メディアと現代をどう考えるか【隔月現象学論考(9月)】

メディアと現代をどう考えるか【隔月現象学論考(9月)】

メディアと現代をどう考えるか

 『哲学と人類』を読んだ。それによると、コロナは新たなる人類の形を提示したという。

 それが「分散と管理」という社会のあり方だ。フーコーが近代社会を描き出すときにそこにはペストという病が念頭にあったという。そこで登場したのが「パノプティコン」であり、近代型の「規律と訓練」の社会だ。しかしコロナに出会ってみると、パノプティコンのような監獄による監視は一変する。むしろ、大衆を泳がせておくのであり、泳がせながらも管理するのがデジタルテクノロジーである。逆に言えばデジタルテクノロジーはこの「分散と管理」という社会形成を可能にしたのということになる。

 そのようなポスト近代の社会では、自由な主体性が強調されるという。しかしながら、そのような自由な主体性と言っても背後にはAIなどによる情報管理が潜んでいる。監視の目がやんだわけでなく、ある意味でいっそうす進んでいるともいえる。そこで例えばノルウェーの社会学者トマス・マシーセンは、フーコーの「パノプティコン」を刷新して「ポリオプティコン」という概念を提唱する。「ポリ」は「多数」を意味し、「ポリオプティコン」は、SNS的状況では、少数の人が多くを監視するのではなく、多数の目が相互監視をすることを言い表している。また『哲学と人類』の著者である岡本裕一朗氏はさらに刷新して「モノプティコン」という概念を提唱する。「モノ」は日本語の「物」と単一を表す「mono」を兼させた言葉で、AIというデジタル情報機器(物)による統合された(mono)監視を言い表している。少なくとも、ポスト近代(コロナ以後)では、さらにメディアと人間との関係がかわりつつあるようだ。

 メディアの発展と現代をどう考えるべきであろうか。『哲学と人類』を読んでいくと、へーリッシュの議論が出てくる。ドイツのメディア学者ヨハン・へーリッシュは『メディアの歴史』で、Sinn(意味、感覚)という単語の二義性に注意を促している(原題は「感覚(Sinne)と意味(Sinn)」)。メディアの歴史はこの二義性に注目すると、二つの大別できるという。まずは音声と文字という言語メディアに支配された「意味」の時代でホモ・サピエンスから18世紀まで続いていく。次にくるのがラジオや映画テレビなどの技術メディア支配の時代でこれが19世紀以降のことである。「感覚と意味」という原題は、要するに、「意味から感覚へ」ということである。そして、岡本によれば、20世紀末からのデジタルメディア革命によって新たな局面へと進められる。それが「数字」の時代の到来である。意味→感覚ときて、現代は数字が支配する時代となったということである。

 大体の場合、数字の到来は微妙なメランコリー入りでメディアの消滅(メディアの差異の消失)と人間のある種の敗北と結びつけられる。また、バイオテクノロジーの観点からすれば遺伝子操作などによってホモ・サピエンスが終わりを迎えポストヒューマンが誕生するという見方もあるらしい。とにかくも物が人間の支配を超えて大変活躍する時代が来ることはもはや自明なようだが、人間的主体はおそらくいつだって敗北しないだろう。

 そもそも「数字」の到来は何も意味していない。僕らには、数字が到来しようがテレビはテレビであるしラジオはラジオである。そこからペシミズムを持ってくるのは自分が神だと錯覚したもののおごりのようなものだろう。意味と感覚は認識の次元であったが、数字はデータの次元である。やはりたぶんだがなにもそれ自体は何も意味していない。

 デジタルメディア革命は起こった。数字とは別の次元で、つまり主体の次元で何が起こりつつあるのかが現象学的には重要である。大事になってくるのは感覚の優位とメディアによる主体性の獲得となるだろう。

 こういったことをすでに言及している人たちもいる。最も明快に述べているのは宇野常寛だろう。彼は見田の図式を引き継いで非現実の側から現代社会を考察していく。そこで彼が主張しているのは現代は「拡張現実の時代」だということだ。

 宇野は拡張現実の時代という概念を『リトル・ピープルの時代』以来一貫して主張している。彼によれば、見田そして大澤の反現実が時代のモードを決定したという図式に従えば、現代の情報社会における反現実とは、情報技術によって拡張された現実のことなのだ。見田宗介の図式では1975年までのものであった。終戦の1945年から1960年(安全保障条約改正)が「理想の時代」その後1975年までが「夢の時代」、1975年以降が虚構の時代である。弟子の大澤真幸は「虚構の時代」の終わりを地下鉄サリン事件のあった1995年に設定する。そして彼はその後の時代を「不可能性の時代」として位置づけた。宇野はそうしてないが、こう位置づけることも可能だろう。「不可能性の時代」のあとにくるのが、「拡張現実の時代」だと(境界線はやはりSNSなどの普及時期となるだろう)。

 拡張現実の時代では、「いま、ここ」の現実を拡張し、変えていくための想像力こそが優先される。さらにはまた、情報技術の発展は劇映画などを見て共感する「他人の物語」の享受から、自分の体験を発信して面白がる「自分の物語」へと娯楽の中心を移行させている。拡張現実の時代にはこれらは常態化する。誰もが自身の体験を気軽にスマホから発信できるだけでなく、誰かの発信を享受できる。これらが私たちの日々の生活の隙間を埋め合わせる。私たちは道を歩くようにスマホを見るようになった。

 反現実が拡張現実化したことで、現実と反現実としての拡張現実の境は非常に曖昧なものとなった。いつだって私たちは劇場の主役や脇役であるわけだ。もちろんそれはそれで様々な抑圧の発散になっているのかもしれないが、うつ病患者は増えているらしい。主体はさらに不安定な存在になってしまった。主体はやろうと思えばどこまでも自分を加工をできる。もちろんいくとこまで行った先に、大して良い結果は残ってないだろう。

 主体が俳優となったということは、現実が劇場化したということだ。思うにどうも最近は全てが滑稽に見える。さまざまな人間がさまざまにパフォーマンスすることで拡張された現実は現実感が薄くなってくる。そんなにおかしなことをするのはSNSに上げるためであろうか。あるいは誰が別の人のSNSで拡散させるためのだろうか。分からないが、まさに世界は「自分の物語」のための素材であり、その虚構作用は日に日に強くなっていると感じられる。

 現代思想が同一性の方に力点を置くのもそういったことが背景にあるのかもしれない。『現代思想入門』の著者である千葉雅也氏は現代思想(ポスト・ポスト構造主義)の特徴を、同一性の側に何らかの肯定的な意味を持たせることと主張している。同一性の核となるのは主体の身体だ。身体は内に変化を宿している。その意味で身体の同一性は仮固定的なものだ。主体の不安定さのなかでは現実としての身体を肯定することが必要なのだ。

 また宇野の『遅いインターネット』では、非日常×他人の物語を日常×自分の物語にするために、自分の足で走ることが主張される。現実世界においては、ランニングやヨガなどのライフスタイルスポーツがそこに入り、同じようにインターネット上の情報世界でも自らの足で走って行こうよ、ということだ。どちらも一理ある。

 藤本タツキの漫画を読んでみよう。『ファイアパンチ』も『チェンソーマン(第一部)』でも、今までよりどころにしてたものや信じようと思っていたものが突如として消えてしまう。ファイアパンチが殺そうとしていたドマは、見つけた時には改心して悪い人間ではなくなっている。『チェンソーマン』では、当初公安の目的は銃の悪魔の居場所を突き止めることであったが、実は銃の悪魔はすでに何者かによって倒されており、彼らの存在意義は最初からなかったことが明らかとなる(マキマは知っていたのだが)。一つの大きな意味が消失してしまう。そんな中でデンジは自らの欲望を次々に変化させていく。彼の最初の欲望は「普通の暮らし」というやつであったが、最終的に「普通の暮らし」には回帰しない。むしろヒーローになりたいと拒絶する。「終わりなき日常」も所詮は最終到達点にはならない。「普通の暮らし」は普通につまらない。結局デンジはマキマを食べ、チェンソーマンというヒーローになる。物事が高速で変わり続けていく感じは、非常に現代チックだ。

 もうひとつデジタルメディアの時代になって考えてみたいものがある。それは「暇」というものである。『ファイアパンチ』にはその暇が登場する。ユダは一人の男の幸福のために地球の外側から地球に栄養を送り続ける。しかし数百年後には自分の名前さえ忘れてしまっている。それぐらい暇である。自分の役だけでは忘れてはいけない、という。しかし地球は隕石か何か衝突し粉々に粉砕されている。役だけが残り、意義すらない。

 いくら拡張現実の時代になっても現実の拡張は有限である。おそらく欲望がつきることはない。拡張現実の時代になってさらにはっきりしてきたのは、主体の底は空虚だということだ。何をやっても満たされることはない。しかし、それはそこに到達していないからでも、到達できないからでもない。到達しても何もないのである。

 マルク・リシールはそこに創造性があるといった。だからこそ芸術家というのものを好むのだ。しかし、芸術家は無ではない。彼らは様々な道具を使ってそれを表出する力を持っている。それが強ければ強いほど、芸術的センスは優れていると言える。あとは時代に乗っかり社会に受け入れられれば天才と呼ばれるだろう。しかし主体は根源的に暇なのであり、何かすべきこともないのだ。主体は表出する力を根本的には持っていない。哲学は思うにそこで崩壊するし、あまり意味がなくなる。しかし、こういったことだけが死をうまく説明できるはずである。

 補綴性(prothéticité)というスティグレールの概念があって、その意味は「自分の欠陥を補うために技術を使うこと」だそうだ。メディアとは私の欠陥を補うために使用されている。しかし最近のデジタルメディアの状況の中でわかってきたのは、人間の最大の欠陥は根源的に暇であることであり、主体の生に意義はないということである。生きる意味を知らないのではなくて、根本的な次元において生きる意味はないのである。この欠陥を埋め合わすように我々はSNS等々を使いこなす。それは何かを技術を習得するのではなく、根源的に暇だからであり、退屈だからである。だからといってハイデガーのように存在に目覚めようということもできない。というのも存在そのものも制度であり、これも飽きるからである。

 しかしこの暇である人生を肯定したい。逆説的に時間は無限に有り余っている。実際、意義があろうがなかろうが生きていくわけだから。そういえば『左ききのエレン』という漫画がある。天才になれなかった全ての人へーーと触れ込みがされており、才能をめぐる物語の中で主人公の朝倉は凡人代表とされている(今のところ)。しかし、天才など初めからいやしないのだ。いてもそれは社会と自分の趣味が適合した存在のことを言うのである。あの漫画では登場人物の皆が天才に対して何か嫉妬みたいのものを感じている。主人公はその最たるものなわけだ。しかし時代はおそらく真逆の方向を示している。『左利きのエレン』の主人公を天才にまったく回収されないものとして描くとき(結局のところ主人公は天才である)、つまり天才に対して畏敬の念とか尊敬とか嫉妬とか感じることのない存在として描き出すとき、そこには新たな生き方、価値観が創出されているはずである。

 

 

哲学カテゴリの最新記事