人にやさしく―映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想―

人にやさしく―映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想―

はじめに

 その映画は、開眼せよと私に言った。キョロキョロお目目を開きなさい、と。その映画のタイトルは「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(2022年・アメリカ・監督ダニエルズ)、以下「エブエブ」とする。ストーリーとしては、国税庁への申告準備に困りながらクリーニング店を経営する中年女性のエヴリンが、様々な宇宙に存在するそれぞれの自分の力を利用して、宇宙を救うというものだ。宇宙は泡のようにたくさんあって、それぞれは「もしあの時こうしていたら」の世界になっているらしい。そのような無数の世界が入れ替わり立ち替わり現れ、瞬間瞬間で個人は別世界のその人に取って代わられ、を表現した映像は、鮮やかで記憶に残る。でも、それだけではこの映画終わらない。エヴリンの物語を通じて、第二の眼であるキョロキョロお目目を開け、つまり、人にやさしくしなさい、と言っている。

 でもその言い方は、小学校の標語のように一方的なものではない。世界の複雑さとか人間の感情のままならなさとか、そういうのを抱え込む我々を認めつつ、それでも人にやさしくしようよ、と語りかけている。この文章では、映画の伝えることについて整理し、最後に感想を述べたい。映画では主要登場人物が、メッセージそれぞれのキーパーソンになっているので、それに基づいて記述していく。攻撃するのではなく、やさしさを持って他人に応じようということについては、エヴリンの夫ウェイモンドが、問題だと判断した人物を排除することで解決を図るべきではないということについては、エヴリンの父ゴンゴンが、その問題を担っている。また、この映画は家族の物語として確かにあるのだけど、家族にだけ愛を与えればよいというのではないのだということも主張する。これについては国税庁職員のディアドラが重要人物である。そして、人にやさしくすることは、その人の存在を肯定することだということに関しては、エヴリンの娘であるジョイが重要である。そのようにして登場人物毎に役割を与え、様々な含みを持たせながら、「人にやさしく」ということを映画は伝えている。ただ、映画には後日談もあり、そこでの補足されることも大切だ。それについても最後に書きたい。

 この映画は、未来感や非現実感のある物語と映像で面白く鮮烈な体験を観客に与える一方で、現実に今を生活する私達に切実なメッセージを持っている。「すごい映画だった!」「感動した!」とかで終わってはもったいない。この映画は人類を救おうとしているのだっ!そんな私の解釈を人に伝えることもまた、誰かを救うのかもしれない、そう信じて、以下、書いてみる。

人にやさしく―二人のウェイモンド―

 この節では、映画「エブエブ」の筋をたどりながら、映画が人にやさしく、というメッセージを持っていること明らかにする。その中でのウェイモンドの役割にも注目しよう。

 まずは物語の流れを確認しておく。映画の主人公はクリーニング店を経営するエヴリンだ。彼女は夫ウェイモンド、父ゴンゴンと国税庁に向かう中、ウェイモンドに全宇宙を救ってくれと言われる。それを言っていたのは、ウェイモンドに乗り移ったアルファ・ウェイモンドであった。彼が説明するところによれば、宇宙は泡のように無数にあり、生命史・人類史において選択されなかったこと、また、自分の人生の分岐点において行かなかった道、の世界がそれぞれ存在している。彼はアルファの宇宙から来たらしい。そしてその宇宙のエヴリンは、それぞれの宇宙を繋げ、別宇宙にある別の自分を乗り移らせるシステムを開発したという。アルファ・ウェイモンドはエヴリンに闘えと言う。強大な悪であるジョブ・トゥパキから全宇宙を救えるのはエヴリンだけだと。彼の指導を受け、エヴリンは別宇宙の様々なエヴリンの能力を駆使し、自分に襲い掛かってくる人々を倒していく。別宇宙の自分はカンフースターだったり、歌手だったり、ピザの看板を回す人であったりするから、その能力を自分に乗り移して闘うのだ。

 しかし物語は後半、意外な展開を見せる。アルファ・ウェイモンドが別宇宙で亡くなり、ウェイモンドに乗り移ることがなくなった後、ウェイモンドがエヴリンを助ける。彼は暴力ではなく忍耐と寛容を示して、エヴリンを様々な人から守ろうとしたのだった。彼のやさしさに感銘を受けたエヴリンは開眼し、自分に襲い掛かってくる人々にもやさしさで応える。そして最終的に物語は、闘うことではなく人に愛情を持って向き合うことを肯定する。

 ところで、アルファ・ウェイモンドによって巨悪と言われたジョブ・トゥパキは、別宇宙のジョイであった。彼女は別宇宙に存在する自分への乗り移りに秀でており、全ての別宇宙の自分を経験することができた。そして全てを経験してしまった以上、大事なものは何もないのだという考えに至り、ブラックホールのようなものを作りそこに身投げをしようとしていたのだ。ジョイとジョブ・トゥパキは分かちがたく結びついていることが示される中で、あなたといたいのだということををジョイとジョブ・トゥパキに伝えたエヴリンは、ジョイとジョブ・トゥパキを虚無から引き戻すことに成功した。

 以上が物語の大まかな筋である。では、ウェイモンドを軸に、どのようにして映画が「人にやさしく」という主張をしているか見ていこう。まず、前半と後半は対立する物語である。エヴリンは対照的なウェイモンドに導かれている。アルファ・ウェイモンドは機敏であり、カンフーの達人だ。エヴリンに「闘え」と言い、自分を逮捕しようとした警官を人間離れした技でばったばったと倒す。彼に指導を受けたエヴリンもビシビシとカンフーで敵を倒していく。アルファ・ウェイモンドによって導かれる物語は「宇宙の危機だ!闘え!」という掛け声のもと、選ばれた人間が悪に立ち向かうという、よくあるものなのかもしれない。

 しかし物語はそれではだめだと言う。それは物語が進むにつれて明らかになる。例えば、エヴリンは闘いの中で別宇宙の自分をほの見ることで、自分には限りない可能性があったことを思い知る。もし、ウェイモンドと結婚しなかったら、彼女は大女優になっていたらしい。もしくは世界的な歌手、もしくはスーパーシェフ、もしくは…。様々な可能性を体験する中で、彼女の身体は悲鳴を上げ、精神もまいっていく。指がソーセージのホモ・ナントカがホモ・サピエンスを淘汰した世界の自分を経験すると、こちらの世界の自分の指も動かなくなってしまったり。ウェイモンドと駆け落ちしなかった世界線で、ハリウッド女優としてレッドカーペットの上を歩いているのを体験したら、あなたと結婚なんかしなきゃよかった、とウェイモンドに言ってしまったり。そして結局彼女は倒れてしまう。

 物語は後半で、アルファ・ウェイモンドでなくウェイモンドのあり方を肯定する。我慢強く人に寛容で、人を喜ばせようとするウェイモンドこそが、エヴリンと世界を救うのだ。アルファ・ウェイモンドに対し、ウェイモンドはカンフーなんかできない。闘いには参加せず、物陰から震えつつ驚き見ているばかりだ。そして自分に攻撃の姿勢を見せる相手に対し、話して何とかしようとする。例えば、可能性という可能性を知ってしまい、どれも大切でない、全ては意味がないという気持ちになり、破戒衝動が高まったエヴリンはウェイモンドを刺してしまう。それを見たアルファ・宇宙の人々は、エヴリンを殺そうとするが、ウェイモンドは彼女は混乱しているのだとして、彼女を守ろうとする。全宇宙に散在する自分の可能性を制御できないままに発揮するエヴリンは危険だとして、別宇宙のエヴリンの父であるアルファ・ゴンゴンが指令を出し、エヴリンを打ち倒そうとするのだが、ウェイモンドは丸腰で楯になる。

 また別世界でもウェイモンドは虚無感に陥ったエヴリンを救う。こちらの宇宙では国税庁への書類再提出をすっぽかしたので、職員のディアドラがエヴリンの店まで乗り込んできていた。そこで、やはり全てがどうでもよくなってしまったエヴリンは自分の店のガラスを椅子でぶち破る。エヴリンは捕まってしまうが、程なく解放される。ウェイモンドがディアドラを説得したらしいのだ。自分が離婚届を見せたから、彼女はこんなことをしたのだ、どうか許してやってくれと。

 ウェイモンドはエヴリンに「人にやさしくならなきゃ、特に自分を見失っている時には」と言う。エヴリンはそれを聞き、忍耐強く自分の味方でいてくれるウェイモンドを再認識し、彼の言うことを受け入れる。彼と握手をし、別世界では彼と抱きしめ合う。暴力で相手を打ち負かすアルファ・ウェイモンドだけが戦士ではないのだ、人に辛抱強く他人にやさしくしながら、自分と他人の居場所を作っていくようなウェイモンドもまた、闘っているのだと、エヴリンは感じる。そして自分に向かってくる相手にカンフーの構えではなく、両手を広げて応じる。それに連動して、別世界のエヴリンも他人のために動くようになる。整体して凝りを解消させてあげたり、SMプレイで快楽を与えたり、幸福な記憶を呼び覚ましたり。自分に敵意を見せてくる人達を攻撃するのではなく、楽しませたり喜ばせたりしようとするのだ。

 このような一連の変化を象徴するような場面がある。エヴリンは危険だと判断したアルファ・ゴンゴンが、エヴリンを殺せと命令し、エヴリンに一斉に銃弾が放たれる。しかしそのたくさんの弾丸はキョロキョロお目目になって彼女の眉間に貼りつく。それはクリーニング店の宇宙でウェイモンドがクリーニング完了品につけていた目印であり、手芸品コーナーなどで売っているような、両面テープで貼りつくお目目である。ウェイモンドはお客さんやエヴリンを楽しませようとしてそれをしていたのだった。エヴリンに銃弾が撃ち込まれた世界で、銃弾はキョロ目に変化した。そのお目目を彼女がはね返すと、彼女に立ち向かってきていた人々にもそのキョロキョロお目目が付くのだった。この流れからわかることは、ウェイモンドが日々の生活の中で、他人にやさしくあろうとし、誰かを少しでも喜ばせようとしてきたことが、エヴリンに通じたということだ。そしてエヴリンが変化し、また様々な人にやさしくあろうとしたことは、さらにそれぞれの人を変化させていくことも示されている。

 その、ウェイモンドのやさしさが、たくさんの人を変化させていったことは、ジョブ・トゥパキが自分で作ったブラックホールのようなものに消えようとする時によくわかる。彼女はベーグルに全宇宙のあらゆるものを載せていた。全てが載ったベーグルは、何も意味がないことを象徴し、世界を飲み込むような力を持っていた。やさしさに目覚めたエヴリンはブラックホールに向かうジョブ・トゥパキに戻ってこいと言い、引き戻そうとする。加えて、エヴリンは自分のやさしさを示すことでその場の人々を変化させていたから、他の人達も開眼していて、みんなでジョブ・トゥパキを引き留めようとする。最終的に、ジョイとジョブ・トゥパキは、エヴリンが、あなたといたいのだと言ったことに応えて戻ってきた。彼女が自分を世界に残そうと思った理由としては、エヴリンに認められたからというのは大きいのだろう。しかしジョイ、そしてジョブ・トゥパキが世界の敵であるかのような状態から、みんなで彼女を淵から引き戻そうとするような世界になったことは、エヴリンの言葉とともにジョイとジョブ・トゥパキに響いていたはずだ。

 注意したいのは、巨大な悪を倒し宇宙の秩序を守るという、当初アルファ・ウェイモンドによって導かれていた物語に従うなら、ジョブ・トゥパキの身投げを放置すればよかったということである。アルファ宇宙の人達はスマホのような機器を持っていて全宇宙の様子を知ることができるが、その機械によりわかることには、人々を振り切ってジョブ・トゥパキがベーグルに身を投げた時、確かに宇宙は緊急事態から正常に変化したらしい。でもあなたといたいのだ、というエヴリンの声にジョイは戻ってくる。宇宙の秩序を戻すにはジョイとジョブ・トゥパキが消えればよかったのだけれど、物語はそれを選ばなかった。母が娘を虚無から救う話にした。この映画は、宇宙を救う話の振りをしておいて、一人の人を救う話なのだ。

 でも、それは世界を救うことになるのだ。エヴリンが周囲の人にやさしくしたことは、世界に変化をもたらしていた。ジョイとジョブ・トゥパキを消そうとしていた人々は、彼女を救おうとするエヴリンを皆で助けようとするようになっていた。それは、目の前の一人一人に愛で向き合うなら、それはまわりまわって社会全体を変えていくことになるのだということを示している。それぞれの人にやさしくすることは、排除をする社会から受け入れる社会にする力を持っているのだ。

 以上を考えるとこの映画は、暴力に対して暴力で立ち向かうのでは救いはない、他人にやさしくすることが重要なのだと述べている。自分に敵意を向けてくる相手に対しても寛容と思いやりで応えなさいと。巨悪を打倒し、世界を救え!という、ありふれた展開は物語後半で否定され、やさしさを示し続け、一人を救うことを肯定する。そしてそれこそが、世界を救うのだということを示している。アルファ・ウェイモンドはエヴリンに開眼しろ!と言っていたが、物語が選ぶのは、ウェイモンドのキョロキョロお目目であった。アルファ・ウェイモンドではなく、ウェイモンドであろう。物語はそう言っている。

 第2節では、物語の筋を追いながら、人にやさしくしようというメッセージを映画が持っていることを確認した。二人の対照的なウェイモンドがいたが、相手を撃退するのではなく、やさしく応対し話し合うウェイモンドを物語は肯定した。

 加えて、映画からは、悪と見なしたものを自分達の領域から排除するようなあり方ではなく、それも包みこんで社会を継続していこうとする意志が感じられる。そのことについて、第3節では述べる。

排除は解決ではない―ゴンゴンの変化―

 前節では、ウェイモンドに注目しながら、映画が人にやさしくというメッセージを持っていることを明らかにした。その補足として、問題と認識される人物を排斥して解決はできないのだ、ということも映画は伝えている。このことについては、エヴリンの父ゴンゴンがキーパーソンになる。アルファ・ウェイモンドとウェイモンドについては、相反する人物で、アルファ・ウェイモンドが乗り移っている間の記憶はウェイモンドにはなかった。一方、アルファ・ゴンゴンが支配している間、ゴンゴンには身に覚えがないのは同じだが、二人の人間性は微妙な重なりを持って描かれる。その二重性の中で物語は展開していくことも含め、ゴンゴンを中心に排除についてどのように語られているのか、見ていこう。

 アルファ・ゴンゴンの登場は、ジョブ・トゥパキがエヴリンに初めて会い、話そうとした時であった。ジョブ・トゥパキはエヴリンに、世界の深淵を見せようとしていた。そこに現れたアルファ・ゴンゴンはジョブ・トゥパキを電動車椅子ではじいて、エヴリンとの会話を中断させた。彼もまた、アルファ・ウェイモンドと同じく、ジョブ・トゥパキを倒して全宇宙を救おうと、エヴリンのいる宇宙に乗り込んできたのだった。アルファ・ゴンゴンは、エヴリンにカッターを握らせ、ジョイと殺せと耳打ちする。ジョイはジョブ・トゥパキの乗り移り先になっているので、ジョイを殺してその向い先を一つでも減らそうというのだ。彼女がそれを拒否すると、エヴリンもジョブ・トゥパキに魂を乗っ取られているとして、エヴリンに銃を向けた。そして物語の後半になっても様々な人を動員してエヴリンを殺そうとした。ウェイモンドの影響でエヴリンが人にやさしくあろうとし、ジョイとジョブ・トゥパキを受け入れようとした時には、それを止めようとした。ジョブ・トゥパキが自分をベーグルに投じて消えようとするのをエヴリンは引き留めようとするが、アルファ・ゴンゴンはエヴリンの動きを止め、ジョブ・トゥパキがそのまま世界から消えていくようにしようとしたのだ。

 最終的にアルファ・ゴンゴンはエヴリンの説得に応じた。エヴリンを解き放って、彼女がジョブ・トゥパキの元に行けるようにし、彼女と一緒にジョブ・トゥパキをベーグルの虚無から引き戻そうとさえした。この時エヴリンがアルファ・ゴンゴンに言ったことは、ゴンゴンへの思いであった。エヴリンは若い頃ウェイモンドと駆け落ちしていたが、なぜ自分をそんなに簡単に行かせたのか、とゴンゴンに迫ったのだ。今またジョイを行かせるのか、と。それはゴンゴンへ向けた言葉であったが、確かにアルファ・ゴンゴンにも響いたらしい。それは、問題だと思う人物を受け入れることができず、恐れ、排除して解決しようとするところで、二人は通じていたからだ。

 ゴンゴンはどのような人物であったのか。エヴリンの記憶の断片を拾うなら、生まれたのが男の子ではなく女の子であったことをまず残念がり、活発な子に育ったことを危ぶんでいた。「せかせか走るな!」と少女エヴリンを叱っていた。エヴリンが幼馴染のウェイモンドと恋に落ちたなら、あんな男は許さん!と言い、駆け落ちする彼女を引き留めなかった。そして現在は些細なことにつけて、お前は小さい頃から何をやっても中途半端で何一つまともにやり遂げたことがない、となじる。

 また、エヴリンは父ゴンゴンに理由づけてジョイとベッキーの関係を攻撃していた。ここからもゴンゴンのあり方が推測できるかもしれない。エヴリンがジョイに言うことには、女の子が女の子と付き合うことを父さんは理解できないはずだ、しかも白人の女の子と付き合っているなんて許せないはずだ、と。彼らは移民として生きていたのだった。実際、ゴンゴンは久々に会ったジョイに対して中国語が下手になっていると批難していた。彼らの家で、赤で彩られたパーティーや中華麺が出てくることからも、ゴンゴンやエヴリンが自分達のルーツを忘れていないことがわかる。しかしジョイはそのような親世代の感覚からは、離れていくらしい。

 ゴンゴンに受け入れられず家を去ったエヴリンは、しかしまた、自分の娘のジョイが家出するのを止められなかった。物語の冒頭、彼女はジョイのガールフレンドのベッキーを、ゴンゴンにジョイの友達だと紹介した。それにショックを受けて家を飛び出したジョイに、エヴリンはあなたは太りすぎだとか、あなたは私の反対にもかかわらず大学を中退したとか、タトゥーを入れたとか、様々なことを言った挙句に、彼女が去るのを見送るだけであった。ゴンゴン・エヴリン・ジョイ、三人で世代は異なるが、同じことが起きている。エヴリンは自分がされて辛かったことは自分の子供にしないとか、そんなことはできなかったのだ。

 でも映画後半、ウェイモンドの闘い方を学び開眼したエヴリンは気付いたらしい。それではいかんと。アルファ・ゴンゴンに、父さんはなぜ私が駆け落ちをした時そんなに簡単に行かせたの?と迫る。あなたはあの子の中に自分にないものを見ている、だからあなたは彼女を恐れているのだ、でもだからってこんなふうに行かせては駄目でしょう、と。その言葉によってゴンゴンはエヴリンを倒そうとするのを止めた。エヴリンがジョブ・トゥパキの身投げを阻止しようとするままにし、最後にはジョブ・トゥパキを引き戻そうとするのを手伝った。

 以上、排除による解決を志向する人物として、ゴンゴンとアルファ・ゴンゴンについてまとめてみた。彼の考え方はエヴリンに受け継がれ、エヴリンもまた自分が理解できない娘が家を離れるのを、そのままにしてしまった。しかしエヴリンは最後に、それではいけないのだと理解して、ジョイとジョブ・トゥパキを迎えにいった。物語は異端を取り除いて世の中を維持していこうとするようなあり方を否定したのだ。

 こうして見てみると、マルチバースの話ではない、我々の生活の中のことについても私の考えは及んでいく。映画の中で、私はいつも正しいと思うことを言ってきたのよ!とジョブ・トゥパキにエヴリンが言った場面があった。自分の娘に対してあれこれ口出ししてきたのは、娘を思ってのことだったのだ、と。それにジョブ・トゥパキは、正しさは臆病者が考え出した嘘に過ぎないのだと答えた。実際の社会で、我々は自分にはない考え方や価値観を持った人間を、危険人物として排除することで解決を図っていないだろうか。映画の中でそれをまっとうに実行するアルファ・ゴンゴンは、全宇宙を守るためには仕方ないのだと、自分の娘エヴリンや孫娘ジョイでさえ躊躇なく殺そうとする人物になってしまっていた。本当にそれでいいのだろうか。そのような人物が主張する「正しさ」は真実なのだろうか。自分にはない可能性に、恐怖しているだけではないのか。そう映画は問いかけていた。そして問題と思う人を排除するのではなく、受け入れる結末を用意した。私達も、誰かを「理解できない」として社会から追い出し、その人を消したから社会に何の問題もないぞ、という解決をするべきではないのだ。映画の中、ジョブ・トゥパキは、アルファ宇宙の人達が、彼女の能力を引き出そうと追い込んで訓練をした挙句、虚無を見たのだった。そこを思うなら、我々の社会で起こる問題も、それを引き起こす人も、我々の社会が生んだものなのだろう。だから我々も、エヴリンがそうしたように、全ての人に両手を広げて向き合っていきたい。カンフーポーズをして、打ち倒し、排斥していくのではなく。

 この節ではアルファ・ゴンゴンとゴンゴンが、危険だと認識した人物を、自分の領域から出すという解決をする人物として描かれていることを確認した。そして映画としては彼のように誰かを追い出すのではなく、その人も含めて一緒に生きていこうと述べていることを見た。では、そのような包容ややさしさは、誰に向けるべきものなのだろうか。これまでエヴリン・ウェイモンド・ジョイとゴンゴンという家族を中心に、出来事を辿ってきたが、これは家族愛だけの物語なのだろうか。いや、そうではない。これは家族で完結した話なのではない。そのことを、次節では述べる。

世界の複雑さ―ディアドラの愛―

 第4節では、この映画が、世界は複雑であることを示していることを述べていく。まず、この映画で家族は重要なテーマになっているが、一方で家族だけを愛せばよいのではないことも、映画は伝えている。単純を避けているのだ。そして物事も人も一面的ではないこと、立ち止まって様々な可能性を考えることが必要だとも言っている。

 それを考える上でカギになるのが、国税庁職員のディアドラだ。まず、ディアドラは、どうでもよくなって破壊に突き進みそうになったエヴリンを引き留めている。彼女を虚無から救ったのは、ウェイモンドのやさしさだけではなかった。具体的な場面を見てみる。物語後半、ディアドラがエヴリンのクリーニング店に来るところだ。そこで、投げやりになってクリーニング店のガラスを割ったエヴリンをウェイモンドが助けたことは、第二節で確認した。その時に、ディアドラもエヴリンにいたわりを見せていたのだ。ウェイモンドから話を聞いたディアドラは、自分も夫に離婚届を見せられた時は、隣家に車で突っ込んだものだと、エヴリンを慰めている。そのような話に心を解きほぐされ、エヴリンはディアドラを抱きしめる。そしてタバコ(?)も一緒に吸って、少女のように二人で騒いだ。二人は心底の話をして、お互いに分かり合ったのだろう。

 このように、ディアドラはエヴリンが危うい精神状態になったのを救った一人であった。ウェイモンドだけでなくディアドラのいたわりも物語は描いていることは、家族内の愛情だけでなく、偶然に出会った人へのやさしさも大事なのだと伝えていることになる。ディアドラは国税庁職員でありエヴリンの書類を厳しくチェックしていた。不正を見つけ出そうとする側と何とか乗り切ろうとする側として、国税庁職員ディアドラとクリーニング店経営者エヴリンは敵同士であったが、夫に離婚届を見せられた経験があるというところでは、その辛さを共有していたわり合えた。そしてそのようなディアドラの愛もまた、エヴリンにとっては虚無から脱するのに必要であった。ウェイモンドと抱き合うのに加え、エヴリンはディアドラとも抱擁している。

 この映画は、鏡にエヴリン・ウェイモンド・ジョイが映って三人ではしゃいでいるところから始まる。また、ジョブ・トゥパキがベーグルに行こうとする時には、エヴリンは、私をエヴリンと呼ぶのはやめなさい、私はあなたのママよ!と言っていた。そしてその訴えに応えジョイが戻ってきた際には、クリーニング店でコーラス隊がWe are family!と歌っていた。だから、映画が家族を意識しているのは確かにそうだろう。しかし、それだけでは世界は回らないことも映画はわかっていた。我々は家族との付き合いだけで生きていくわけではない。様々な人に見える形で、見えない形で支えられている。

 偶然のやさしさに助けられていることは、実生活での自分の感情を顧みてもそうだと思う。コンビニの店員さんが愛想よかっただけで今日を生きていける気になれたり、電車で隣にいる人に舌打ちされただけで死にたくなったりする。「理解できない犯罪」として報道されることも、自分もやりかねないとよくわかる。自分はたまたま、全て壊したくなった時に誰かが側にいていたわってくれているから、そうなってないだけだ。でもそれがないなら、自分も誰かと肩がぶつかっただけで、破壊の限りを尽くすかもしれない。

 そのような毎日の生活を考えるなら、私達は家族とか身近な人だけに支えられているのではない。そこここで出会う人に、救われている。映画でディアドラがエヴリンを救う上で重要な役割を果たしていることには、家族愛の話だけにはしないという映画の意志が表れている。

 そして、人間や物事の多面性を考えさせるという意味で、ディアドラとエヴリンは別宇宙では恋人同士であるということも重要である。エヴリンとディアドラは、指がソーセージの人類の世界では恋愛関係であった。

 エヴリンは最初にその宇宙に行った時には、愛を持って迫ってくるディアドラを拒否した。でもディアドラが「月の光」をキーボードで弾いたり、あたたかい言葉をエヴリンにかける中で、彼女を受け入れていくようになる。その一連は、クリーニング店の世界で、ディアドラがエヴリンと個人的な話をして人としていたわろうとしたのと並行している。そして物語のクライマックス、指がソーセージの世界でディアドラが、「世界を救ってきたのは、いつだって私達のようなかわいくない女たちよ」と言うなら「いや、あなたはかわいいわ!」と別世界のエヴリンが返事をする。こちらの世界でアルファ・ゴンゴンの命令でエヴリンの首を締めようとしていたディアドラは、その言葉に号泣するし、指がソーセージの世界のディアドラとエヴリンは、二人で踊るのだった。

 この指ソーセージ宇宙における二人の関係を物語内に挿入しているのは、自分と決して相容れないと思う相手も、もしかしたら自分と共有するものがあるのかもしれないし、仲良くなれるのかもしれない、ということを示すためだ。エヴリンは指ソーセージ世界では、ロングではなくボブであった。ディアドラと同じ髪型である。それが象徴するように、二人は実は似た者同士なのかもしれなかった。実際、クリーニング店経営者と国税庁職員である世界では離婚を夫に持ち出された経験を共有していて、そしてお互い必死で仕事をして生きてきたのだと認め合って、わかり合ったのだった。

 また、国税庁職員であるディアドラは物語の冒頭、エヴリンたちの書類の不正をただす時、フランス訛りだからって舐めるんじゃないわよ、というようなことを言っていた。つまり、彼女もエヴリンたちと同じくルーツは異国にあるのだ。エヴリンと同様、彼女も自分と周りの違いを感じつつ頑張って生活してきたのだ。そのような意味でも、対立していた二人には個人的な共通点があったのだと物語は示唆している。

 そして、指ソーセージ世界のディアドラとエヴリンのことを考えるなら、ジョイのことも思い出そう。クリーニング店のある宇宙で、エヴリンはジョイがガールフレンドと仲良くしていることを始めは受け入れられなかった。しかし、指ソーセージ世界では、自分はディアドラと愛し合うことになっていた。彼女は繊細で愛情深くて、魅力的であった。つまり、自分が否定したことが、別の世界の自分にとっては自然なことであったのだ。このことは、我々が何かを拒絶する時、本当にそれはありえないことなのか?という問いかけになる。それは「理解できない」ことなのか?別の世界の自分は許容したり、積極的であることであったりしないのか?指ソーセージはぶっ飛んだ世界として、我々が狭い世界で絶対としていることを崩し、再考させる。指ソーセージ世界で、ディアドラが愛に溢れた可愛い恋人として存在することは、この世界のエヴリンに自分の常識の再考を迫り、ジョイのあり方を受け入れるよう促しただろう。

 以上、ディアドラを軸に、映画が複雑さを示していることを述べた。ディアドラによって映画は家族愛で完結せずにいた。映画はやさしさが重要と主張するが、やさしさは自分の親しい人にだけではなく敵対するような人にも与えるべきだし、それで人は確かに救われているのだということを、ディアドラを動かすことで映画は示していた。また、クリーニング店世界だけでなく指ソーセージ世界でもディアドラはキーパーソンで、指ソーセージ世界の設定も相まって、彼女は一つの世界での絶対を壊す役割を担っていた。指ソーセージ世界での出来事があるから、この世界のエヴリンもジョイを受け入れられた。この映画はマルチバース!という日常をふっとばすような設定であり、私達は自分の一面的な見方を改めさせられるだろう。そのような映画であるためにも、ディアドラは大事な役割を果たしていた。

 第4節ではディアドラによってもエヴリンが救われていることの重要を述べたが、では救いとは何なのだろう。人にやさしくするとは、結局どういうことなのだろう。そのことを次節では考えてみたい。

私がここにいること―ジョイとジョブ・トゥパキ―

 ここまで、映画が主要登場人物にそれぞれ役割を担わせながら、様々主張をしていることを述べてきた。その中で人の救われについて触れていたが、ではどのようにして人は救われるのだろうか。それは、存在していていい、と言われた時だ。いろいろな準備をしながら、ジョイとジョブ・トゥパキを動かし映画はその答えを出している。

 ジョブ・トゥパキが初めてエヴリンの前に現れたのは、国税庁内でエヴリンが警官に取り囲まれている時であった。ジョブ・トゥパキは豚を散歩している途中だという格好で現れ、厳戒態勢の警官たちはやれやれ困ったなとなる。お嬢さん、あなたはここにいてはいけないと警官の一人は言う。それに対してジョブ・トゥパキは、あなたは私はここにいてはいけないと言うの?私は今こうして物理的にここにいるのに、それはできないということがどういうことだかわかるの?と答える。そして彼女はそれを言った警官を紙吹雪にしてしまった。

 この場面から伝わるのは、私が誰かを、あなたはここに存在できないとして退けるならば、自分も存在しなくなる可能性があるということだ。誰かを何かの理由で消すなら、自分が消えてしまってもおかしくないのだ。人の存在を否定することは、そのような形で自分にはね返ってくるのだぞ、と言っている。

 映画の中で、アルファ宇宙の人達はジョブ・トゥパキを消そうとした。彼女なら、そのようにしてくる人達全ても消すことができたはずだ。でも彼女はそうはしなかった。彼女はベーグルの上に全てを載せて、全てを吸い込むブラックホールを作って、自分を消そうとした。あなたは存在してはいけないのだ、の声に従い、自分を存在しなくしようとしたのだ。

 ジョブ・トゥパキは、自分と同じようにあらゆる可能性を知ったエヴリンも同じ気持ちになると考えていた。世界に意味のあることなどない、自分の存在も意味がない、だから消えてしまおう、という自分に共感してくれると思っていた。しかし、映画の終盤、ウェイモンドのやさしさを感じたエヴリンは、ジョブ・トゥパキをベーグルから引き戻そうとする。別世界では、ジョイの家出を止めようとする。エヴリンはウェイモンドと抱擁し、ディアドラと苦悩を分かち合い、人を認めていくことで自分の場所を確保していくようになっていた。そして、クリーニング店でパーティーが行われている世界では、ゴンゴンにベッキーをジョイのガールフレンドだと紹介し直す。他人のあり方を認めていこうとする。

 それに対して、ジョイと彼女に重なったジョブ・トゥパキは、いいね、あんたは自分を理解できて、私はもう、疲れちゃった、と言う。何て切ない言葉なんだろう。彼女は自分に疲れてしまったんだ。存在していくこと、それ自体に耐えられなくなってしまったんだ。

 エヴリンは、ジョブ・トゥパキをブラックホールに簡単に行かせてはならないと感じていた。自分が駆け落ちした時、簡単に家出させられた経験があったから。でもジョイのその言葉を聞いて、彼女は引き留めていた手を放してしまった。疲れちゃったって言われたらどうすればよいのだろう。

 彼女はそれでも、最後にまたジョイに言葉をかけようとする。あなたは太り過ぎよ、あなたは私の反対をよそに大学を中退したわね、そしてタトゥーを入れたわね、…それは物語の冒頭でエヴリンがジョイに言ったことの繰り返しだ。ジョイがそれを聞いて出ていった言葉を、また彼女は言う。でも今回は最後に、私はあなたといたい、が加わる。もっとマシな娘のいるとこに行かなくていいの?とジョイに聞き返されて、あんたは何をしてもいい、私はあなたといたい、と言う。

 その言葉に、ジョイは家に戻ってくる。別世界では、ジョブ・トゥパキがベーグルの穴から手を差し出す。それをみんなで引っ張って、ジョブ・トゥパキは虚無からこの世界に帰ってくる。

 エヴリンの、私はあなたといたいのだという意思が、ジョイとジョブ・トゥパキを世界に留めた。その思いはすごく強いものだった。それは映画に挿入される、生命存在のない世界線での二人のやりとりからもわかる。彼女たちは生命の存在しない地球に、二人で石となっていたことがあった。そこでジョブ・トゥパキは言う、昔は地球が宇宙の中心だと人間は思っていた、しかし地球は太陽の周りを回っていた、そして私達は素粒子の組合せの一つに過ぎないと今はわかった、この後も、もっと我々が卑小な存在であるという発見をするのかもしれない…。石の状態で二人はおしゃべりする。エヴリンがジョブ・トゥパキに、口が悪いわよ笑と言うなら、石だから気にしないの、とジョブ・トゥパキは返す。そしてエヴリンも、わざと口を悪くして二人でふざけた。ちょうど、ディアドラと離婚について話した時のように、エヴリンはジョブ・トゥパキと並んで、二人で心からのやりとりをしたのだ。その様子は、映画の冒頭のエヴリンとは、全く異なる。ペンキは家用と倉庫用があるのよ、ヌードルは茹ですぎちゃだめよ、パーティーの招待を誰々にしなきゃ…エヴリンは膨大なことに頭を悩ませていた。でも、石になって何もない世界にジョブ・トゥパキと座ってみて、いろいろなことはどうでもよくなったみたいだ。

 ジョブ・トゥパキにとっては、全ての可能性を持つベーグルも、何も存在しない石の世界も、同じであった。全ては意味がない、ということを彼女に感じさせた。でもエヴリンにとっては、違った。生命の存在しない世界だという約束を打ち破り、エヴリン石は動いてジョブ・トゥパキ石に近づく。ジョイとジョブ・トゥパキへの愛を示したくて。動いちゃえ!というエヴリン石に、動くな石だろ!とジョブ・トゥパキ石は言う。でもエヴリン石は、あのキョロキョロお目目をつけて、ジョブ・トゥパキ石に近づいていく。ジョブ・トゥパキが別世界でベーグルに呑み込まれる時、石世界ではジョブ・トゥパキ石は崖から落ちる。エヴリン石はそれを追いかけた。

 エヴリンは石世界に行って、全てはどうでもよくなったけれど、ジョイだけは大切だった。だからその世界のルールを破って、意思を持って動いた。世界のきまりはどうでもいい、あなたを失いたくない、あなたにいてほしいという思いがあった。そのエヴリン石の行為は、別世界でジョブ・トゥパキがベーグル消えた瞬間に宇宙が「正常」になったとされたけれど、それでもエヴリンはジョブ・トゥパキを呼び続けたのと、並行していたことだった。世界はどうでもよくて、あなたが大切だ、というエヴリンの思いの強さがあったから、ジョイもジョブ・トゥパキもこちらに戻ってくることができたのだ。

 そしてジョブ・トゥパキは、ベーグルから無理矢理引き戻されたのではなかった。彼女はエヴリンの言葉を聞いて、一度入ったベーグルから自分で戻ってきたのだった。これは重要だ。虚無を感じ、もういたくないと思った人は、この世界にいてもいいんだと自分で確信ができて初めて、やっぱりいようと思えるのだ。あなたはいていいのだと誰かに言われるだけでなく、その言葉を受けて、自分はいていいのだとなれることが、人が存在するには必要だということだ。ジョイとジョブ・トゥパキが救われることは、つまりこの世界にいたいという自分の意思を示したことであった。自分で自分を認められるかどうかが決定的なのだ。

 ここまで、ジョブ・トゥパキとジョイを軸に、映画が人にやさしくするということはどのようなことであるとしているか、考えてきた。やさしさとは相手を受け入れるということで、あなたといたいのだという表明であった。世界のルールに反するとしても、あなたが大事なんだという思いが、人を救うのだ。そのような思いを持つことが、キョロキョロお目目を開くということなのだった。

 でもそんなふうに人と向き合うのは結構難しい気がする。実生活で、我々は本当に人にやさしくあり続けることができるのだろうか。映画はそこを補足もしている。次節ではそれについて考える。

我々はキョロキョロお目目を持てるのか?―ラストシーンの意味―

 ここまで、映画の様々な主張を、キーパーソンを立てながら説明してきた。そのメッセージの補足の形で、映画はラストシーンを用意している。ラストシーンはある意味、映画のメッセージを受け止めた観客を、救うものでもあるようだ。だから、観終わった私の感想を少し綴り、その後にラストシーンがどのような助けをしているのかを考えたい。

 人にやさしくしなきゃ、相手が攻撃してくるとしても両手を広げて迎えなきゃ、そうすることが誰かを救うのだから、そうしなければ世界が壊れてしまうかもしれないのだから…。映画を観てそのことに気づいた時、おいおい泣いてしまった。家に帰りながら号泣した。そんなの、しんどいじゃないかと。相手が返してくれるかわからないのに、やさしくし続けるなんて。思いを注ぎ続けるなんて。私に神になれと言うのか…!

 そして映画内で開眼のしるしであったキョロキョロお目目は、手芸コーナーにあるような目玉シールであった。シール!何て取れやすいんだろう。一方、ジョブ・トゥパキの作ったベーグルは、映画内でエヴリンのクリーニング店の洗濯機に重ねられ、また国税庁でレシートにディアドラがつけたペンのぐるぐるに連想させられていた。それらは、ぐるぐる繰り返される日常を象徴していた。エヴリンが全てが嫌になり自分の店の窓ガラスを破壊した時、彼女はマイクで相変わらずの日常への不満を叫んでいた。今年も税金、税金、また来年も…!うんざり!!私達は日々を生活する中で、ベーグルに陥りがちなのだろう。永遠に変わらない毎日、何の意味があるんだ?そしてまた、ベーグルは人の瞳にも重ねられていた。これはつまり、人が世界を眼差す時、眼は容易にベーグルになってしまうということだ。世界は無意味なんだ、何もないんだ、と思ってしまいがちなのだ。やさしさの開眼の象徴はペタッと皮膚につけて、ペロっと剝がれてしまうようなキョロキョロお目目シールである。一方、もうどうでもいいやとなって、自分や他人への破壊へ向かう状態は、私達の瞳孔そのものが象徴していた。やさしさに目覚めても、それは外的に安易に身につけたような気になっただけで、失いやすいらしい。対して、何もかもが無意味だという認識は、我々に本来的に備わっているもののようだ。私達はすぐに世界に虚無を見てしまう。

 そして我々はどんどん、虚無に陥りやすくなっている。インターネットの影響は大きい。映画の中でジョブ・トゥパキは、ありとあらゆる可能性を知って、それを自分に発揮することができていた。彼女は一度として同じ格好で現れない。ある時はキャディー、ある時は小娘風、ある時はゴスロリ…。それはまるで、ネットで世界と繋がり、コミュニティそれぞれで適切な自分を使い分ける我々のようだ。でも自分が百面相をできるなら、どの自分も自分でないような気になる。映画でジョブ・トゥパキがベーグルから戻ってきた時、彼女は初めてメイクなしの普段着の格好になった。彼女はその時その時で求められる自分を演じていたし、それをすることに長けていたのだろうけれど、それは彼女を辛くさせ、存在したくないと思うまで追い詰めた。エヴリンにあなたといたいんだ、と言われて、演じない自分を肯定できたから、ジョブ・トゥパキはノーメイクのパーカー姿になれたのだ。

 また、私達は今、ネットによってあらゆる情報を瞬時に得て、どこへでも行ける、何でも手に入る、というような錯覚の中にいる。全ては手のひらに。そして全てから選び放題なのだと。しかし、何もかもが並列するなら、我々は何も愛せない。傾きと偏りから意味は生まれるのに、それができないなら、自分は何をしているのだろうとなる。

 このようなことを考えるなら、我々のすぐ側に虚無のベーグルはあるのだし、ジョブ・トゥパキは我々にとても近しい。キョロキョロお目目よりベーグルが、ウェイモンドよりジョブ・トゥパキが、我々だ。

 それでもなお、人に愛を示しやさしくし続けないといけないのか…?ウェイモンドのような忍耐強さを持って、世界に向き合い続けなければならないのか…?それは辛過ぎないか…?映画の後、自分は悶々とした。しかし、そのような思いに応えるようなラストシーンであったことを、私は思い出した。映画の終わり、エヴリンがジョブ・トゥパキをベーグルから救った後日談がある。それは以下のようなものだ。

 エヴリン・ウェイモンド・ゴンゴン・ジョイは、ジョイのガールフレンドのベッキーの車に乗せられて、税務署に再度来ている。その時、エヴリンはベッキーに髪を伸ばしなさいと言う。言われたベッキーはジョイと、やれやれしょうがないなという表情をする。エヴリンは開眼したはずだった。しかし、何か気に障ることがあるなら口出しをしてしまう。また、ディアドラは、再度税務署を訪れたエヴリン達に、前回よりは提出物はよくなっている、しかしここはまだ駄目ですよ…と、税務署職員として対応する。このような光景が物語の終わりにあることは何を意味するのだろうか。私達が人に寛容であろうとしてもできない時があること、また仕事として誇りを持って譲れないことがあること、それを認めているのだ。映画は、人にやさしく、というメッセージを伝えるけれど、それによってできる世界が、摩擦ゼロの社会ではないということを最後に付け加えている。人と人が関わる以上、不愉快とか苦しみとかがなくなることはない。しかし、それも含めてお互いを受け入れているという感覚があるなら、大丈夫だ、ということなのだ。エヴリンはウェイモンドと、ジョイと、ディアドラと抱擁した。あなたといたいのだ、とそれぞれに示している。それがあるなら、個人個人がぶつかったりすることがあっても、我々はやっていけるのだ。映画は、「誰もが過ごしやすく」とか「みんなにやさしく」とかを言った挙句、つるつるした作り物のような世界を提示するのではなかった。軋みぶつかりながら、それでもお互いに存在していくのだという世界を物語は結末にしている。キョロキョロお目目の目玉シールはとれやすい。人にやさしくしようと思っても、できなかったりする。でも、相手を受け入れているなら、そしてやさしくできる時にやさしくできたのなら、そのやりとりができるのなら、世界は何とかなっていくはずだ。つるつるした、何の負の感情もない世界ではなく、お互いが張り出したりぶつかりながら共存する世界を示すのは、この映画の周到さである。

 第6節では、映画を観た自分の感想も交えつつ、ラストシーンの意味について考えた。映画は複雑な世界を示しつつ絶対を否定し、他人への寛容を訴えていた。人が存在するためには、存在していいのだと認識し合えることが必要なのだと述べていた。しかし、何の衝突もない世界をその結果として空想するのではなかった。後日談で、エヴリンはやっぱりエヴリンで、いろいろなことが気になって口を出していたし、ディアドラはちゃんと職員で、エヴリンに聞いていますか?と迫って、新しい問題点を赤いペンでぐるぐるした。「誰もが居心地のよい社会へ」とか、言葉だけが走る最近を感じるから、このような映画の終わり方に自分は安心した。お互いの存在を認めながら生きていくということは、お互いのぶつかり合いも含めて、それも受け入れて生活していくことだ。人が存在するとは、そういうことだ。映画はそれを確かめて、終わっている。

おわりに

 この感想文では、映画エブエブについて述べてきた。エブエブは、選ばれた人間が悪を倒し宇宙を救う、というありふれた物語をひっくり返し、それぞれの人々のやさしさが、世界が成り立つために大事なのだということ主張していた。キーパーソンを立てながら、排除では問題は解決しないこと、存在を肯定することが人の生には重要であることを述べていた。そして、マルチバースの設定を駆使して、常識や絶対を否定した。さらに、「人にやさしく」とただ言い放つのではなく、個人個人が関わることによる軋みを認めながら、それでも他人に手を差し伸べなさいとする。それこそが世界を、あなたを、救うのだと。秀でた者や特殊能力を持つ人間の、並外れた働きによるのではなく、生活するそれぞれのやさしさが重要なのだ。エブエブは、マルチバースの話をしながら、私達が現実の中で、どのように生きていくべきかの話をしている。0か100か、で世界を見ることに流れがちな現在にいて、どうやってそれから逃れるか。もう何も意味ないじゃないか、世界なんてなくなってしまえ、という思いになってしまうところから、どう立ち直るか、大切な誰かを立ち直らせるか、を考えている。そんな複雑さと周到さと切実さを持ちながら、めくるめく鮮やかな映像とカンフーの面白さと斬新さで、何とも素晴らしいエンタメになっている。自分が内容を言葉にしようとしたらこんなにまどろっこしいのに、映画は全てを映像で素敵な衝撃と共に伝えてくる。

 個人的なことになるが、この映画は最近自分が考えていることにも通じていたように思う。近頃は「当事者」という言葉をよく聞いた気がする。当事者の方々の思いに寄り添っていないとか、当事者の方々はこの法律に不満を持っているとか。でもそれは、誰かを私達と全く別の人々として扱っている言い方だ。我々との間に線を引こうとするような。しかし、皆この世界に生きていて、存在を肯定されたいというところでは同じであるはずだ。映画で指ソーセージのエヴリンがいたように、自分も違う考え方や気持ちを持つ可能性はあるはずなのだし、私はここにいていいのか?という問題としては、全ての人の問題だ。だから、映画エブエブの後日談のように、ぶつかったりすることがあっても、あなたも私もここにいていいのだということは不変で確実なんだと思い合いながら、生活していきたい。

 自分はキョロキョロお目目を開けただろうか。虚無に流れずに生きていきたい。長くなってしまったけれど、この感想が誰かの開眼を促すのなら、幸いです。

⑴脚本・監督・製作のダニエルズ(ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートによる監督コンビ)のシャイナートの、「この作品で、思いやりこそがいちばん強い武器だということに気づいてもらえたら最高です。」の言葉が「エブエブ」パンフレットに記載されている。

⑵町山智浩によるインタビューで、シャイナートは、「この映画を作っている間の僕らの課題は、SF大冒険を続けながらも、究極的には税金とランドリーの問題から離れないことだった。…(中略)…いつだって今の家族の単純な問題に戻ろうと意識してたんだ。」と述べている。(「エブエブ」パンフレットより)

⑶同じくインタビューで、シャイナートは、ニヒリズムを「敵」とする映画を作ろうとしたものの、脚本を練り始めてニヒリズムにも価値があり、闇落ちもいい経験だと思えたとして、「この映画の最後に、「何もかもどうでもいい」はいい言葉になる。エヴリンは「(あなた以外は)何もかもどうでもいい」と言って娘を抱きしめてお互いに笑う。この映画はそこにいたるまでの旅だった。」と述べている。(「エブエブ」パンフレットより)

映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式サイト (gaga.ne.jp)

※画像はphotoAC(写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK (photo-ac.com)(ID:27043188 作者:【FW】フォトグラファーK)より

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