アリストテレスの錯覚とは何か

アリストテレスの錯覚とは何か

 「アリストテレスの錯覚」を皆さんご存知だろうか。これはアリストテレスの犯した錯覚、という意味ではない。アリストテレスが示した錯覚の例のことである。それなりに有名なアリストテレスの錯覚であるが、一体どの著作で言及されているのだろうか。またそれはどのような意味だったのだろうか。

アリストテレスの錯覚

 アリストテレス の錯覚とは指を交差させてその間にペンか何かを挟むことで、その挟まれた物が二つに感じられる現象のことである。実際どういう状況か思い浮かばない人は【「神の盲目」と「アリストテレスの錯覚」|webふらんす】で示されている図をみていただきたい。正直なところ、これを試しにやってもまったく二つに感じられないのだが、そこは今回大事なところではない。今回見ていきたいのは、どこでアリストテレスがこの現象について言及しているかである。

夢とアリストテレスの錯覚の関係

 実は、彼が「アリストテレスの錯覚」に言及しているのは「夢について」という論考の中でである。そこで彼は次のように述べている。

また指を交差させることによって、一つのものが二つに感じられる(現れる)のだが、だからといって我々はそれが二つであると主張することはない。というのも視覚の方が触覚よりも妥当だからである。

『自然学小論集』「夢について」 460b20

 「夢について」という論考はほとんど知られていないと思われるが、フロイトが『夢判断』でこの論考に言及しており、かなり詳細に検討したらしいことが分かっている。知る人ぞ知る論考なのである。

 しかしなぜ夢についての話なのに錯覚が登場するのか。この論考ではアリストテレスは、夢と錯覚を同じカテゴリーとして考えている。どちらも感覚していると間違って思っている状態であると。つまり「誤り」という点で夢と錯覚は同じなのである。そういうわけで、夢の分析で「アリストテレスの錯覚」が登場したのである。

メルロ=ポンティの「アリストテレスの錯覚」分析

 さてアリストテレスはこの錯覚に対して、錯覚するけれどもそれを信じることはない理由を述べている。なぜなら「視覚の方が触覚よりも妥当だから」である。つまり視覚の方が間違う可能性が低いということだろう。例えば目をつぶって物を触ってみても、それが何なのかを当てるのは非常に難しいが、見たら一発である。そういう意味では確かに視覚の方を信じた方が良いことになる(もちろん視覚が錯覚することもあるが)。アリストテレスはこの錯覚に対して、なぜ錯覚を信じないのかという分析を行ったのである。

 他方でメルロ=ポンティは、この錯覚に対して、なぜ錯覚が生じるのかという観点から分析を加えた。指の位置がいつもと異なるということはどういう意味を内包しているのか。

二つの触知覚をただひとつの対象に綜合することを不可能にするのは、指の位置が不自然であるとか統計的に稀であるということよりも、中指の右の面と人差し指の左の面とが対象を共同で探索するのに協力することができないということ、こうした指の交差が、無理にさせられる運動として指そのものの運動可能性を踏み越えており、ある運動を企図しようとして試みられるものではないということである。

『知覚の現象学』6頁。

 指の位置が不自然だ指摘することは事実を言っているだけで実は何も明らかにしていない。そうではなくてここで読み取るべきなのは、ペンやボールをひとつの対象として綜合するのには身体の協力が必要だということなのである。物がそこにあってそれを人が認識するのではなくて、身体の部分が協力することで、物が物として現れてくるのである。このように物の世界を成り立たせているような身体のあり方をメルロ=ポンティは「身体図式」と呼ぶ。「アリストテレスの錯覚」は身体図式の証明なのである。

参考文献

M. メルロ=ポンティ『知覚の現象学2』竹内/木田/宮本訳、みすず書房、1974年。

Aristote, Petit traités d’hisoire naturelle (Collection des universités de France), éta. et tra. René Mugnier. Paris, 1953.

こちらは哲学用語特集 – 〇〇とは何か – に収録されています。こちらもぜひご覧ください。

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