概要
『四畳半神話大系』は、2005年に刊行された森見登美彦の青春小説。2010年に湯浅政明監督によってアニメ化された。
京都に暮らす3回生の男子学生が入学当初に選んだサークルごとに、それぞれどのような生活を送ったかを描いた物語。
森見はほかに『夜は短し歩けよ乙女』が、湯浅はほかに『犬王』がある。
小説・アニメはほかに、星新一「ボッコちゃん」「きまぐれロボット」、梨木香歩『西の魔女が死んだ』、谷崎潤一郎『春琴抄』、中島敦「山月記」、辻村深月『ツナグ』、『薬屋のひとりごと』などがある。
おすすめの小説は「日本純文学のおすすめ」で紹介している。
登場人物・声優
私(浅沼晋太郎):京都の下鴨幽水荘で暮らす農学部の3回生。身長は約180cm。「薔薇色のキャンパスライフ」になるはずが、冴えない人生を送っている。
小津(吉野裕行):「私」の悪友。工学部に所属するが単位はほとんど取れていない。樋口を師と仰ぎ、様々な悪行に勤しんでいる。他人の不幸を楽しむ性格。
明石さん(坂本真綾):1年下の後輩。蛾が苦手。もちぐまが好きで、ぬいぐるみを持ち歩いているが、一個失くしている。
樋口清太郎(藤原啓治):小津の師匠。大学の8回生。大らかな性格で仙人のような生活を送っているが、貧乏神に例えられることもある。小津や私に無理難題をふっかけることもある。
羽貫涼子(甲斐田裕子):歯科衛生士。酒癖が悪く、酔うと他人の顔を舐めようとする。樋口や城ヶ崎と特に親しい。
城ヶ崎マサキ(諏訪部順一):樋口のライバルであり親友。自虐的代理代理戦争の樋口の対戦相手。映画サークル「みそぎ」の部長。「香織さん」と呼ばれるラブラドールを愛でている。
香織さん:城ヶ崎の超高級ラブドール。
相島(佐藤せつじ):映画サークル「みそぎ」の副会長。地下組織「福猫飯店」に所属している。
老婆(真山亜子):占い師。妖気を垂れ流している。私に助言を与え、お金を請求する。
小日向さん:小津の恋人。
名言
幻の至宝と言われる「薔薇色のキャンパスライフ」への入り口が、今ここに無数に開かれているように思われ、私は半ば朦朧としながら歩いていた。(p.9)
あらすじ・ネタバレ・内容
第1話:四畳半恋ノ邪魔者
第2話:四畳半自虐的代理代理戦争
第3話:四畳半の甘い生活
第4話:八十日間四畳半一周
解説
不幸になる運命に抜け道はあるのか
「もしあのとき、ほかの道を選んでいればと考える。」(p.94)
もしあのとき違う選択をしていれば、ちょっとでもましな人生を過ごせていたかもしれない。そのような妄想に囚われることはないだろうか。本書は、そのような甘っちょろい妄想に痛烈な一撃を与えると同時に、選び取った人生はどれもそれなりに楽しいものだと教えてくれる、肯定の物語である。
主人公の「私」は京都で冴えないキャンパスライフを送る大学3年生。大学一年生のときに映画サークル「みそぎ」に入った場合、樋口に弟子入りした場合、ソフトボールサークル「ほんわか」に入った場合のすべての並行世界で、自ら選択したこの人生に後悔をしている。大学一年生のあの時、他の選択肢を選んでいれば、「薔薇色のキャンパスライフ」が手に入れられたかもしれない。だが、今のこの人生はどうだろうか。一言で言えば、惨めである。性格はねじ曲がり、悪趣味に手を染め、友人は少なく、当然のことながら「薔薇色のキャンパスライフ」を掴むことはできていない。
このような悲惨な人生を歩むことになった原因を、「私」は大学一年生時のサークル選択のほかに悪友の小津に求める。小津は妖怪のような不気味な風貌で、他人の不幸をこよなく愛する悪友である。彼は「私」のどの人生にも執拗に顔を出し、「私」を堕落した悪の道へと導いていく。
三回生になりどうしようもなく堕落した人生を歩む「私」の後悔は、入学当初のサークル選択と小津の出会いにある。この二つの後悔をあえて区別すれば、前者は自力、後者は他力の領域にある。つまり「私」は、自分と他者、能動と受動の両側面から不幸な人生を歩まされている、と感じているのだ。
ところが、パラレルワールドを経験した読者はどう思うだろうか。選択したどの人生でも小津が現れ、「私」は堕落する。小津が「我々は運命の黒い糸に結ばれているというわけです」というように、「私」はどう足掻いても小津と共にいる運命にあるようだ。小津と共にいると不幸になる、そして「私」は小津と出会うことが運命づけられているとしたら、「私」が不幸になることは避けようのない「運命」である。
考察・感想
存在を規定するのは、我々が持つ不可能性である
この袋小路から抜け出す突破口はどこにあるのか。こんなはずではなかった!あのとき違う選択肢をしていれば!と叫ぶ「私」は、無限の可能性に開かれていると信じ切っている。だが、この「無限の可能性」という発想に罠があるのだ。樋口師匠はこう言っている。
可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。
我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である。
あのとき違うサークルを選んでいれば、小津と出会っていなければ、とい無低減に使われた可能性は、我々という存在を規定することはない。何故ならこの仮定は不可能なことだからだ。つまり、サークルを選択することと、小津に出会ってしまうこと、この二つの事柄が「私」の存在を規定しており、これらを排除した可能性は単なる空想である。「私」はこれらの条件のもとで「薔薇色のキャンパスライフ」を掴み取るべきなのだ。
我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。
自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。
今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。
樋口師匠のこの発言は、やるべきことを端的に述べている。「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない」とは、この悲惨な現実を受け入れろというネガティブな発言ではない。そうではなくて、「ほかの何者にもなれない」という不可能性を認めることが、「薔薇色のキャンパスライフ」を謳歌する可能性の条件なのだ。
自分の足元を見つめてみよう
このことを「私」は、第4章「八十日間四畳半一周」で初めて理解する。無限に連なる四畳半の自宅は、全てありえた自分の人生である。そこで垣間見た他の人生はどれも煌びやかでない。違う選択をしていれば幸せになるはずという妄想は完膚なきまでに打ち砕かれたのだ。
どの人生にも共通していることは、「私」がこの人生以外なら幸せになれたと信じていることだ。だが、この不毛な幻想こそが「私」の幸福を妨げている。そのことを理解するためには、樋口師匠がいうように「ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない」。そしてそのとき、無意義だったはずのこの人生に、真の可能性が開けるのだ。
ありもしないものばかり夢見て、自分の足元さえ見てなかったのだ
幸福はこの人生の外部ではなく、足元に転がっている。この人生をまず認めること、そこからが始まりである。そして意外なことに、不毛な人生と思われた四つの人生は、どれもそれなりに充実していて楽しそうだ。そのことに気づいたとき、「私」はようやく、八十日間四畳半一周というパラレルワールドの旅を終えることができるのである。

