう。「AIは人間を必要としないーー「ボッコちゃん」解説」では、kamui氏はそれを「人間不在の世界という悲劇」と呼んでいる。しかし「ボッコちゃん」はある意味で完璧なAIだ。命令を裏切ったことはない。そして粛々と「バーに来た客を喜ばせ」続けていた。つまり、かなり出来の良いAIロボットなのである。
ただし悲劇は訪れた。これは、人間はボッコちゃんを必要としているのに、ボッコちゃんは「人間を必要としない」という非対称性に由来するものである。このことを「ボッコちゃん」の登場人物は皆わかってなかったのである。AIの存在がどのようなものかを見誤れば、AIが完璧な存在であっても、人類に有益になるとは限らないのである。
では「きまぐれロボット」ではどうか。そんな悲劇は起こらない。むしろその悲劇を回避している。完璧なAIという存在を捨てるのである。完璧なAIを捨てることで人類は破滅しない。むしろボケ防止と健康と手に入れるわけである。
AIとどのように関係していくかで人類の未来も変わっていく。「ボッコちゃん」の結末を考えると、不完全なAIと関わっていく方が、人類は長生きするのかもしれない。
考察・感想
エヌ氏の応答
博士は言った。「人間にとってはそれのほうが遥かにいいのです」と。確かにそのように思える。それに対してエヌ氏はこう答える。
「そういうものかな」
とエヌ氏は、わかったような、また不満そうな顔でつぶやいた。
この微妙なエヌ氏の発言であるが、実際問題「そういうもの」なのだろうか。
技術の発展の中で
AIに限らず技術の発展は人類に新たな時間を与えた。しかしながら失ったものもある。
例えば自動車を考えてみよう。ある地点からある地点まで歩いて1時間かかるところを自動車なら10分で行ける。それによって50分の時間を余分に確保したわけだが、歩く時間は大幅に減り、ある種の体力は失われた。体力を犠牲に時間を手に入れたわけだ。
つまり技術の獲得はなんらかの代償を必要とするわけである。
AIに関連づけると、最近よく話題になるのはchatGPTなどの生成AIだ。もはや調べたりするときは「ググる」のではなくて「チャッピー」なわけであって、これがスタンダードになりつつある。確かに便利だ。しかし、すべて生成AIにやってもらったら、読み書き能力は当然衰える。もはや必要ないということもあるかもしれないが、とにかく代償を支払っているわけだ。
ということは、その代償が支払えなくなる前に、人類はどこかで落とし所を見つけなければならないことになる。人類が滅亡する前にだ。まだまだいける、という場合はエヌ氏のように「そういうものかな」という感想になるし、流石にここら辺で落とし所でしょうとなった場合は博士のような態度になる。
ただし、そんなふうに落としどころをつけることが人類にできるのかは定かではない。むしろできないのが人間では?という感じさえする。「きまぐれロボット」の世界よりも「ボッコちゃん」の世界の方がありえる、と思えてしまうのは私だけであろうか。

