甲骨文と文字体系
甲骨文は象形文字を中心とした表意文字の体系である、というのが一般常識的な認識のようである(高島敏夫『甲骨文の誕生 原論』人文書院、2015年、43頁)。しかし表意文字だけでは文字の体系としての十分な機能をそなえるにはいたらない(22頁)。ではなぜ象形文字である甲骨文が文字体系を整えられたのであろうか。今回はこの問いに答えることを最終的な目標とする。
しかしこの問いに答える前にはっきりとさせておかねばならないことがあるだろう。それは、そもそも人は何をもって出土した記号を文字であると判定するのかという問題である。従来この問題は十分に顧みられておらず文字の定義は漠然としていた。そこで高島は裘氏を援用しつつ「文字とは言語を記録する記号である」と定義する。この定義に従うならば、例えばかつて文字であると考えられてきた鄒平丁公龍山文陶片上の刻画記号[i]は文字というには不十分である。それはむしろ単に「絵文字」と呼ばれるべきものであり、それはせいぜい「備忘手段」としての機能しかもっていないだろう。文字を論じるにあたってまず単なる「絵文字」と「文字」を明確に区別しなくてはならない。
そのため文字というからにはそれが言語を記録する機能を持っている必要があるのだが、表意文字だけ言語を記録することは不可能であると考えられる。シュメール文字の例では絵文字が簡略化され表音機能を備えたときにはじめて文字体系が完成した(25頁)。というのも、そもそも「文字というものは、無文字社会の中で生み出されたものである」(同頁)。そのため文字体系の完成には表音機能を創設することが「最も重要な条件になっている」(同頁)のである。
そして甲骨文の場合もやはり例にもれず表音機能が備わっていたからこそ文字体系として成立していたのであるが、甲骨文には他の文字体系には見られない独特の性格がある。つまりメソポタミアの楔形文字など他の文字体系には表音機能が洗練されていって文字数が減少するという現象が生じるのであるが、甲骨文の場合は金文までの六百年もの間同じ字形を保持した文字体系が継承されているのである(26-27頁)。ではなぜ甲骨文では文字数が減少することなく表音機能を持つことができたのであろうか。
借字について
そこで必要になるのが「借字」という考え方である。高島は日本における文字体系の成立過程を参考に「借字」という考え方を紹介する(28-30頁)。例えば現存する資料の中で比較的まとまった内容が記されている稲荷山古墳出土「獲加多支鹵大王の鉄剣」では、人名、地名等が漢字音を用いて表現されている。この表記法では「漢字の意味には関係なく、一音一音を示すために文字を借りる」手法がとられている。つまり、タカハシを示す場合現在であれば「高橋」や「高梁」といった表記を用いるがこの鉄剣では「多加披次」という表記が用いられる。この例では単に音を表するために字が借りてこられていることがよくわかるだろう。
そして甲骨文においても借字が行われていると高島はいう。具体的な例もみていこう。文末注のⅱに記されている図[ii]を見てほしい。ここに書かれている文章は「癸[南殳]酉ト貞、今日王歩。(癸酉[南殳]トして貞ふ、今日王歩せんか。)」と書かれており、その内容は「王が〔儀式を行う所定の場所などへ〕歩しても大丈夫だろうか?」というものである(37-38頁。[南殳]は本来一字であったがワードで打ち込めなかったため[]で囲んだ)。この文章にもまさに借字が含まれているのである。画像でいえば右から二行目の上から二文字目の文字が(上記の白文、書き下し文の「今」に当たる字が)借字である(39頁)。この「今」という字はもともと「壺などの蓋栓の形」を表したものだったらしい(41頁)。「今」という時間を表す語は当然ながら具体的な形を持たない。そしておそらく口頭言語において「壺などの蓋栓の形」を表す語と「今」を表す語が同音で発音されていたのであろう。そこでこの「壺などの蓋栓の形」を表した象形文字を借りて「今」を文字で表現したのである。
このように「方位・否定詞・代名詞・時間・助辞」などの「言葉としての音はあっても具体的な形を持たないもの」が「借字」によって表現されたのである(同頁)。
結論
ではなぜ甲骨文(漢字)は借字によって表音機能をまかなうことができたのだろうか。その理由は中国語が「独立語」に分類される言語であることにある。というのももし西洋語のような「屈折語」であれば語形の変化を表す文字がその都度必要になるだろうし日本語のような「膠着語」においても用言や助動詞の語末が変化するのでやはりそれに対応する専用の表音文字が必要になってくる。しかし「独立語」である中国語においては「文法機能は主として語順によって果たされる」ため「借字」による表音機能だけで十分事足りたのである(52-54頁)。
最後に以上の説明をまとめておく。ある記号を文字というためにはそれが言語を記録する機能を備えていなければならないが、そのためにはその記号が表音機能を持っていることが必要不可欠である。ところが甲骨文は象形文字であり表音機能に特化した文字ではない。しかし甲骨文は漢字を受け入れて間もないころの日本同様に借字という手法をもちいて表音機能をまかなうことができた。屈折語や膠着語では借字のみでは文字体系として不十分であるが独立語を表す甲骨文(漢字)においては借字によって十分に文字体系を成立させることができた。これが象形文字である甲骨文が文字体系を整えられた理由である。
参考文献
高島敏夫『甲骨文の誕生 原論』人文書院、2015年
[i] 鄒平丁公龍山文陶片上の刻画記号。高島敏夫『甲骨文の誕生 原論』人文書院、2015年、p.21より抜粋。
[ii]高島敏夫『甲骨文の誕生 原論』人文書院、2015年、p.38より抜粋。