「心」ってなんだ—エドモンド・デ・アミーチス『クオーレ』(『母を訪ねて三千里』高畑勲)

「心」ってなんだ—エドモンド・デ・アミーチス『クオーレ』(『母を訪ねて三千里』高畑勲)
目次

感想

 「母をたずねて三千里」というアニメがある。その原作がこの『クオーレ』という小説(1886年)で、イタリア語(Cuore)で””・”愛情”、というタイトルである。著者の息子が書いた日記に著者が少し手を入れ、さらに、「今月のお話」と、家族のコメントを付け加えるという3層構造になっている。有名な「三千里」のお話は、息子が学校で書き写すようにいわれる「今月のお話」のひとつで、元が誰かの実体験なのかどうかもさだかではない(たぶん創作なのだろう)。小説では60ページほどしかないのにアニメでは50話以上ある。アニメは、三千里以外の『クオーレ』のなかの記述から付け足したようなエピソードも少しはあるが、ほとんどは三千里の内容を引き延ばしているだけで、しかもこれが結構、いや子どもにとってはかなりつらくきびしい旅なので、当時どれくらいの人がこれを毎週たのしみに見ていたのかは気になるところだが、まあ結構有名になっているしそれなりに見られていたのだろうか。

 アニメ版で僕が好きなのは原作にはないペッピーノ一座のひとたちだ。一座はそのままひとつの家族なのだが(上の画像の四人)、お父さんは陽気で飲んだくれの人間で、各地で見世物が当たってお金が入るたびにお店に入ってパーッとお金を使ってワインを開けてぐでんぐでんになるまで祝う姿が小気味良い。娘たちは貯金してほしいだろうけど…。あと、彼らはマルコ(主人公の少年)と道中一緒に旅したりするのだが、彼らが人形劇をやるときの音楽がぼくは好きなんである。

なんか熱唱しているおじさんがいた。声優を担当した人に声と喋り方がすごく似ている!! ブラボー

 アニメ版ではこの音楽が流れているあいだ、もちろん脂マシマシの脂っこいおじさんが登場して歌ったりするのではなく、ペッピーノ座のおとなしい少女フィオリーナが街頭で糸につるした人形を踊らせるのだが、それがなんとも言えないかわいげとかろやかさがあって、なんだかゆかいな気持ちになれるんである。こういうのはアニメのいいところだ。

 

 アニメを見ていた当時のぼくはまだ原作を読んでいなかったので、原作には音楽の描写とかあるのかなあ? と気になっていた。われわれは小説などを読む時に、自然とぼんやりながらも人物の姿や声をイメージしてキャラクターを想像で作り上げているが、たとえば作曲の才能がある人なんかは、小説の中にオリジナルの音楽的な描写があったときに、もしかして即興で好きなように作曲していたりするんだろうか? ということを考えたりしていた。

…アニメの話ばかりになりそうなので原作に話を戻そう……とはいうものの、じつはアニメの方ばかりに気持ちが偏ってしまう理由があるのだ。この原作は教育(教養)小説といってよいのか、とにかく子どもへの忠告、道徳的お説教みたいなのが通奏低音のようにずっと続いているので、なんだか煙たいというか段々と食傷するんである。しかも、国や軍隊や学校などへの奉仕(自己犠牲)とかが名誉や美徳として何度も語られるので余計に面食らうのだ。さらに、小学校がそのためのまさに規律訓練(といっても『監獄の誕生』は読んでいないのだが)の場として本気で期待されていたりするのでなかなか読み続けるのがつらいところもあった。400ページ以上あるので図書館の返却期限効果が無ければ読み通すことはなかっただろう。ただ、当時のイタリア独立戦争を戦った人間と、大戦期の軍国主義を経た後の日本の我々とでは軍や国への考えも(「心」の持ち方も)違って当然なのだから、まあことさらに文句をつけるほどのことでもない。

 タイトルとなっている、「心」とはなにか。まず辞書的な定義を一部紹介すると、心とは精神的な働きであり、「事物の内にこもっていて、それの価値のもとになるようなもの」。とすると、「人間」の「価値」も心の在り方次第、といったところか。

「きみたちはなにも手出しをしていない人間をからかった。気の毒な人間をばかにして笑った。手出しのできない弱いひとをなぐった。きみたちがしたことは、人間として最低の、人間の名誉をけがすはずかしいおこないだ。そういうのを、ひきょうもの、っていうんだ!」 そういって先生は、みんなの席のあいだにおりてくると、うつむいていたガッローネのあごに手を当てて、顔を上げさせると、じっとその目を見つめた。「きみは、の気高い子だ」(新潮文庫、p31)(強調筆者)

ここでいう「人間の名誉」を、殴られている者の”人間の尊厳”という意味でとることもできそうだ。だがその解釈ではあまりにもつまらない。我々人間の一人一人の行動が、「人間の名誉」を汚すことにも、高めることにもなる、ということだと捉えたい。人間として生まれたのならば、卑劣漢として生きるのではなく、気高い心をもって生きよということだ(…人間中心(例外)主義が過ぎるだろうか?)。…とまあこういう教訓めいた描写が多い小説なので好き嫌いは結構分かれそうだ。

「いいこと、あの子はかわいそうに、あんなにしてまで勉強しなければならないのよ。あなたはなにひとつ不自由ないのに、勉強がつらいみたいね。」(p37)(強調筆者)

あっ、すいませんである。

 さて、ぼくが本作のなかですきな話は、鉄棒が苦手な子が一生懸命になって成功してクラスのみんなと不安げだった母親に祝福されるおはなしや、3年間の出稼ぎ労働から帰ってきた父親が耳の聞こえない娘に再会したら娘が一応会話ができるようになっていて大喜びし、興奮したまま3年間の稼ぎを教師に渡してしまう(冷静に返されるのだが)はなしなど。あとは、沈没船に乗っていた孤児の少年が自分の身を犠牲にして家族のいる少女を助けるはなし。最後のやつなんかもベタというかクサいといえばクサいのだが、実際に読んでいると不思議にグッときてしまう。そういえばいつだったか、以前、マルキージオというイタリア人のサッカー選手(ちなみに作者のデ・アミーチスと同じ北西イタリアの出身である)がインタビューに答えて、「わたしは母親の姿から「犠牲」ということを学んだ」と語っていたことを思い出した。彼も母親から愛情と犠牲の心を受け継いだのだろう。人間は、ほかの人間から「心」を受け継ぎ、また受け継がせていくことのできる生き物である。北西イタリアではいまも、デ・アミーチスが伝えたかったが生き続けているのかもしれない。

……なんだかクサくなってしまった気がする。ぼくもデ・アミーチスの心(クオレ)を受け継いでしまったのだろうか笑。

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