北野武監督『首』 祝祭の渦中へ

北野武監督『首』 祝祭の渦中へ

*核心に触れるネタバレをしないように配慮して書きましたが、未見の方はご注意ください。

1. 「いちばん静かな海」から遠く離れて

 『首』が面白かった。北野武の映画と言えば、死の予兆を湛えた海であり、紙相撲であり、沖縄であり、モラトリアムであり、野球とボクシングであり、台詞のない風景であり、絵画であり、まず何よりも海である。と観る前から半ば決めつけていたオールド・キタノファン(と勝手に呼ぶ)は度肝を抜かれたのではないだろうか。何もかも、全く違っていたからだ。

「そこには、”振り付け”られたものはまったく存在していない。[…]その時、俳優は演技していないし、演出も行われていないし、キャメラによる意思表示もない。しかも、表現を行わないというマイナス方向の表現へのベクトルさえ、まったく感じられない。つまり、なんにもないのだ。あるのはただ、誰かがそこにいる、何かがそこにある、という、まったくあっけないほどに単純極まりない『存在すること』の骨組みだけである。」(『フィルムメーカーズ2北野武』キネマ旬報社、1998年. p.69-)

という批評家佐々木敦の『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)評に象徴される、「無為」の作家としての北野像は、根本的に見直されないといけないだろう。みんな大好き『ソナチネ』(1993)から『アウトレイジ 最終章』(2017)まで、北野がスクリーンに定着し続けてきた「無為」の豊かさは、『首』(以下、本作)で初めて、その痕跡すら消し去られている。

 「死の予兆を湛えた海」の代わりに映し出されるのは、「死そのものとなった川」である。オープニングで映る川には、タイトルの「首」を失った足軽の死体が見るもおぞましい状況で転がっている。「死」が映されてしまっている。過去の作品では海辺で何時間を過ごしても決して海に入らなかったたけし(以下、俳優としての彼を指す場合は「たけし」と呼ぶ)は、本作で羽柴秀吉として渡河するため、神輿に担がれて川に入ってしまう。弟の秀長(大森南朋)は「兄者が死ねば俺が総大将だ」と直接口にするし、秀吉は死の恐怖にさいなまれてあろうことか吐冩するありさまだ。(過去作の不穏な「海」に近いものを無理矢理見つけ出そうとすれば、安土城の全景に映り込む琵琶湖であろうが、いくら信長の振る舞いが死の予兆に満ちていようとCGで作られた湖畔を見て安土城を浜辺に見立てるのは無理があるし、何より琵琶湖は湖だし…。)

 北野の変化は、もちろんこうしたモチーフの扱いのみにとどまらない。本作のタッチに最も近いと世間から思われている『アウトレイジ』シリーズ(2010-17)ですらなお、銃撃戦の演出では、一部始終を描写するのではなく、大胆に過程を省略して結果としての死体群だけを映していた。監督として出発した時の低予算がもたらす制約を逆手に取って築き上げたこうした省略技法は、北野作品のミニマルな叙情性を保証するトレードマークともなったが、本作では全く用いられていない。農民上がりの茂助(中村獅童)が矢の降り注いでくる中命からがら生き延びるシーンは、大量の死体を上空から映したカット(おそらくドローン撮影)が印象的に用いられてはいるが、それとて発端と過程の一部は描かれており、過去作の省略と同質のものではない。ましてその他のシーンでは、「どうしてその結果になったのか」が逐一語られていく。信長はどのようにして光秀の怒りを買うのか、家康はどのようにして伊賀を越え逃げ延びるのか、光秀はどのようにして死ぬのか、そのような多くの(日本に住む/住んだことのある)観客が日本史の授業や時代劇を通して何となく知っている事柄が、省略されることなしに、劇中で丁寧に描かれる

 叙情から叙事への転換、とまとめると図式的すぎるが、北野が「事前」と「事後」だけでなく本作で「渦中」を描くようになった、と私は強く感じた。どういうことか。初期の北野作品には、「平坦な広がりでの、過剰な身体(たち)の憂鬱な遊びと、やや離れた位置からそれを傍観する瞳」と映画研究者の中村秀之が取り出してみせた構造があった。

この場所には必ず、遊びに直接加わらずに離れた位置から視線を向けているだけの傍観者-目撃者がいる。マサキのガールフレンドや、草野球チームの監督をしているイグチの女、シゲルの恋人、同じ海岸に集まる他のサーファー、あるいは、授業中にもかかわらず、うわの空で校庭を見下ろしている窓際の学生たち。これらの視線は、あの身体と場所との結合を最終的に縁取るという重要な機能をはたしているが、その特徴は対象との文字どおりの距離にある。

「外傷の絵/贈与の物語」、『ユリイカ』1998年2月臨時増刊「北野武 そして/あるいはビートたけし」青土社、pp.62-63.

 この卓抜な論考は、『HANA-BI』(1998)までの作品を対象に論じており、したがって人名や状況等の例も『3-4x 10月』(1990)、『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)、『キッズ・リターン』(1996)に限られている。にもかかわらず、『菊次郎の夏』(1999)の構造を完璧に説明するばかりか、今後『首』の先行作として観比べられること必至の時代劇、『座頭市』(2003)のラストシーンにも光を当てている。よく知られているように、『座頭市』は村祭りのタップダンスという作品の時代設定を完全に無視したエンディングで幕を閉じる。中村の「平坦な広がり」という言葉通り、どことも知れぬ空間(あんなセットみたいな境内があってたまるかよバカヤロー!)で舞い踊る村人の列に、一人、座頭市(たけし)だけは加わらない。村祭りの喧騒をよそに流浪していく座頭市のモノローグ、「いくら目ん玉ひん剥いても見えねぇもんは見えねぇんだけどなぁ」は、盲目を装っていた彼が実は誰よりも物事を見極めており、しかも最後まで傍観者たり続けたことを示している。村祭りの場にこそいないが、タップダンスに対しては座頭市が画面外の「傍観者-目撃者」の位置を占めている。

 ところが、『首』に「傍観者-目撃者」は一人もいない。「おみゃーの働きしでぇーで跡目はおみゃーのもんだわ」と尾張弁で絶叫し暴力を振るい続ける異形の信長(加瀬亮)が設定したルールの下、秀吉(たけし)や光秀(西島秀俊)や家康(小林薫)ら武将は天下を目指し、黒田官兵衛(浅野忠信)や本多忠勝(矢島健一)ら部下は彼らの生き残りのために策を立て、茂助ら足軽は手柄を挙げようとする。芸人の祖とも称され、本作が企画された1990年代ならきっとたけしが演じていただろうと想像される、人を食った曾呂利新左衛門(木村祐一)ですら、忍びの前歴を活かして功を成し秀吉に取り入ろうとしている。本作が冒頭の場面で居並ぶ武将たちを『アウトレイジ』における山王会幹部のように撮ろうとも、それは本作と『アウトレイジ』シリーズとの差を浮き彫りにするだけである。すなわち、『アウトレイジ』シリーズの大友(たけし)のように「跡目」争いからあらゆる意味で「降りた」人間は、本作の世界には一人たりともいないのだ(百姓の出の秀吉は、「武人の道」には一貫して無関心でアウトサイダーともいえるが、跡目争いのゲームに関してはインサイダーとして積極的に参加している)。

 「傍観者-目撃者」の不在と、「無為」が醸し出す叙情の消滅は連関し合っている。皆が目的を持った行動しか取らず、そうでなければあっという間に殺されていく世界。そんな戦国時代に、「降りた」傍観者は存在できない。本作の北野は、彼らの犇めき合うさまを冷徹に、しかし省略せず丁寧に描いていく。

 何が作風の変化をもたらしたのか、私に知る由はない。北野作品のプロデュースを何十年も担当してきた森昌行から離れてKADOKAWAの製作に任せ、所属事務所もオフィス北野からT.Nゴンに移籍した個人の心境が影響したのか。『HANA-BI』以外でコンビを組み、北野作品のルックを決定付けてきた柳島克己のカメラを離れ、滝田洋二郎や崔洋一作品の印象が強い浜田毅に撮影監督を任せたこと、太田義則にいつもより多く編集の主導権を委ねたと伝えられること等、スタッフ面の変化が要因なのか。私にはわからない。私にわかったのは、もはや北野武は『あの夏~』や『ソナチネ』の時代からは遠く離れて踏み出しているということと、その結果生み出された本作が、紋切り型の北野評価も失効させるほど、途方もなく面白いということだ。ならば、この挑戦は歓迎するほかあるまい。

 もはや、座頭市は祭りの舞台に上ってきている。「傍観者」たらざるを得ない私たちも、北野武の一歩の「目撃者」となるために、劇場に行って渦中へ飛び込もうではないか!(2023. 11. 25)

映画カテゴリの最新記事